この譬え話もルカ福音書にしかありません。おそらく放蕩息子の譬え話と合わせて伝えられた譬え話です。大雑把に、前半の1-7節がイエスの語った元来の部分であり、後半の8-13節がルカ教会の人々が順々に行った付け加えです。1-13節を首尾一貫した教えと考えることは困難です。
8-13節は一貫していません。8節は「この世でうまく生き抜け」と言います。9節は8節に対して、「この世でうまく生き抜くならば天国に行ける」と約束して、あの世が大事だと反論します。10節はそれに対して、「器用に世渡りするよりも愚直に小さなことに忠実になれ」と反論しています(19章17節も参照)。11節はそれに対して、「不正な富に忠実であれ」という、およそ倫理的に許されない主張を述べます(「不正にまみれた」は訳しすぎ)。12節はそれに対して「他人のものは忠実に管理すべき」と倫理的に正しいことを述べて反論します。最後の13節はルカ本人の筆でしょう。ルカは独立に言い伝えられていたイエスの教え「神と富とに兼ね仕えることはできない」を強引に持ち出して、この物語を締めくくります(マタイ福音書6章24節)。それは元来の譬え話からどんどん遠ざかっていく論争の終わりでもあります。
8-13節は一人の人(たとえばルカ)が書いたものではありません。そうであればこのように相対立する意見が連続して記載されません。そうではなく、ルカ教会の教会員たちが、イエスの語った譬え話に対する自分たちの意見を書き加えていったのです。イエスの譬え話は、キリスト者たちにとって理解困難な場合があります。radical(急進的・根本的)だからです。どのように解釈すべきか、彼ら彼女たちは葛藤し格闘しました。この箇所は、福音書がどのようにして編纂されたかの一例を示しています。福音書は、ユダヤ人たちの注解書のように、複数の解釈者たちが個々の意見を発言順に書き加えるという方法で編集される場合もあったのです。8節に対して9節、9節に対して10節のように、ジグザグな書き込み式・雪だるま式に増えていったということです。
わたしたちはルカ教会の信仰的・創造的な営みに敬意を表して、その「真剣な解釈論争」に加わります。「聖書に何が書いてあるのか、わたしたちはどう読むのか」、真摯に取り組みたいと思います。ただしルカ教会のように、元々の譬え話から離れていく方向で解釈をしません。むしろ、元来イエスの語った急進的・根本的主張が何であったのかに焦点を合わせて読み解きます。この箇所の場合、元来のイエスの主張に向かって接近していく方が、現代のわたしたちにとって役立つ教えが与えられると考えるからです。
「ある金持ち」(1節)は大地主です。「管理人」をギリシャ語でオイコノモスと言います(1・8・13節。「経理係」ローマ16章23節)。「管理(の仕事)」は同根のオイコノミア(2・3・4節)。どちらもオイコス(家)とノモス(法)の合成語です。同じ組み合わせは英語のeconomyの語源となっています。この譬え話は「経済とはどうあるべきか」という射程を持っています。経済は、世界という「家」の「法」です。オイコス(家)という単語も直接登場しています(4節)。家というもののあり方が問われています。その意味で放蕩息子の譬え話と地続きです。二つの譬え話は、「家の一員の財産をばらまいた人物を迎え入れる家の物語」として共通しています。単語レベルでも対応しています。
管理人に対して「主人の財産を無駄遣いしている」との告げ口をする者があったと言われています。「無駄遣いをする」は15章13節にも登場しました。その時も申し上げましたが、この動詞は「散らす」「ばらまく」という意味です。ルカ福音書では、神が思い上がる者(権力者)を打ち散らすときにも用いられています(1章51節)。痛快な出来事を語る時に使われているということに留意が必要です。「下の息子は投資などをしてばらまいたかもしれない」と言いました。今回もその可能性があります。ただし、もっとありそうなことは、この管理人が、以前から主人に借金している人々に対して、その借金を自分の裁量で減らしていたということです。告げ口をする者にとってそれは主人の財産を減らす「不正」(8節)ですが、借金を減らされた側にとっては痛快な出来事です。兄息子の誇張された悪口を真に受ける必要がないのと同様に(15章30節)、ここも告げ口が事実であると信用する必要はありません。
1-7節には「不正」という単語はありません。イエスは、管理人を不正とは評価していなかったのでしょう。むしろ、庶民目線で見るならば、この管理人は「鼠小僧的な英雄」です。旧約聖書においては、この類の詐欺師的英雄は単純に肯定されます。どこに立つかで見える風景は変わります。ある人の正義は別の人の不正です。1-7節の「主人」は神(イエス)ではありません。あえて言えば、8節の「主人」が神(イエス)です。
譬え話に出てくる借りたものの内容を検討すると、大地主である主人の不正が見えてきます。ある人は「油百バトス(バト)」(6節)、別の人は「小麦百コロス(コル)」(7節)の借りがあったというのです。新共同訳聖書の巻末にある「度量衡および通貨」によると、1バト=23リットル、1コル=230リットルだそうです。2,300リットルの油、23,000リットルの小麦という大量のものは、農業の収穫のことです。今の現金に直せば数千万円レベルの多額の借りです。
この譬え話の背景には、大きな畑を所有している地主と、その地主のオリーブ畑や小麦畑で働く小作農たちをめぐる状況があります。当時としてはよくある図式です。小作農たちは、貧しくて先祖伝来の土地すら売らなくてはいけなくなったのでしょう。元自分の畑で働きながら、地主から小作料を厳しく取り立てられます。収めた収穫物(油や小麦)の一部をさらに地主から借りるということをして凌いでいたのでしょう。だから現金ではなく収穫物で表示をしているのです。おそらく地主は無利子で貸すのではなく高い利息を付けて貸す。すると次の収穫時にも同じようなことが起こり、さらに借りは増えていきます。積み重なって莫大な借りを負う債務奴隷・小作農は、おそらくイエスの住んでいたナザレにも大勢いたと思われます。イエスは農村の状況に非常に詳しい人です。彼は当時の小作農の立場に立ってこの譬え話を語っています。
大地主の行為は不正です。出エジプト記22章24節には、「あなたと共にいる貧しい者に金を貸す場合は、高利貸しのようになってはならない」とあります。皮肉なことに、大地主は不正の富で友達(告げ口する者)を作っています(9節)。彼こそ、神ではなく富にひれ伏してしまった残念な人です(13節)。
主人は管理人を呼びつけ解雇を宣言します。「会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない」(2節)。管理人は窮地に立たされました。彼は年配者だったのでしょう。肉体労働をしながら1デナリずつを稼ぐ体力は無いようです(3節)。どうすれば、管理の仕事をクビになり家を追い出されても生きていけるか、限られた時間で必死に考えました。次の日には管理人ではなくなります。主人の「家」(オイコス)から追い出されます。物乞いとは少し異なる形で、「自分を家(オイコス)に迎えてくれるような者たちを作る」知恵が求められています(4節)。
彼が思い出したのは、小作農たちの顔の変化でした。この管理人も初めは主人の言うとおりに厳密に小作料を取立て、忠実に高利貸しをしていたのでしょう。その時の小作農たちの顔は険しいものでした。射るような視線がありました。まったく目を合わせない小作農もいました。それらの顔が管理人の良心を撃ちます。自分にできる親切は何かを彼は考えつき、あまりの高利には手心を加えるようにしたのです。精一杯の良心的な行動です。すると小作農たちの顔が変わります。少額でも借金を減らしてあげた時に小作農たちは、密かに、しかし確実に、喜んだ表情を見せました。収穫時の両者の目配せには、温かい交流が生まれました。真の知恵は困っている隣人の喜びと関係しているものです。同時代の人の苦労と連帯するところに、自分自身の解放があります。「そうだ、彼ら彼女たちの借りたものをもっと減らせば良いのだ」。
そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼びます。そして、各人に証文を書き直させるのです。「急いで、腰を掛けて」(6節)という辺りに現実味ある緊迫感が伝わってきます。管理人は次の日にはその職を解かれるので、相手を急かし一人でも多くの人の借りを大幅に減らそうとします。「百バト」の人は「五十バト」に、「百コル」の人は「八十コル」に借りが減らされました(6-7節)。理由を問う者も、理由を答える者もいません。両者は知っています。次の日には管理人は大地主の家から追い出されると、みなが覚悟しました。そして、みなが「彼をわたしたちの家に迎え入れよう」と決意しました。真の知恵は、強い意志に基づくものです。信頼のネットワークこそ安全網です。
この結論は意味深です。なぜ全ての借りを棒引きしなかったのでしょうか。そうすれば債務奴隷から自由人になれたはずです。控えめな割引、つまり全ての借りを棒引きにしなかったことに、独特の意義があります。次の日に、管理人が主人の家を追い出され、小作農の家々に迎え入れられた時に、彼はそれらの家々で働く者となります。畑での軽作業か家事労働、そして苦しい家計の管理などが、「複数ある新しい家々」での彼の役割です。この家々の連合体は血縁によりません。むしろ良心によってつながっています。この良心による連帯こそ、新しい「法」(ノモス)です。彼の良心が人々の良心を繋げました。
次の収穫の時期に、元管理人は小作農の一人として、新しく管理人になった者と対峙します。新管理人は、自分を告げ口して出世した人物です(1節)。元管理人は独立自営農民に世話される自由人ではなく、同じ債務奴隷である小作農の一員となり、大地主と管理人と対面します。それによって彼らの良心が撃たれ続けます。この新しい「家の法」に招かれるのです。一つの富んだ家の法(一強体制)は、正しい再分配を求める家々の法によって問い質されます。
イエスの譬え話は、「一体何/誰に対して忠実であることが良心的であり正しいのか」という問いを、すべての人に突きつけます。そして一人の人が解放されることが真の解決ではないということも確認されます。債務奴隷・小作農全体の解放が必要です。すでにある良い法律を活かす仕組みづくりと、「経済こそすべて」という全体の雰囲気を変えることが必要です。こうしてイエスは神の国づくりにすべての人を招いています。管理人はイエスを譬えています。
今日の小さな生き方の提案は、良心に従って生きるということです。良心に従う時に我慢の限界を覚えて、職業を失ったり生活環境を変えたりすることがあるかもしれません。大きな決断です。悪口を言われると揺らぐこともありえます。しかし心を尽くし・思いを尽くし・力を尽くして選んだ道が良心に基づく知恵ある決断です。キリストはわたしたちの良心の主です。知恵の正しさは支える仲間によって証明されます。友に支えられる変化は正しい決断です。
お金がすべてという世相です。新しい「家々の法」economyが構想されなくてはいけません。それは肥大・拡大ではなく深化・縮小を目指す社会です。人と人、人と土や海、人と動物や植物が面と向かう共存共栄社会です。一強・画一化ではなく多極・多様性。正しい再分配が実現する社会、無利子で貸す良心的な交わりです。自分だけ抜けられれば良いのではありません。時代の苦しみを共に担い、神の国を構想し続け、教会でそれを一部実現しましょう。