一粒の麦 ヨハネによる福音書12章20-26節 2014年4月6日礼拝説教

過越祭のころエルサレム神殿は多くの観光客でもにぎわいます。20節の「何人かのギリシア人」も、そのような観光客でしょう。エルサレム神殿は重層的に人間を差別していました。たとえば「異邦人(異教徒)の庭」というところまでは、ユダヤ人(教徒)以外の外国人も男女を問わず入れますが、それよりも中心部には外国人は入れません。さらに、女性の立ち入り禁止部分、祭司以外の男性の立ち入り禁止部分、大祭司のみ入れる部分など、施設の中心部に行くために人間が種類に応じて何回もふるいにかけられていました。またしょうがいを持っている男性は祭司になれないのですから、その時点でもふるいにかけられています。エルサレム神殿は、民族差別・宗教差別・性差別・しょうがい者差別を前提にし、それを強化する宗教施設です。差別を罪とも言います。

観光客のギリシア人は、この状況に憤りを感じます。なぜ自分は異邦人の庭までしか入れないのかという正当な問い立てです。そしてイエスに会おうとするのです。イエスならば協力して解決してくれるかもしれないという期待があったのでしょう。ヨハネ福音書は唯一イエスと外国人との直接の接触・交わりを報告しています(マコ7章はおそらくユダヤ人女性)。サマリア人だけではなく、ギリシア人ともイエスは協力関係にあったということは現代的に非常に重要な意味を持っています。特に世間では領土問題などで民族主義が煽られている折り、わたしたちはこの物語から学ぶ必要があるでしょう。

21節の「ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポ」という弟子はおそらくギリシア語が上手な人です。ギリシア語名が本名として用いられていることから推測できます。当時のユダヤ人はユダヤ名とギリシア名を生まれつき持っていました(サウロ/パウロ、ヨハネ/マルコ)。そして幹線道路が交差するガリラヤ地方は国際商業が盛んで、多くの人々はアラム語・ギリシア語・ラテン語を自在に用いていました。現在の東南アジアで、現地の言葉だけではなく英語・中国語・アラビア語などが用いられるのと似ています。わざわざフィリポの出身地を挙げているのは、フィリポがギリシア語上級者であることを言いたいがためでしょう。ギリシア語しか話せないギリシア人が、このフィリポに「あなたの師匠であるイエスさまにお会いしたい。神殿の差別性について相談に乗ってほしい」と自分の母語で頼んだのでしょう(21節)。

フィリポは仲の良いアンデレ(この名前もギリシア名)に相談します(22節)。ちなみにヨハネ福音書ではアンデレが一番弟子であり、フィリポは四番目の弟子なので、ギリシア人はイエスの「高弟」と交渉したことになります(1:35以下)。また「五千人の給食」においても、この二人は重要な働きをしています(6:5-9)。使徒言行録8章によれば、フィリポはサマリア人伝道・エチオピア人伝道を行う国際派です。言語的少数者の相談に乗っている今日の箇所と、使徒8章は深く関連しています。

イエスは彼らに(新共同訳は省略)答えます(23節)。この対象は、フィリポとアンデレだけではなく当事者のギリシア人への答えでもあると考えるのが自然です。そうでなければ、ギリシア人の存在は物語から完全に忘れ去られてしまうからです。わたしはイエス自身もギリシア語やラテン語を話せたと推測しています。第一言語ではないので制約はありますが、イエスは直接ここでギリシア人に返答したのでしょう。ちなみにこの後の裁判でローマ総督ピラト(ラテン語話者、ギリシア語もおそらく話す)とイエスは通訳無しで話しています。イエスもまたガリラヤ人です。

エルサレム神殿の垂れ流す民族差別を何とかしてほしいという願いへのイエスの答えはこういうものです。「自分はこれから神殿の差別性を守りたい者たちによって十字架で殺され、神によみがえらされる。それによって神殿の差別性が克服される。ある意味で神殿は打ち壊され、新たに立て直される。聖所と至聖所を隔てる幕は真っ二つに裂かれる。差別をしないで誰とでも肩を組む新しい生き方・道が切り開かれる」。イエスの死と復活は、差別を前提にし、差別を強化する生き方を終わらせるためのものです。福音書著者は、そのことをすでに2:19-22で予告していました(166頁)。またこの意味で「世の罪を取り除く神の小羊」なのです(1:29・36)。

以上のことを大まかに頭に入れながら、23節以下について詳しい説明をいたします。23節の「人の子」とはイエスが自分のことを指すときの表現です。「栄光を受ける」という言い方は、ヨハネ福音書独特の表現ですが、十字架・復活のことを指します。こういうわけで、差別に憤るギリシア人に対するイエスの協力は、十字架・復活というかたちでなされると言えます。

十字架・復活は麦の粒が麦の穂を実らせることに似ています(24節)。古代人は種から芽が出ることを、種が死ぬと考えました。種としてのいのちが死んで、芽や茎や穂としてのいのちが始まると考えていたのです。おそらく殻が壊れる様を死ととらえたのでしょう。内側からの殻破りが死と新生であるという観念は、極めて示唆的です。そういうわけで、麦は死ねば多くの実を結ぶことになります。ここでは死そのものが焦点とはなっていません。美化されていません。そうではなく、多くの実を結ぶ新しい生き方に焦点があります。

「一粒の麦」は正確な翻訳ではありません。「一」という数詞が無いからです。ギリシア語には不定冠詞もありません。そしてこの「麦の粒」には冠詞が付いています。文法的にはここは「麦の粒全般」という意味です。ここでは全ての麦が十字架と復活を経験することができると約束されています。人間の側で良い麦と毒麦をより分けてはいけません。ユダヤ人もギリシア人も自らの殻を破って新生することができるのです。

このように生きるということを重視した視点で25節も解釈されるべきです。一見するとこの言葉は人命軽視の趣旨に読めます。イエスが殺されたように、信者も滅私奉公すべき/殉教すべきというように読めます。つまり以前から説教の中で批判している「犠牲のシステム」を教会が肯定するのかという問題にわたしたちは直面しています。信仰のために死ぬことが結果としてあったとしても、それを美化すること・目指すこと・強要することには反対です。

マルコ福音書の平行箇所を開きましょう。ヨハネはマルコを前提に自分の福音書を著しています。マルコ8:34-36(77頁)の言葉が、25-26節の下敷きにあります。マルコには人命軽視はありません。むしろ人命の尊重が謳われています。人の命は地球よりも重いのです。そのマルコの趣旨から推測すると、ヨハネの趣旨も人命軽視にはないと考えるのが自然です。

25節には「自分の命」と「永遠の命」とありますが、前二者は「たましい/霊」の意味合いの言葉です。それに対して、永遠の命についてだけは生物学的な意味の「生命」という言葉が使われています。ここでは種という種類のいのちが死に、芽/茎/穂という種類のいのちに変わることが示唆されています。だから、生き方が変わる=成長するということに趣旨があり、その生き方の変換によって命が損なわれるわけではないのです。麦は麦のままぐんぐん伸びることが期待されています。

具体的に言い換えましょう。「自分の命を愛する」ということは、自分の殻に閉じこもって、今までの自分の生き方に執着して、「これで十分、変わる必要なし」と言い放つ、傲慢で下品な生き方のことです。ここでは、エルサレム神殿という差別的な宗教施設が傲慢な生き方の象徴です。「この世で自分の命を憎む」ということは、世間というものに縛られ世間によって作られる自分の殻を打ち破ろうとする、内側からの意志のことです。その気高い意志に基づく生き方が、永遠の命を生きるということです。宗教の名を借りて人間を差別する世間並の生き方を止めること、ユダヤ人が忌み嫌っているギリシア人とも肩を組んで生きるということです。だから永遠の命とは、死後の天国のことを言っているのではなく、瞬間瞬間をそのように真剣に新しく生き直すことです。その生き方に永遠の輝きがあります。なぜならそこには本当に人間(人の子)らしい生き方があるからです。差別に反対しながら生きることは品位を保って生きることです。この時すべての人の子が栄光/名誉/尊重を受けるのです。

様々な差別に抵抗しつつ釜ヶ崎でホームレス支援をしている本田哲郎神父の翻訳は示唆的です。25節「自分自身に執着する者は、自分を滅ぼし、この世にからめ取られた自分自身をにくむ者は、永遠のいのちに向けて自分を守りとおすのだ。」品位のある生き方を選ぶようにとわたしたちは勧められています。

わたしは25節の発言の後、イエスはギリシア人たちと共に異邦人の庭から進んでユダヤ人しか入れない場所へと歩いて行ったと想像しています。物語の続きがそれであってほしいと願っています。そしてその上で、主にフィリポやアンデレたち・弟子たちに向けて26節の言葉を語ったと読みたいのです。「わたしの弟子である者は、わたしとギリシア人たちと一緒に神殿の中心部に歩いていき、それをもって神殿の差別性を批判しよう。そのような者たちに神は敬意を払うだろう。」そして少なくともフィリポやサマリア人の弟子たち・女性の弟子たち・しょうがいを持っている弟子たちはイエスと行動を共にしたと想像したいのです。その実践がフィリポをサマリア人・エチオピア人と共に生きる人に成長させたと考えるからです。

イエスが生涯かけて取り組んだことは神殿に象徴される差別の克服、この世界にはびこる差別/罪を取り除くことでした。このような人は結果として抹殺されがちです。しかし義人は必ず復活させられます。イエスの生き方によって衝撃を受け、新しく生まれ変わろうとする人々の中にイエスはよみがえります。イエスの犠牲の死を美化しないで、自分と世界の罪を直視し、イエスの示す「共に生きる」という生き方を尊敬し、イエスと神秘的に一体化するのです。

さてこのギリシア人とイエスとの出会いの20数年後、サウロ/パウロというキリスト者が四人のギリシア人キリスト者と共に「異邦人の庭」から進んで神殿中心部へと歩いて行きました。そしてパウロはその咎で逮捕され、長い裁判の後に死刑に処されます(使徒言行録21:27以下)。パウロはキリストに従うということは、ユダヤ人の持つギリシア人差別を克服することだと考えていました。パウロはおそらく20数年前のエルサレム神殿でイエスが言ったこと・行ったことを知っていて、それに従ったのでしょう。パウロが四人のギリシア人と肩を組んだとき、復活のイエスもそこにいたのです。それは26節にある「わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる」という事態です。

今日の小さな生き方の提案は、パウロやフィリポの事例を参考にしつつ、イエスに倣うということです。見ず知らずの外国人が困っている時に、その人に協力して、その人を苦しめているものを取り除こうと努力することです。わたしたちには罪があり差別があります。それを内側から破る意志をかたちづくることに信仰/宗教は役立ちます。そして外側にある差別の仕組みを打ち破っていく努力を、差別されている当事者と共に行っていくことです。差別の仕組みを宗教が強化することがあってはいけません。共に新しく生まれ変わりましょう。