これは一体何だろう 出エジプト記16章1-16節 2015年9月13日礼拝説教

信仰とは素朴な信頼のことです。聖書をどれだけ読んでも信じているかどうかはわかりません。教理をどれだけ覚えても信じているかどうかはわかりません。教会生活を律儀に続けていても、はたしてどれだけ神への信仰が深いか/広いかは怪しいものです。続ければ続けるほど不安に思えることすらあります。その理由は、素朴に信頼するということから、かえって離れる場合があるからです。人間の行いにはすべてそのような危険があります。聖書知識・教理への理解・教会生活。これらの人間の行いは、素朴な信よりも下にあって、素朴な信に仕えるものでなくてはいけません。

野の花や空の鳥、また子どもたちがわたしたちの模範となりうるのは、正に素朴な信を自然に実践しているからでしょう。聖書や教理や教会がなくても、これらのものたちは神が良い方であることを疑っていません。

素朴な信とは、神が良い方であることへの信頼です。そして良い方である神はわたしたちが素直に求めるならば、その求めに応じてくださる方です。良い方は良いものを与えてくださいます。魚がほしいと願う我が子に、わざわざ蛇を捕まえてきて差し出す親がいるでしょうか。いません。それと同じように神はパンがほしいとねだる子どもに石ではなくパンを与える方です。

イスラエルの人々が旅を始めて一ヶ月が過ぎました。12章や13章3-4節などを参考にすると、エジプトから夜逃げしたのは第一の月の十五日です。そして、エリムを出発したのが「第二の月の十五日」でした(1節)。この一ヶ月人々が食べたのは、「酵母を入れないパン菓子」(12章39節)だけだったことでしょう。「肉鍋を食べたい」(3節)という言い方から、この時点で家畜を食べてはいないようです。肉が食べたい・ふっくらとしたパンが食べたい。これがイスラエルの人々の叫びでした。

神は良い方です。この叫びについて、「わがままな願いだ」と断じて、無視をしたり懲罰をしたりはしなかったからです。多分に神はモーセとアロンに同情してパンとうずらを与えているのでしょう(「あなたたちのために」4節)。もしも二人のためであったとしても、結果として民全体に食べ物を与えているのですから、肉とパンを食べたいという神の子らすべてに、親である神は肉とパンを与えていると言えます。先週は、「何を飲んだら良いのか」(15章24節)という不平でしたが、基本的な仕組みはまったく同じです。

このように考えると、神は良い方であるとしても、その良い方に対してイスラエルの民が素朴な信頼を寄せていたのかは疑問です。民が、神に直接に願い求めるのではなく、モーセとアロンに対する不平として「肉とパンを食べたい」と言っているからです(2節)。「あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている」(3節)という言い方に、不都合なことを人のせいにする卑劣さを見てしまいます。これまた先週も、彼らはモーセに向かって不平を述べていたのでした(15章24節)。

共に責任を負わない・仲間を裏切る、不平に典型的なかたちで現れる民の振る舞いは、人間のもつ罪を示しています。モーセとアロンの願いは、罪のもたらす具体的課題を民全体で乗り越えさせることにあります。ここに神学が必要です。神学とは素朴な信に仕えるものです。人々を神への素朴な信に立ち返らせたり、互いの素朴な信へと方向付けたりするための交通整理です。

神の子らであるイスラエルの共同代表三名が集まり、この危機を乗り越えるべく話し合ったと思います。モーセ・アロン・ミリアムの三人の姉弟です。本文にミリアムは登場しませんが、補って考えて良いでしょう。特に、「全会衆」(4節)という単語や、「主の前に集まれ」(9節)、「主の栄光が雲の中に現れた」(10節)という表現に、礼拝の場面が推測されます。礼拝とは会衆が主の前に集まり主に栄光を帰すことだからです。礼拝指導者であるミリアムも、アロン・モーセと共に、この危機をどのように乗り越えるべきか知恵をしぼったと思います。

民に向かってどのように応えるべきか、すぐれた答弁が必要です。神への素朴な信に立ち戻らせるための答えです。一つは、あなたたちの不平は指導者たちに向かってなされているけれども、実は主に向かっての不平であるという方向付けです(7節・9節)。「指導者に文句を言うな」と言うなら、これは独裁です。そういうことに力点があるのではありません。そうではなくてモーセらの言いたいことは、荒れ野の旅に関する批判は荒れ野に導いた神への批判であるのだから、むしろ神に向かって素直に語るべきだということでしょう。

イスラエルはモーセやアロン、ミリアムを拝む群れではありません。共に唯一の主を礼拝する信仰共同体です。賛美はすべて主に捧げられ、すべての栄光は主に帰されるべきです。そうであれば、すべての不平も真っ先に神に直接訴えられるべきです。「アッバ(お父ちゃん)、この苦い杯をどうか取り除けてください」「わたしの神さま、どうしてわたしを棄てたのか」。このように素直に訴え、パンと肉を神に求めるべきだったのです。

「主はあなたたちの不平を聞く」(7・8・9・12節)。子は親に向かって、自分の不平まじりの願いをも聞いてくれるはずだという信頼を持っています。包容力のある親は、なるべく我が子の願いに応えようと努力するものです。良い方である神にそれをするようにと、モーセらは方向付けをします。

もう一つのすぐれた答弁は「我々は何者か」という問い返しにあります(7・8節)。この反語表現は、「わたしは何者か」というモーセの言葉を思い出させます(3章11節)。モーセはイスラエルの指導者になりたくない気持ちを、このように言って、神の召しを断ろうとしました。それはモーセの悲しい経験から吐かれた言葉でもありました。ヘブライ人奴隷でもなく、エジプト王子でもなく、ミディアン人羊飼いとして生涯を終えようとしていた老人は、ヘブライ人の出エジプトを導くのにふさわしくないと、モーセは卑下していたのでした。

そのモーセに対して神は、アロンとの和解を設定し、主という名前を明かしヘブライ人礼拝共同体の中にモーセを入れました。モーセは「わたしは誰か」ではなく、「わたしたちはヘブライ人である」という自覚を与えられました。ファラオに「お前たちは怠け者だ」(5章17節)と罵られても、「いやわたしたちは礼拝のために労働を休む信仰共同体だ、だから三日の道のりを自由な礼拝のために出国させてほしい」と主張できたのは、「礼拝者としてのわたしたち」が確立していたからです。

民はモーセとアロンを名指しで批判しました。「あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている」(3節)。ここに礼拝共同体の分断が起こっています。指導者層は「あなたたち」、その他の人々は「我々」というわけです。分断と対立も罪の現れです。

モーセとアロンは「我々とは誰か」と問い直します。同じ人間であるという答えが期待される質問です。神ではなく同じ人間仲間だということが第一の意味です。ただしもう一つの含みがあるでしょう。イスラエルの民全体が「わたしたち」を構成しているという答えが期待されます。かつて神の名も知らず、新たにヘブライ人に加えてもらったモーセならではの言い方です。

この問い直しは民を立ち戻らせます。モーセ・アロン・ミリアムもまた人間仲間であり、礼拝の会衆として仲間であるという意識に立ち返らせます。神が創られ、神に共に救われ、同じ神を礼拝する仲間として、対立や分断はなるべく避けなくてはいけないのです。神への素朴な信と対応するかたちで、隣人同士の素朴な信がかたちづくられていきます。この両者は交換可能なかたちで、好循環にも成長するし、逆に悪循環をも起すことがあります。

「これは一体何だろう(マーン・フー)」(15節)。神が肉とパンを奇跡的な方法で与えられた後に(13-14節)、イスラエルの人々は問いました。このマーン・フーがマナの語源です(30節)。素朴な驚きが、そのまま食べ物の名前になりました。マナが何であったのかを説明する学説は多くあります。そういうことに興味がある人は、『聖書辞典』をお貸しします。ここでは、語源に込められたことが大切という解釈をいたします。つまり「これは何か」という素朴な驚きが、信仰というものにはとても大切だということです。素朴な驚きの連続が、素朴な信頼を育てます。小さな奇跡に素朴に驚けることが、素朴な信を養います。

「これこそ主があなたたちに食物として与えられたパンである」(15節)。モーセの答えが人々を素朴な信へと導きます。

この事態は一体何だ、神が不平まじりの願いを聞き、我々に食べ物を無償でくださるとは。一体人間とは何者であるのか。支配欲や自己中心で、仲間も平気で裏切ることができる、我々とは誰か。なぜ神はこのような我々をも恵み、悪人の上にも太陽を昇らせるのか。これは一体何だ。今日のパンを今日与えられるとは。このふさわしくない者のためにさえも。

わたしたちは毎日食前の祈りをささげ、ご飯を与えてくださる神に感謝をします。小さな喜びに対して素朴に驚くことの積み重ねが、素朴な信を養います。

またわたしたちは毎週礼拝の中で主の晩餐を行います。これは「聖なるままごと」です。ほんの少しのパンとぶどう酒を真面目な顔をして、キリストの体と血とみなして、食べ・飲む。さまざまな聖書箇所を知り、難しい教理がわかり、教会がいかに大切にしている儀式なのかを知っている人にとっては、「聖なる」ものでしょう。しかしそれを知らない人にとっては「ままごと」でしかありません。このギャップが良いのです。「これは一体何か」という素朴な驚きを引き起こすからです。この素朴な驚きが素朴な信を養い導きます。それは、「イエス・キリストが命のパンである」という驚くべき事実に対する素朴な信頼です。

神は人の心の奥底の願いを知っていました。それは友がほしいという願いです。自分が不誠実な時にも誠実であり続ける友がほしいということは、すべての人の潜在的な祈り願いです。その声にならないうめきを聞き、神はわたしたちに神の子を与えました。人はパン(レヘム)だけで生きるのではありません。神の言葉(ダバル)によって生きるのです。ベツレヘム(パンの家の意)で生まれた神の言葉であるイエス・キリストこそ、いのちのパンです。

晩餐のパンを食べるときわたしたちはイエス・キリストが共にいると感じます。わたしたちの友であることが実感できます。そして聖書の言葉が素直に聞けるようになります。キリストがパンであり言葉であり、そのようなかたちでわたしたちの友だからです。真の友はわたしたちが一番辛い時にも黙って共にいます。パンを食べることはその一体化を示します。真の友は厳しい忠告も優しい慰めも語ります。説教はそれを示します。良い方である神は、この小さなわたしたちに神の子を友として与え、わたしたちの飢え渇きを永遠に癒してくださいました。これは一体何なのでしょうか。これが恵みというものです。