先週取り上げた「祭司長アンナス」や「もう一人の弟子」よりも、今週はイエスの裁判の場面やシモン・ペトロに重点を移してお話をいたします。イエス裁判の物語や、非常に有名な「ペトロの三度の否定」物語は現代を生きるわたしたちにとって何を意味するのでしょうか。この二つの物語は四つの福音書全てに一まとめの出来事として記されていますが、いつものようにヨハネ福音書の強調点に照らして説明をいたします。
先週も述べた通り、ヨハネ福音書は裁判官を祭司長アンナスとします。これはおそらく史実です。そしてこの記述はイエスに冤罪をかぶせる裁判の卑劣性をあばく効果をもっています。大祭司が公に招集した最高法院において正式の裁判が開かれたのではなく、元大祭司であり現祭司長アンナス、現大祭司の舅として政権の黒幕であるアンナスが、おそらく少数の側近と共に秘密の裁判を行い、イエスを闇に葬ったのです。
イエスに対する裁判がどのように進んだのか、ヨハネ福音書はほとんど情報を提供しません。マルコ福音書はイエスを有罪にするための誘導尋問や、イエスに不利な証言をする者たちのことを詳しく述べています(マコ14:53-65)。それに対してヨハネ福音書は、アンナスが「イエスに弟子のことや教えについて尋ねた」としています(19節。なお「大祭司」を「祭司長」と訳す。理由については先週の説教参照)。確かにすでに死刑判決を出すという結論は決まっているのですから、今さら証人を呼び出す必要もありません。どうせ秘密の裁判なのですから、最高法院全体の決議も必要ありません。それでも「本人の事情を聞くべき」などと正論を言うニコデモのような者へのアリバイとして(7:50-51)、イエスに対して「彼の弟子・彼の教え」について尋問したのでしょう。
おそらく、アンナスはニコデモやアリマタヤのヨセフ(19:38)といった、イエスに対して共感する議員たちを、秘密裁判から排除しています。さらに推測すれば、この「イエスの弟子」についての尋問というのは、もしかするとどのような者たちが弟子となっているのかを探る質問だったかもしれません。アンナスは、最高法院議員の中にイエスの弟子がいると疑っていたのではないでしょうか。だからこそ、反対ないしは中立の議員を排除して、少数の秘密裁判で下ごしらえしたとも考えられます。本当に腹黒いやり方です。
この尋問に対して、イエスは応答します(20-21節)。弟子については答えないという応答です。自分の弟子が誰であるのか、イエスは自白しませんでした。ニコデモが夜訪ねてきたことや、ヨセフが弟子であることなどを言わなかったのです。また、自分の教えをそこでもう一度述べることはしませんでした。そうではなく、秘密に裁判を行うことの問題性を訴えたのでした。「自分は公然と人前で自分の考えを述べていたのに、その場で言論を戦わせることをせず、秘密の裁判で闇に葬ろうとする、あなたたちは悪い」と言ったのです。
「パブリックフォーラム」という考え方があります。道路や公園や広場は市民たちのための公共の場所なのだという考えです。そしてそれを前提に、政治的な表現の自由はパブリックフォーラムにおいて充分に保障されるべきという考えです。「政治的デモは本質的にテロリズムと同じ」とか、「ヘイトスピーチと併せて国会前のデモを規制すべき」とかの政治家たちの妄言とは、まったく正反対の考えです。
イエスは会堂や神殿の境内を「ユダヤ人が皆集まる」パブリックフォーラムと考えています。公の言論に対する公の言論。自分の名前を出して論理的・理性的に真理とは何か話し合うべきです。それこそ「わたしはある(エゴー・エイミ)」という態度です。黒幕による秘密裁判などもってのほかなのです。
さらにイエスはダメを押して「パブリックフォーラムでわたしの話を聞いた人に聞けば、わたしの教えは分かりますよ」と言います(21節)。この発言は事実に即しています。7:32で祭司長たち(アンナス含む)とファリサイ派の人々は、イエスを逮捕するために「下役たち」を派遣しています。そして、この下役たちは7:45-46ですごすごと帰ってきております。彼らはすっかりイエスの教えに説得されてしまったのでした。
22節でイエスを殴った「下役の一人」は、この説得されてしまった下役たちの一人なのでしょう。イエスは彼の顔を覚えていたのかもしれません。「この下役たちは自分の教えを知っている。あなたもその報告を受けたでしょう」と祭司長に挑んでいったのです。そこで下役の一人が、自分が過去に祭司長に叱責されたことを思い出して、保身のためのパフォーマンスとしてか、あるいは本気で短絡的に怒って、イエスを殴ったのでしょう。
あくまでイエスは言論で抵抗します。「わたしは悪くない。もし悪いと言いたいならばそれを証明する責任はあなたたちにある。言葉で証明してみなさい。祭司長アンナスの権力と権威によらず、暴力によらず、知恵の言葉によって論争をし、真理を追求しよう」(23節)。アンナスは言葉では勝てないことを知っていますから、何も反論しません。証拠に基づく議論もしません。ただ問答無用に死刑判決を伝言してカイアファのもとへとイエスを移送するだけです。
ヨハネ福音書の裁判でイエスは能弁です。イザヤ53章に出てくる黙々と毛を刈られる羊ではありません。裁判の不当を訴え、自らの活動を弁明し、相手の暴力に反論し、機会があれば裁判をもっと長くしても良いと考えています。これが「わたしはある」という姿勢なのです。
イエスが秘密裁判を受けているとき、祭司長アンナスの中庭まで入ることに成功したペトロは(おそらくもう一人の弟子と共に)、たき火にあたっていました。そして、イエスがアンナスの屋敷から、大祭司カイアファの屋敷まで移送されるまで、たき火にあたって裁判の行方がどうなるのかを知ろうとしたのです。ヨハネ福音書では、ペトロが三度イエスを否定した後、その場でいきなり泣く場面がありません(マコ14:72)。そうではなく、何気ない顔をしながらずっとたき火にあたっていたのでしょう。その方が怪しまれませんから、より自然です。著者ヨハネはその時のペトロの表情を知っていて書いたのです。ペトロに気をつかってマルコが劇的に書きすぎているので修正したのです。古代の伝説では、マルコはペトロの口述筆記者/通訳者となったと言われます。
ペトロはその場にいた不特定多数の人から「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と疑われ始めました(25節)。ペトロの顔は覚えられていたのです。ここは、「わたしである(エゴー・エイミ)」(5節)と言うべきところです。ペトロが、イエスのためなら命を捨てる覚悟があると大見得を切っているからです(13:37)。「一緒に裁判にかけてくれ」とペトロは言うべきです。ヨハネもそのことを予測したと思います。ところがペトロは保身を図ります。「違う(ウーク・エイミ)」(25節)。
ヨハネ福音書だけペトロのセリフが異なります。「わたしはその人を知らない」(マコ14:71)ではなく、「わたしではない」と言うのです。このセリフは、ヨハネ福音書が「わたしはある(エゴー・エイミ)」という神の名や、神から救い出された人の持つ性格を重視していることと呼応します。卑劣な秘密裁判の最中にも、イエスは「わたしはある」という態度で、穏やかで毅然としていました。それは確実に十字架の死へと向かう裁判です。殺されることが分かっている中でも、尊厳と品位を保って自由に生きていたのです。それに対して同じ頃、大口をたたいたペトロが、「わたしはある(エイミ)」「ではない(ウーク)」状態になっているのです。ペトロは、イエスとの関係を否定したのですが、それによって自らの尊厳を貶めたのです。本来持っている「わたしはある」を否定してしまったからです。
ヨハネはペトロのウーク・エイミに衝撃を受けます。その場にいて自分も弟子であることを隠しているので、ペトロと人々のやりとりを無視します。そこに決定的な目撃証言者が登場します。ペトロの被害者マルコスの親戚が居たのです(10節)。「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか」(26節)。剣を取る者は剣で滅びるとはこのことです。ゲツセマネの園での過剰防衛(相手には攻撃する意思がない状態なのに攻撃すること)のしっぺ返しが、アンナスの家の中庭で起こったのでした。この不意打ちに慌てたペトロは、もう一度「ウーク・エイミ」と言います。その時、鶏が鳴きました。マルコでは二度鳴くのですが、ヨハネでは一度きりです。
もはや誰も詰問はしなくなりました。裁判が終わったのです。イエスはカイアファ宅へと送られ、人々はそのためにどやどやと出ていきます。「死刑判決」が出ました。ヨハネとペトロを置き去りに、下役・僕たちは中庭を去ります。方々で鶏の鳴き声が交錯している中、二人も仲間たちのところへ向かいます。ヨハネは義憤に駆られながら真実を仲間に告げるために道を急ぎます。ペトロは真実をできれば仲間に隠したい思いで道を急ぎます。多分ヨハネはペトロの三度の否定を仲間たちに報告したと推測します。
ペトロは自分を恥じています。見栄を張り虚勢を張って、自分を大きく見せようとしたことを後悔しています。暴力でことを解決しようとしたことを後悔しています。自分の弱さを恥じ、その弱さを仲間の一人に見られたことを恥じています。まさにエゴー・エイミと正反対の生き方をしてしまったのです。正直に語ることがペトロにはできませんでした。丸腰で言論を使って軍隊に立ち向かったイエスのようにできませんでした。武器に頼り、相手がひるんだことに乗じて、暴力による解決を図ることしかできませんでした。少数者となった時に、自分を隠すことしかできませんでした。不自由な生き方に、自分で自分を狭めてしまったのでした。
十字架の場面はわたしたちに罪の具体例をいくつも教えます。罪とは、①人や社会が持つ悪さと、②人の持つ弱さです。祭司長アンナス個人や、アンナスに代表されるユダヤ人権力者層の場合は、①の悪さの具体例です。ペトロの場合は②人の弱さの具体例です。この①と②が、罪のない者を十字架という死刑執行台へと向かわせます。
ペトロのような弱さというものはわたしたちにも思い当たります。生きているのが嫌になるような失敗をしでかし、恥・自己嫌悪の中にはまり込むことがあるからです。ただどうなのでしょうか。挫折がなければその類の弱さを知らないで、自己肥大したまま・傲慢なまま・暴力的なまま生きることになります。その方が不自由ではないかと思うのです。弱さという罪を知ることは、自由になる一歩手前の重要な段階です。自分に絶望する体験です。
次に必要な段階は、復活の墓を見ることです(20:1-10)。イエスに希望を置く体験です。キリスト教は他力本願です。自分には罪を克服できないがイエスにはできると信じることです。十字架に加担した自分の罪をも取り除くためにイエスが復活したと信じることです。今日のところは徹底的に自らの闇を、見つめたいと思います。そこに「あなたは、元々は『わたしはある』なのだ。立ち帰れ」という光が差します。光とはイエスの呼びかけです。丸ごとの肯定・赦しの宣言です。その光にすがる時、わたしたちは救われ「わたしはある」にならせていただくのです。弱さを気にせず悪と対面する個人になるのです。