この人は誰か ヨハネによる福音書7章40-52節 2013年11月3日礼拝説教

 ガリラヤ地方のナザレ村出身のイエスとは誰なのか、ヨハネ福音書は「イエスは神の子である」と言いたいのです。そしてイエスが神の子であるということは、面と向かって話をしたり、共に食事をしたり、同じ場所に宿泊をしたり、いやしてもらったりすると、必ず分かります。お互いをよく知る全人格的な交わりがあるときに、その人の中にイエスに対する信頼が生まれます。

この出来事はこの世界で肩身を狭くさせられている人によく当てはまります。理由のない差別や抑圧を受けている人たちは、イエスが神の子であるということを信じやすいものです。今までにも、ガリラヤ地方の人たちがそうでした(アンデレ、匿名の人、ペトロ、フィリポ、ナタナエル)。首都エルサレムがあるユダヤ地方の人々はガリラヤの人を差別していました。イエス自身や、イエスの最初の弟子たちがガリラヤ出身者であることは偶然ではありません。

またサマリア人もそうです。サマリア人は、ユダヤ・ガリラヤ両地方を含むユダヤ人全般から差別されていました。イエスがサマリア人の居住地域を通行するのは偶然ではありません。さらに言えば一人のサマリア人女性からサマリア人伝道が始まったのも偶然ではありません。今よりも女性差別が厳しかった時代です。サマリア人女性はイエスに声をかけられて嬉しかったのです。

病人やその家族もそうです。古代のことです。病気は罪の結果、つまり「バチが当たった」結果と考えられていました。本人や家族の罪のために呪われたという迷信がまかり通っていたのです。イエスは王の役人の息子や、ベトザタの池にいた男性の病気を治しました。その行為は迷信によって苦しんでいた人の解放になりました。だからイエスを全人格的に信じることができたのです。世界で小さくされている存在が、イエスに面と向かい人間らしく尊重され大切に愛された時、「もし神が地上に降り立つならこのようにふるまうだろう」ということが分かります。

今日の聖書の箇所は、今申し上げたことと逆の事態を記しています。どのような人々が「イエスは神の子である」と信じられないのかということの事例紹介と言っても良いでしょう。それは単純な法則です。イエスと人格的に交わりが無い人や、世界で幅を利かせている人は、イエスを信じることはありません。この人が誰なのかがわかりません。わたしたちは今日の物語を読んで、このような信じない人にならないで信じる人になることが求められています。

信じない人々の第一のグループは「エルサレムの群衆その1」です。この人たちの特徴は旧約聖書をよく調べていることと、ユダヤ地方中心主義・中央集権志向です。40節の「あの預言者」とは申命記18章15節に書かれている人物のことです(旧約309頁)。簡単に言うと、「モーセの再来」です。ユダヤ人たちは申命記が書かれてから、ずっと「あの預言者」を待ち望んでいました。そして、イエスの時代には、世の終わりに来るメシアと同一視したり、メシアの前に来るはずの預言者エリヤと同一視したりして、「あの預言者」の登場を待っていたのでした(1:21参照)。「この人は本当にあの預言者だ」という言葉には、旧約聖書に関する広い知識がうかがい知れます。イエスの中にモーセを見たわけです。しかし、書物に対する知識と、神との人格的な交わりは異なります。聖書を知っていることと、神を知っていることは異なります。なぜなら神は霊だからです。

「この人はメシアだ」(41節)と反論する人々もいました。第二のグループ、便宜的に「エルサレムの群衆その2」と名づけておきましょう。この人々はおそらく31節に登場した「奇跡を見て信じる」タイプの人々です。現世利益的な信仰または熱狂主義的な信仰と言えます。何か信心深い行為をしたら神からのお返しが来るはず、お返しをしてくれる神だけを信用してあげようという考えです。または奇跡行者を熱狂的に支援するような信仰です。ご利益と熱狂、この二つ共に神との人格的な交わりはありません。たとえば友情を考えてください。友情は人格的な交わりの典型例です。真の友情には打算はありません。お返しを計算するような関係は人格的な信頼関係ではないのです。また、驚くべき奇跡を行う人のみを信奉するという考えは、結局能力主義です。その人ではなく、その人の能力を評価しているだけです。これもまた人格的な交わりではありません。もしその人が奇跡を行わない時には急速に熱狂は冷めるでしょう。「十字架から降りてこい、そうすればメシアとして信じてやる」と、エルサレムの群衆の一部は十字架上のイエスを罵りました。その人々というのは、第二グループの人々なのでしょう。

第三のグループ・「エルサレムの群衆その3」は、イエスがガリラヤ出身であるからメシアではないと考える人々です(41-42節)。この人たちはミカ書5章1節を根拠にメシアの出身地を規定します。「群衆その1」と同じく知識と交わりは違うという批判が当てはまります。さらにこの人たちにはガリラヤ地方の人への差別意識があります。それが問題です。差別は人格的な交わりの妨げです。蔑視や偏見によって、対等・公正でなくなるからです。友情とは対等・公正なものです。透き通った目で相手を見なくては、その人と誠実な信頼関係を持つことはできません。

第四のグループは、祭司長たちやファリサイ派の人々、すなわち権力を濫用していた人々です(45節)。彼らは下役を顎で使い、指示通りできない場合に罵倒します。いわゆるパワーハラスメント(組織における力の濫用)をここに見ます。また、彼らは公然と群衆を軽蔑します(49節)。権力者の驕り高ぶりがよく出ています。そして首都エルサレムで力を振るっていることから、当然ながら第三グループと同じくガリラヤ差別を露骨に行います(52節)。第一のグループと同じく彼らも聖書(「律法」49節)をよく知っています。しかし神を知りません。自分の力が強いため神を必要としていないのです。逆に聖書の言葉で相手を切り刻むというかたちの力の濫用をしています。

これら四つのグループの人々は、ガリラヤ地方のナザレのイエスが誰かということが分かりません。どんなに議論を重ねても、イエスが誰かという質問に答えが与えられません。わたしたちに対する反面教師です。だから生きていく際の注意点を彼らから学ぶのです。

注意点1:プロテスタントの教会が「聖書主義」を打ち出していること。そこから「根本主義(ファンダメンタリズム。原理主義)」の問題が派生します。「逐語霊感主義」という言葉を紹介します。聖書の言葉は一言一句間違えがないという主張です。しかし実際には聖書内部で相反する記述(イエスの十字架刑執行日の日付など)があるので、自分の主張に都合の良い言葉を引用して相手を攻撃するために使う場合が多いように思えます。文字である聖書と霊である神のどちらが重要かと言えば、それは神ご自身です。

注意点2:神が愛であるということ。霊である神は愛の方です。だから聖書の言葉を読むときにはいつも、「隣人愛という視点」をもって読み解かなくてはいけません。人を差別する方向で読まない、攻撃する方向で読まない、支配する方向で読まない努力が必要です。仮に相反する記述がある時にも、どちらを選ぶか迷ったら、隣人愛に結論が傾く方を選べば良いのです。

注意点3:知った気にならないこと。知識は多ければ多いほど謙虚になっていくものです。たとえば円の内部を知っている領域・円の外側を知らない領域で描くとします。知識が増えて円が大きくなればなるほど、知らない領域との接点も増えていきます。「無知の知」を知る必要があります。聖書は読めば読むほど知らないことが増えます。文字である聖書でさえ把握しきれません。ましてや霊である神を把握することは不可能です。

以上の注意点を知って生きることが必要です。そうでなくては人格的に神と交わるという体験をしないまま聖書を読むことにもなるでしょう。またいったん信者となっても「イエスが神の子である」という的を外したまま信仰生活を送ることにもなるでしょう。これが今日の聖句からの原則論です。

ここに重要な例外があります。それはニコデモという人の存在です(50-51節)。わたしたちの直接の模範がここにいます。彼はすでに3章に登場していました。ファリサイ派の人です。しかも権力者です。ユダヤ植民地政府の議員(裁判官も含む)です。だから当然お金持ちであり、エルサレム住民、ユダヤ地方の首都圏の人、端的にこの人は第四グループの人です。しかし、イエスの弟子となっていました。おそらくそのことを彼は同僚に隠しています(48節)。

3章において、ニコデモは今日登場したさまざまな考えのエルサレム住民と同じくイエスが誰なのかと思いめぐらしました。そこでイエスに会おうと考えました。この時点ですでに聖霊が彼を導いていたのでしょう。さらに直接イエスに出会って、面と向かって話し合って、イエスの自由な人格に触れ、霊である神と共に自由に生きることを、その時点から始めていました。ニコデモはイエスを信じてイエスに従う弟子だったのです。

イエスに従うということを地上の組織の中で実現することは難しいことがあります。実際ニコデモも弟子であることを隠さざるを得ませんでした。しかし、多くの制約がある中でも、できる範囲で自分の良心に従って生きることが求められています。ニコデモは聖書を愛の神の視点から読み直しています。彼が愛の神と交わりを持っていたからできることです。ナザレのイエスに直接出会って人格的に知ったから身についたものです。イエスが神の子であるということは、自分の目で見て直接触れたらわかります。この世界で小さくされていない人でもわかるということ、これは豊かな国に住むわたしたちへの慰めです。

ニコデモは勇気をふるって語ります。「確かに律法によればイエスのような者は死刑に処されなくてはならないかもしれない(申命記13:2以下)。しかし、同じ律法に本人からの事情を聴くことが義務付けられている(申命記1:16-17)。仮にガリラヤ地方の人に対してであってもその手続きを省いて死刑判決を下してはいけない。」このニコデモの聖書の読み方は、隣人愛という視点からの解釈です。この発言は同僚たちから激しく非難されます。「あなたもガリラヤ出身なのか」(52節)という言葉は、いじめられている人をかばう時にかばった人もいじめられるという現実をよく表しています。そのような少数者として生きる不利益を負う覚悟で、ニコデモはイエスをかばったのです。

ここに小さな生き方の提案があります。わたしたちを縛る組織の中で少しでも良心的に生きるということです。その際に隣人愛の視点で読み解いた聖句を用いることです。その営みは霊の神が導いていることがらです。内部で貶められている人をかばうこともその一つです。ニコデモに倣って、さまざまな場面で人をかばう人となりたいものです。これはすぐにも実践可能です。

さらに発展して外部に不正を知らせることもありうるでしょう。イエスの言行はユダヤ社会における良心的内部告発です。世界全体に不正を知らせたのです。特定秘密保護法案は良心的内部告発を妨げる効果をもたらします。そこにも問題があります。沖縄核密約についての「西山事件」や、原発についての田中三彦・後藤政志らの良心的内部告発は貴重でした。ニコデモもわたしたちもこれができるかは自信がありません。実践は聖霊の導きに委ねましょう。