昨日、いづみ幼稚園の始業式がありました。その中でわたしは子どもたちに「死ぬ」ということについてお話をしました。
ゲームなどで自分の扱うキャラクターが倒されたり、失敗してクリアできなかったりする時に、気軽に「死んだ」などと言うけれども、それはいけない。なぜなら「死ぬ」ということはとても大切なことなのだ。この世界でのいのちがなくなることだから。いのちあるものでなければ死ぬことはない。「Kさんが死んだ」という知らせを大切なこととして受け取って欲しい。概略このようなお話をしました。
人は等しくただ一度生まれただ一度死にます。一度しかないのですから重大な出来事です。死は一つの終わりです。この世界で顔と顔とを合わせる機会がもはやなくなったという意味で、わたしたちとKさんとの関係に一つの節目が訪れました。地上で挨拶できないことは痛恨の極みです。あの素話を聞けないのは淋しいことです。喪失感を埋める術がありません。
ただし死は新しい関係の始まりでもあります。地上にある間、わたしたちは黒田さんと会うためには、幼稚園や教会やご自宅を訪れなくてはいけませんでした。顔と顔とを合わせるためにです。この関係はかけがえのないものですが、しかし限界があります。自由ではありません。特に昨年秋頃から毎週の日曜日の礼拝にもお越しになれなかった際に、その限界をわたしたちは感じておりました。
今やKさんは天で神と顔と顔とを合わせる交わりに入られました。そのような人を地上のわたしたちが記念し、覚え、偲び、共に悼む時に、その人はよみがえらされるのです。それが同時多発的なものであっても、地上の肉体ではありえませんが、亡くなった後ならば復活し、わたしたちはその人と出会うことができます。「あの人はこのような人だった」と語る輪の中に、Kさんは確かにいらっしゃるのです。
古代の人はそのことを「霊のからだ」と表現しました。地上の肉体と、霊のからだをもつ先に亡くなった方との新しい関係が、ここに始まります。
Kさんを偲ぶ集まりの趣旨がここにあります。十字架で殺された方が信者たちの間でよみがえらされたのと同じように、今、Kさんは、彼女を記念する交わりの中によみがえらされています。そのことを信じて今日という日を大切に過ごしたいと願います。