【はじめに】
前回は四人の漁師たちがイエスに従った物語でした。それはマルコ福音書1章16-20節とほとんど同じ内容です。マタイ教会が、マルコ福音書を下敷きにして、自分たちのための福音書を編纂しているからです。ところがその直後からマタイ福音書はマルコ福音書から離れて独自路線を歩みます。
マルコ1章21-27節の出来事(会堂での悪霊祓い)は省かれ、同29-31節にあるペトロの義母の癒し物語はマタイ福音書8章14-17節に移動され、マルコ1章35-38節のイエスとペトロのやりとりも省かれます。残った要素は、イエスの噂が広まったこと(マルコ1章28節)、イエスのもとに連れてこられた大勢の病人が癒されたこと(同32-34節)、イエスがガリラヤ中を巡り歩いて会堂に行き・宣教し・悪霊祓いをしたこと(同39節)です。これらをマタイ福音書4章23-25節はまとめて報じています。
マタイ教会は、個々の具体的な癒し物語をいくつか省いています。そして、省かなかった具体的な病人の癒し物語を、8章以下に移動します(ペトロの義母の癒し、ハンセン病患者の癒し、麻痺している者の癒し)。こうして、5-7章に長大な説教を設定します。癒しよりも教えが大切。つまりマタイ福音書の描くイエス・キリストは「奇跡行者」というよりも「偉大な教師」です。5-7章はマタイ教会にとって最優先の重要な教えが詰まっていると言えます。
この組み換え作業は興味深い副作用をもたらしました。四人の漁師たちと、多くの群衆たちとが同じレベルの弟子たちとなるという効果です。
23 そしてそのガリラヤの全体の中で彼は巡り行き続けた。彼らの諸会堂の中で教えながら、またその支配の福音を告げ知らせながら、またその民における全ての病気と全ての弱さとを癒しながら。 24 そして彼の噂がそのシリアの全体の中へと出て来た。そして彼らは彼のもとに、悪くなっている者たち全てを連れて来た。さまざまな病気と痛みとで苦しんでいる状況、悪霊に掴まれている状況、また月に影響されている状況、また麻痺している状況を持っている者たち(全てを)。そして彼は彼らを癒した。
【まとめるということ】
マタイ福音書を編纂した人々の優れている部分は、まとめるという技術です。マルコは個々の人々とイエスの出会いを重視した筆致において、出来事を生き生きと描写していました。言わば「虫の目」をもって観察して報告していたのです。それに対してマタイ教会は「鳥の目」をもって全体を把握しています。「要するに何であるのか」ということ。諸々の出来事を近接してミクロでとらえるだけではなく、一歩引いてマクロでとらえることです。固有のばらばらの出来事というだけではなく、全体を見渡し、いくつかの共通要素を見抜き、グループ化して括り、一まわり大きな現象としてとらえ直すのです。
文体で分かることですが、マルコ福音書はほとんどを一人の人が書き下ろしています。それに対してマタイ福音書は、複数の人々が携わっています。旧約聖書の引用担当、マルコ福音書を読み込む担当、ルカと共通の言い伝え担当、マタイ教会にだけ伝わる言い伝え担当、これら担当者たちの編集会議があったはずです。「鳥の目」は、多くの人々の作業によって確保されます。一歩引いた目は、当事者や生の声を聞いた人(マルコ)には持ちにくいものです。
人生にもがく者たちにとって、苦しみと痛みの只中にある者たちにとって、自分の人生を客観視することは困難です。全ての者は「虫の目」で毎日の小さな困りごとに対処しています。その一方で、正にそれだからこそ、できるならば「鳥の目」も持ちたいと思うことも自然です。要するに何がわたしに起こっているのか、この現象は何かを、知りたいものです。「鳥の目」を持つために信頼できる者たちの集まり、教会があるのだと思います。
【マタイ教会の構え】
「ガリラヤの全体の中で彼は巡り行き続けた」(23節)ことは、マルコにおいても同じです。マルコにおいてイエスの活動拠点は、カファルナウムにあるシモンの義母の家なのですが、マタイでは不明です。一つに限定されない大きな構えです。イエスは三つの行動をしながら(現在分詞)歩き回ります。教えながら・告げ知らせながら・癒しながらの三つです。
「彼らの諸会堂の中で教えながら」とあります。「彼ら」はガリラヤに住み会堂に通う一般のユダヤ人たちのことでしょう。イエスは会堂で礼拝をし、独自の聖書解釈を教えます。しかし、そこには限られた男性しか集まれません。女性たちや乳幼児たち、病気を持つ者たち、悪霊に掴まれている者たち、職業上来られない人々は、イエスの教えを聞くことはできません。
「その支配の福音を告げ知らせながら」。「その支配の福音」という表現は、マルコにない、マタイ独特の言い方です。「その支配」は、「神/天の支配/国」の省略、イエスを中心にした交わりのことです。誰とでも食卓を囲む集まりとも言えます。「福音」は良い知らせのことです。だから「その支配の福音」は、「イエスの食卓についての良い知らせ」という意味になります。良い知らせを告げ知らせるという表現は、いかにも冗長です。マタイのイエスは、自らの活動について説明するキリストです。行動よりも教えに力点があることが、この細かい言葉づかいにも伺えます。「神の支配とは何ぞや」という説明を聞くことができる人々は、イエスの食卓に集まっている人々です。会堂と異なり様々な人々がイエスの説明を聞く子ができます。しかし一回の食卓に集まることができる人数は限られています。
「その民における全ての病気と全ての弱さとを癒しながら」。「その民(ラオス)」は、選民と自認しているイスラエルの人々のことです。ガリラヤに住んでいる一般のユダヤ人という意味でしょう。「病気」と「弱さ」が同じ意味に使われていることも興味深い事実です。イエスの癒しは、empowermentです。弱さを覚える人々を下から支えて力づけることが、癒しです。この癒しは、ユダヤ人だけに限定して与えられるものではありえません。
「彼の噂がそのシリアの全体の中へと出て来た」(24節)。「シリア」はマルコが使わない地名です。ローマ帝国における属州シリアは首都アンティオキアを筆頭に多くの大都市を抱えた豊かな地域、広大な地域です。マタイによればイエスについての噂はまずガリラヤの北東に広がったというのです。そして、その後、ユダヤ人だけではなく「彼ら(属州シリアの人々)は彼のもとに、悪くなっている者たち全てを連れて来た」のです。クリスマス物語との関連で言えば、東から来た魔術師たちもシリアの人かもしれません。パウロや使徒言行録との関連で言えば、後にアンティオキア教会の教会員となったクリスチャンもそこにいたかもしれません。
連れてこられたシリア人たちのうち、ある者はさまざまな病気と痛みとで苦しみ、ある者は悪霊に掴まれ、ある者は月に影響され、ある者は麻痺していました。「人生の悪化状況」がここでまとめられています。病気を含め精神的肉体的痛みはわたしたちを苦しめます。悪霊とは人間関係を断つ力です。孤独もまたわたしたちを苦しめます。古代の人は月の影響で正気を失うと考えていました。抵抗できない力で気力が抜かれる、なぜかやる気を失う、立ち上がれない、この状況もわたしたちを苦しめます。自己嫌悪にもなります。そして精神的肉体的麻痺です。体のしびれや、頭脳のしびれ(思考停止)がわたしたちを苦しめます。彼ら彼女たちは仕事を失い家の保護も受けられず、長い道のりをかけてイエスのもとに来ました。「そして彼は彼らを癒した」(24節)。癒しは悪い状況を良くすること、改善improvementです。そのイエスの救いはユダヤ人成人男性だけに限定されるものではありません。癒しは痛みを和らげ、信頼関係を復元し、立ち上がる力を与え、しびれを止めます。ある者は仕事を得、ある者は家/共同体に復帰し、生活が自立します。
25 そしてそのガリラヤとデカポリスとエルサレムとユダヤとそのヨルダンの向こう側からの多くの群衆たちが、彼に従った。 1 さてその群衆たちを見た後、彼はその山の中へと登った。そして彼が座った後、彼の弟子たちが彼のもとに来た。 2 そして彼の口を開くと、彼は彼らに教え続けた。(次のように)言いながら。
【山上の説教の聞き手】
シリアの人々の癒しを見て、「約束の地」の範囲に住む多くの群衆たちが弟子となります。「ヨルダンの向こう側」はペレア地方のことです。「彼に従った」(アコルーセオー)は、四人の漁師たちが弟子となった時に用いられています(20・22節)。人がイエスの弟子になる時の専門用語なのです。つまり、属州シリアの人々、ガリラヤ、デカポリス、ユダヤ、ペレアからの老若男女は、四人の漁師たちと同じようにイエスに従い、四人の漁師たちと共に弟子集団を形作ったのです。それが「多くの群衆たち」(4章25節)「その群衆たち」(5章1節)です。「群衆(オクロス)」は「民(ラオス)」と異なる単語で、そこに選民思想の含みはありません。
イエスは失業者たち・元病人の弟子集団を見て山に登り、とある場所に座ると、彼ら彼女たちが近づいてきたので長大な教えを説きます。会堂の中や食卓の周りといった限られた空間ではなく、野外で弟子集団全体にまとめて説明を尽くします。ここで「弟子たち」と「群衆たち」はほぼ同じ意味で区別せずに用いられています。山上の説教の最後に、群衆がイエスの教えに驚く場面があることも、山上の説教の聞き手が四人の漁師である弟子たちだけではなく、群衆としての弟子集団であることを裏付けています(7章28節)。マタイ教会は、イエスの教えを聞く群衆の姿に、教会の原風景を見ているのです。教会はイエスの教えを囲んで座って聞いて、神の意思を行う弟子集団です。
【今日の小さな生き方の提案】
わたしたちは日常生活の苦難・苦痛・孤独・無気力・弱さ・悪さによって溺れそうな小さな者です。葛藤しつつわたしたちは、何かに力づけられることや、何らかの改善を常に求め祈っています。マタイ教会の人々は、イエスに従いイエスの弟子となり弟子集団をつくることが、個人の人生に癒しを与えるという福音を告げ知らせています。群衆の間の他愛のない話し合いの中で、わたしたちは苦しみを分け合い、類型化し、相対化できます。鳥の目で社会の仕組みが自分を苦しめていることをも見破りえます。教会の中で共同作業をすることも、他者への信頼と自己肯定を強めます。悪循環から好循環へと改善されるのです。インマヌエルとはこのような救いです。