むしろ分裂 ルカによる福音書12章49-53節 2017年9月24日 礼拝説教

今日の箇所は非常に困難な言葉です。そもそも宗教は世界平和の重要性を説くものです。キリスト教においても平和は重要な教えです。「平和の宗教」と呼ばれることすらあります。ところが他ならないイエスが、「わたしが地上に来たのは平和をもたらすためではない。地上に火を投ずるため、分裂を起こすために来た」と語るので、わたしたちは混乱します。ここには深い解釈が必要です。ここで言う「火(プル)」とは何か、「分裂(ディアメリスモス)」とは何かということを、よく考えて、肯定的な意義を引き出す必要があります。特に、戦争・内戦、社会の党派的対立・分断構造に思い悩むわたしたちにとって、「火」「分裂」が何を意味するのか、丁寧に捉え直す必要があります。そのことが、「平和」の意味を掘り下げていくことに繋がるのです。

名詞の「分裂(ディアメリスモス)」(51節)は、新約聖書の中でここだけに用いられる言葉です。動詞の「分裂する(ディアメリゾー)」(52・53節。新共同訳「対立して分かれる」)は、新約聖書に12回登場します。そのうちの8回はルカ福音書と使徒言行録(ルカ文書)に集中しています。ルカあるいはルカ教会に特徴的な単語と言えます。

ルカ以外の文書がディアメリゾーを用いるのは、十字架の場面だけです(23章34節)。イエスの服をくじ引きで分割して奪い合う場面です(「分け合った」)。マルコ福音書15章24節のディアメリゾーを、すべての福音書記者が真似ています。ここでは、死刑囚の服でさえ奪い合うさもしさ・貪りの罪が批判されています。否定的な意味といって良いでしょう。では、ルカだけが用いる、十字架の場面以外のディアメリゾーの意味合いはどのようなものなのでしょうか。否定的な意味と、肯定的な意味と整理して考えてみましょう。

否定的な意味で使う場合は、十字架のくじ引き以外では他に一場面しかありません。ルカは「内輪で争う」という意味で、二回ディアメリゾーを使っています(11章17・18節)。これは否定的な「分裂する」という意味です。

次に肯定的な意味で用いる場合です。まず最後の晩餐の場面(22章17節)。一つの杯を回し飲みする際に、「各人に分けよ」とイエスは命じています。興味深い言い方です。一つの杯はそれ以上分裂することがありえないからです。ここでは、「分かち合う」という肯定的な意味で用いられています。

重要なのは使徒言行録の用法です。ペンテコステの場面、「炎(プル)のような舌が分かれ分かれに」(使徒言行録2章3節)、各人に降るというところにディアメリゾーが使われています。また、初代教会で持ち寄った財産を教会員が分かち合う場面でもディアメリゾーが使われています。「皆がそれを分け合った(同2章45節)」。使徒言行録の用い方はすべて肯定的です。ルカ文書の全体として前半に否定的な使い方が多く、後半に肯定的な使い方が集中しています。ルカが徐々にずらしていることに気づきます。

さらに、「火(プル)」という言葉と組み合わせている点で、使徒言行録2章3節は今日の箇所と呼応しています。並行箇所であるマタイ福音書10章34節では、イエスは平和ではなく「剣」をもたらすために来たと書かれています。「火」も「分裂」も出てきません。おそらくマタイの方が元来の言葉でしょう。「剣」は戦争を含意し、平和の反対語としてふさわしいからです。

また、ルカもマタイも共にミカ書7章6節を引用していますが(53節)、ミカ書全体は「エルサレム包囲戦」(紀元前701年)という戦争を背景に書かれた預言書です。マタイ・ルカ共通文書の段階で「剣」だったのにもかかわらず、ルカはあえて「剣」を「火」と「分裂」に書き換えています。

わたしたちは今日の箇所をペンテコステと重ね合わせて読むようにルカ教会から指示されています。そしてペンテコステにおいて誕生した教会の実践と重ね合わせて読むように示唆されています。否定的な意味の争い合い・奪い合いではなく、肯定的な意味で一人ひとりが自立すること・多様性が確保されること・分かち合うことへと、生き方をずらせと命じられています。ディアメリゾーの用法が教える真理です。ちなみに外典のトマス福音書16節は、「そして彼らは単独で立つであろう」という言葉を末尾に付け加えています。

ペンテコステの視点から読み直してみましょう。「火」は聖霊のことを指します。イエスが地上に来たのは、聖霊を送るためということになります(49節)。そしてそのことをイエスは生前願っていましたが、この時点ではいまだかなっていません。「その火がすでに燃えていたらと、どんなに願っていることか」とぼやいているとおりです(49節)。弟子に聖霊は降っていません。

聖霊降臨は、十字架と復活を経てなされるものです。イエスが「受けねばならないバプテスマ」(50節)とは、十字架で処刑されるということです(マルコ福音書10章38-40節)。だからこそ、「それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう」(50節)と言われているのです。バプテスマは死刑執行にたとえられています。「沈めの式」(本田哲郎訳)は、溺死させることの象徴です。その意味もあって岩波訳も「浸礼」と訳します。古い自分が十字架のイエスと共に死ぬということを表現しているわけです。

十字架と復活を経て、イエスは天から地上に聖霊を一人一人に降します。火は全体を覆うものではなく、分裂したものでした。すべての人を画一化して、いわゆる「クリスチャン」を量産する巨大な火ではなく、舌のように分裂した小さな火が、各個人に降り各個人に宿りました。すると、人々は聖霊に満たされ、聖霊が導くままに、同時にさまざまな言語を使って語りだしたのでした(使徒言行録2章4節)。これが教会の誕生、ペンテコステの出来事です。

想像していただきたいのですが、この姿は「平和」でしょうか。むしろ分裂であり、混乱に満ちた混沌状況です。同じような人々が同じ言葉を話し、同じ価値観を共有する社会。「バベルの塔」に象徴されるピラミッド型の統制が効いている社会。その反面、同調圧力が強い均質化社会。もしもこれを「平和」と呼ぶのならば、聖霊が降った社会は平和の反対です。個々人の我が強く、それぞれの意見を同時に言い合って収拾がつかない状態だからです。平穏無事は約束されません。風と轟音の混沌状況(使徒言行録2章2節。創世記1章2節も参照)。それが火と分裂に象徴される、聖霊の支配する世界です。

ペンテコステの時ペトロは、物音に驚いて集まってきた人々に説教をします。彼はヨエル書3章1節を用います。「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る」(使徒言行録2章17節)。聖霊は「家」という単位を良い意味で打ち壊します。息子の預言は、その父親と異なる意見かもしれません。娘の預言もその母親と異なるかもしれません。若者の幻と相対立する老人の夢は、嫁としゅうとめとの意見対立ともなりえます。聖霊は個人に降ります。そして個人の意見を育てます。さらにイエスを主と信じる信仰告白へと導きます。だから五人家族でも二対三に分裂することがありえるのです(52-53節)。

家の意見に従うならばある意味「平和」でいられます。自分の意見を持たないで「家長」「目上の者」の言うことだけ聞いていれば、ピラミッド型の家制度の中では安全です。全体主義国家が与える平和と似ています。言論統制によって強制的に作られた「一つの言葉」(創世記11章1節)は、秩序をもたらします。問題は、そのような秩序を平和と呼ぶのかということです。

平和を戦争の反対語とだけ考えると、今申し上げた秩序のもと戦争をしない国は、平和を実現していることになります。このような平和を地上にもたらすために、イエス・キリストは来たのでしょうか。そうではありません。

イエスは家制度や全体主義国家がもたらす秩序を「平和」と呼ぶことに対して反対しています。イエスに従うということは、この意味の平穏を約束するものではありません。むしろ分裂が起こるかもしれません。これは一見すると否定的な「内輪もめ」です。しかし、深い意味において「各個人の自立」であり、「多様な意見の共存」です。誰か偉い人に従うということではなく、お互いが平たい水平な関係になることです。併合による一致や階層支配による一枚岩よりも、共存や並立というかたちの分裂の方が、良いのです。

さらに、このような「聖霊の宮」となった各人は、分かち合うことができる人に成長すると、聖書は教えています。十字架はわたしたちの罪を教えます。十字架の下で、人々はイエスを収奪し最後の服まで奪い合いました(ディアメリゾー)。貪りの罪がイエスを十字架に追いやったのでした。そのようなイエスを殺した罪人たちが、大いなる赦しを信じ、聖霊を受けて晩餐の杯を回し飲みし、財産を分かち合う者たちになります(ディアメリゾー)。イエスの血を流した者たちが、イエスの血を回し飲みし、パンを分かち合うのです。

被害者の血を加害者が飲む行為は、赦しを象徴しています。被害者が自らの血を「回し飲め」と加害者に命じるとき、加害者の情けないほどの弱さが被害者によって受け容れられます。「弱い者がさらに弱い者を叩く」という不本意な図式が、イエスと弟子たちの間にも、死刑囚と死刑執行人の間にもありました。イエスを棄てた弟子たち、イエスの服を奪い合う人々のすがたは、罪の実態を示します。ファリサイ派のように進んで殺した人々以外の大勢は、渋々と処刑に加担しています。あるいは煽られて「一つの言葉」で、「十字架につけよ」と叫んだのでした。イエスは、特にそのような大多数の「情けない弱者」の醜さを受け止め、包み込み、赦します。十字架は赦しの象徴です。

赦された情けない弱者は、「この類の犠牲をわたしだけにとどめなさい」と励まされています。イエスの流血と横死だけが赦されているのであり、それ以外の悲劇を繰り返さないために、わたしたちはイエスの血だけを飲みます。奪い合いから、分かち合いへ。杯を回し飲むことから、持ち物の分かち合いへと、礼拝に集う者たちが方向づけられていきます。分裂を恐れて奪い合いに参加した人が、「わたしは分かち合いたい」と責任を負って語ることができる人になるのです。心に良心の火がともり、聖霊によって意見が出るようになります。そして日常生活で他者の隣人となっていくのです。

日本社会は民主政治に慣れていないように思えます。討論よりもむしろ忖度が重宝されます。民主政治は異なる意見を出し合って合意形成をすることに主眼があります。うまく機能させるためには、個々人を大切にする平等の関係と、多様な意見の乱立という混乱に耐える精神力と、ふさわしい妥協点を見出す調整努力が必要となります。日本の教育では養われません。「主権者教育」が大人にも子どもにも必要です。実はこれこそ平和を創り出す努力です。

今日の小さな生き方の提案は、全体主義的平和を捨てることです。むしろ分裂をこそ選び取りましょう。それが党派的対立と構造的分断を乗り越える道です。個人レベルまでばらばらに分裂し、「わたしの言葉」を出し合うことです。イエスが来たのは、一人一人に火を送るためです。自分の意見を出し、異なる他者とも生きることができるようにするためです。戦争がない状態が平和なのではありません。敵とも共存することが平和なのです。