3/11今週の一言

3月11日の聖書のいづみではマタイによる福音書6:9を学びました。「偽善者たちシリーズ」(6:1-18)の中に収められた「主の祈り」の第一祈願です。

「主の祈り」はルカ11:2-4にも記載されています。マタイとルカのみに収められているイエスの言葉については、それぞれの福音書に載せられる以前の段階で、共通の伝承/文書があったと想定されています。だから、両福音書に共通の部分は、元来のイエスの言葉に近いと推測され、両福音書で異なる部分は各福音書記者や編集者たち/福音書の読者たちの強調点であると推測されます。

「主の祈り」の全体文脈と第一祈願における共通点は、イエスが命じた祈りの言葉であるということと、「父よ」「御名が崇められますように」という文言です。おそらく「父よ」は、アラム語「アッバ(お父ちゃん)」の翻訳です。これらは生前のイエスの生の言葉に由来します。

マタイ/マタイの教会は、「願う前から求めをご存知の神がいる。だからこう祈りなさい」という構造を大切にしています。何でも知られているならば、祈る必要は無いようにも思えます。しかし信仰というものは、そのような常識の逆を行くものです。赤ん坊の求めのように、知られていることに全幅の信頼を寄せた、魂の叫びこそが祈りの本質なのです。この素直な願いという点では、イエスの用いた神への呼びかけ「アッバ」の持つ急進性を、マタイもよく保存していると言えます。

全般的にマタイは「天」という単語を好みます。マルコが「神の国」と言うところを、あえて「天の国」などと改訂していきます。ここには悪い意味の抽象化があります。折角イエスが近づけた「地上のお父ちゃんたる神像」を、また天のかなたまで遠ざけてしまった感は否めません。

今日わたしたちが崇めるべき神の名とは何なのでしょうか。フェミニスト神学からの異議申立は重要です。父・子・聖霊という伝統的な三位一体の教理が、司祭を男性のみに限るという性差別に悪用されたことへの反省を促すものだからです。「アッバ」という呼び名でさえ批判の対象となります。DVなどの課題を考え合わせれば地上の父親や母親でさえ、決して神のたとえになりえない場合があるからです。神は性別を超え、親というくくりにも入りきらない、もっと大いなる存在として、わたしたちの信仰の対象です。神は神です。 JK