3月「父母の会」礼拝説教

ヨハネによる福音書10章3-4節

「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。」

羊飼いと羊との関係は、リーダーシップとは何かということを考えさせます。わたしたち日本に住む者には、遊牧民の文化・習慣がぴんと来ない面があります。古代パレスチナに住む人々には、イエスの譬え話の意味がはっきりと伝わったのでしょう。

確かに羊には一頭一頭名前が付けられているようです。また羊は先頭に立つものがいると従順に後ろにつき従って歩くという習性を持っているのだそうです。それぞれの羊は、自分の羊飼いの声を聞き分けることができるのだそうです。理想的なリーダーシップの譬えとしてこのお話はあります。

幼稚園の園外保育の風景が、この羊飼いと羊たちの譬え話と重なります。二人の教師が先頭と末尾について、その間を一列になった子どもたちがリュックを背負って歩いていきます。下馬あたりの名物の風景です。交差点を渡るとき、道を横切るとき、羊飼いである教師は指示を出します。その声に子どもたちは従います。また、一人一人の名前を呼んで、注意を促すこともあります。「手すりを使わずに自分の足で歩きましょう」「白い線からはみ出ないように」「前の人から離れずに」などなど。

教師と園児の場合はわかりやすいものです。

問題は子ども同士でリーダーシップを発揮することができるかということです。昔のガキ大将が良かったなどと単純に言うものではありません。しかしその一方で、社会現象としてリーダーシップを取る人が少なくなってきたのは事実だと思います。子どもたちに覇気ややる気が少なくなってきた(留学しようという若者の減少)、より大きな責任感を持つ人の減少・人をまとめることにやりがいを感じる人の減少、またその技術の停滞です。子どもは大人の鏡ですから、わたしたち大人にそのような傾向があるということでもあります。

今日の聖句に引きつけて考えるならば、問題の根っこには「コミュニケーション能力」と昨今呼ばれることがらがあるように思えます。面と向かって名前を呼び合い、顔を合わせ、目を合わせて、自分の声と声とでやりとりすることが、希薄になっていることに問題の巣があるのではないでしょうか。大人同士も直接のやりとりを億劫がっていないでしょうか。また保護者が子どもの行動する前に先回りして、子どもが何も声を発さなくてもサービスしてしまうことがありはしないでしょうか。携帯電話が普及する前、きわめて念入りに待ち合わせについて打合せしたことを思い出します。確実にわたしたちは待ち合わせのための話し合い技術を低下させています。

人と人との直接の出会いを促す保育でありたいと願っています。固有の名前を呼び合い、固有の声を直接聞き分けることができるお互いでありたいと願っています。それは便利すぎて何かを失いがちな世界に対する対抗文化の形成となるでしょう。