本日の箇所からルカ福音書は、マルコ福音書の筋に戻ります。新共同訳聖書の小見出しの下に丸括弧で書いてあるとおり、マルコ福音書10章13-16節をもとに、ルカとマタイは自分たちの福音書に「子どもを祝福する」という物語を載せました。ただし、マタイと異なり、ルカはイエスが子どもを祝福したという部分を省略しています。その代わりに、独自の強調点を盛り込んでいます。それは、「乳飲み子」(ブレフォス)という言葉です(15節。なお16節「乳飲み子たち」は「彼らを」という代名詞)。「乳飲み子」は、ルカ教会の好む名詞です。新約聖書全体で8回しか使われていませんが、そのうちの6回がルカ文書です(ルカ1章41節、1章44節、2章12節、2章16節、18章15節、使徒言行録7章19節)。
わたしたちの教会では乳飲み子とも一緒に毎週礼拝を行っています。毎週の主の晩餐では、大人・子どもを問わず「非信者」であってもパンとぶどう酒を取ることができます。おそらくそのことと関わりますが、近年のバプテスマ志願者はみな子どもたちです。「バプテストが否定している嬰児洗礼にならないのか」と疑われる可能性もあるほどに、小さな子どもたちに対するバプテスマを、わたしたちは実施しています。泉教会の実践と、ルカ教会の重んじていることとを響き合わせながら、本日の箇所を読み解いていきたいと思います。
ルカ福音書1章41・44節においてブレフォスは胎児であるヨハネを指します。人の命の始まりについて、聖書は胎内から起算していることが分かります。ヨハネは成人して後、ガリラヤの領主ヘロデから処刑されます。2章12・16節は飼い葉桶に寝かされた赤ん坊のイエスです。イエスもまたヨハネと同様、成人して後、十字架で処刑されます。飼い葉桶は、十字架の苦難の前触れです。人間扱いされないことや宿屋に泊まれないことは、人間社会から締め出された神の子のありさまを描いています。それは、十字架に至るまで一貫しています。使徒言行録7章19節は、ステパノという人の説教の一部です。彼はエジプトの奴隷時代ヘブライ人の男の赤ん坊がナイル川で溺死させられた故事を引き合いに出しています。本日の招きの聖句が語っている出来事です。モーセという出エジプトの指導者も、そのような乳飲み子の一人だったのです。
ルカ文書の乳飲み子たちはいずれも「苦難の人生」を歩んだ人々です。乳飲み子であることそのものが苦難を象徴しています。当時の平均寿命は非常に低いものでした。なぜなら、赤ん坊のころに死ぬ人が非常に多かったからです。ルカ福音書は、「乳飲み子」という言葉を積極的に使うことで、この世界で苦しむ人々との連帯感を強調しています。乳飲み子は力を奪われ、世界で肩身を狭くさせられている「低い人」の象徴なのです。
「神の国はこのような者たちのものである」(16節)。この言葉は、平野の説教と呼応しています。「貧しい人々は幸いである、神の国はあなたがたのものである」(6章20節)。教会は誰のものか。世界でもっとも小さくさせられている人たちのものです。
もう一つ、「乳飲み子」という言葉で言い表されていることがらがあります。それは素直さです。「子ども(パイドン)のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(17節)。この言葉は、マルコ福音書とまったく同じです。しかし、15節の「乳飲み子」として、「子ども」を読まなくてはいけないので、さらに子どもの持つ素直さが強調されています。赤ん坊のような素直さこそが、神の国に入るための条件なのです。
「神はあなたを愛している」という言葉に、素直に「アーメン」と言えるのは、大人よりもむしろ子どもです。イエスが示した神は、すべての人や被造物を、自分の愛する子どもとして、無条件に愛している方です。イエスの示した神への信仰は、そのような神の愛を素直に受け入れることです。「アーメン信仰」というものです。
神の国はどこにあるのでしょうか。どのようにしたら入ることができるのでしょうか。いや、神の国はあなたの手の中にすでにある。あなたのものである。もしも、あなたが素直にそれを受け取るのならば。乳飲み子を代表とする子どもたちは、神の国を「アーメン」と受け取っています。
主の晩餐が物議をかもすのは、信者ではない子どもがパンとぶどう酒を取るときです。「この小さな子どもは意味が分かっていて取っているのか」と、大人は勘ぐりがちだからです。この問いは、バプテスト教会の伝統に則った正しい問いかけではあります。17世紀英国で迫害されていた教会にとって自分の教会員のみが血盟団的結社として信頼され、晩餐も自分の教会員のみで行っていたからです。それは理屈に長けた「成人・WASPの教会」です。正しい問いかけですが、その理屈によって信仰から素直さが損なわれるという欠点があります。言葉を持つ人が教会を支配することにもなります。また、子どもたちがイエス・キリストのもとに来ることを妨げてしまう危険性もあります(16節)。
現在のアメリカの白人バプテスト教会では主の晩餐の場面に非信者の子どもたちはいません。小さい子どもたちは託児室にいるからです。これで乳飲み子たちと共なる教会形成ができるでしょうか。乳飲み子から素直な「アーメン信仰」を学ぶ機会を与えられないことは、大人にとって損失です。ところで、黒人教会には託児室がありません。WASP以外の教会伝統は示唆に富みます。
99%以上が非キリスト者という日本社会において、血盟団的結社や理屈っぽい教会形成が果たして有効なのでしょうか。むしろ必要なのは分かりやすさではないでしょうか。そして、子どもも一人の個人として尊重する姿勢ではないでしょうか。つまり、わたしたちに素直に信じることの大切さを教えてくれる「良い先生」として子どもを認めるということです。
一般に子ども時代には自尊心を育てることが重要だと言われます。他人から大切にされる経験が子どもには必要です。自分に自信を持つことや自己肯定感を持つことが、真っ直ぐに育つために大切なことです。教育の目的は人格の完成にあるのです。その人がその人になることが、子育ての究極の目標です。思春期に多くの人は自己嫌悪に陥り、深刻な悩みを抱えます。そのような苦しい時にも、自尊感情・自己肯定感があれば乗り切れるものです。
このように考えていくと「罪の教理」を小さい子どもに教えこませる(信じなさいと言う)ことの教育的意味が、改めて問い直されます。人格がまだ完成されていない(その意味で保護の対象)子どもに対して、「罪の教理と罪からの贖いの教理をしっかりと覚えて実感するまではバプテスマを受けることができない。また主の晩餐に参加できない」というのは酷です。「あなたは罪人です」と何回も大人から刷り込まれることは、自己肯定感を削いでしまうことになりえるからです。子どもたちを育てているつもりが逆効果になってしまっては困ります。
神の国は「大人の理屈が理解できる子どもたちのもの」なのでしょうか。教会はそのような限られた子どもに対してのみ開かれているのでしょうか。それは、「大人のように神の国を受け入れる人でなければ、そこに入ることはできない」という事態を招いていはしないでしょうか。西方教会の一支流であるバプテスト教会の弱点がここにあります。教会学校の「児童礼拝」までは認める一方で、「十全な礼拝」に子どもたちが来ることを妨げているように見えます。
ここで少し横道に入って、「妨げる」(16節。ギリシャ語コールオー)という動詞について探求してみます。この言葉は、ルカ文書においてバプテスマと関係のある箇所で多く用いられています。使徒言行録8章36節には次のように書いてあります。「ここに水があります。バプテスマを受けるのに、何か妨げがあるでしょうか」。これはエチオピア人(黒人)の宦官が、かなり衝動的にバプテスマを志願した時の言葉です。使徒言行録10章47節。「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちがバプテスマを受けるのを、いったいだれが妨げることができますか」。これはローマ人(白人)のコルネリウスにバプテスマを施したペトロの発言です(11章17節も参照)。
初代教会はユダヤ人のみの教会でした。さまざまな言語を使っても、ユダヤ人・割礼を受けた者とその家族に限られていました。エチオピアの宦官とローマ人の百人隊長のバプテスマは、民族主義の殻を打ち破りました。聖霊が導くバプテスマを妨げるものは何もないからです。神の国は、性的少数者である宦官のものでもあります。神の国は、ローマ帝国の支配者層にある者のものでもあります。そこではもはや男と女もなく、支配者も被支配者もなく、ユダヤ人もエチオピア人もローマ人もないからです。
子どもの人権は児童労働の問題と共に近現代に先鋭化しました。だから、「教会も苦しむ子どもに仕えるべき」と真剣に語られるようになったのは、現代になってからです。教育というものを年代に合わせてすべての子どもたちに行うときに、子どもたちが力を付け、個々の人格の完成へと方向づけられる。子どもに教育を受ける権利があるのです。搾取されていた子どものための識字学校として教会学校は始まりました。ですから、教会学校が伝道の手段になるというのは、その歴史からすると脇道のように見えます。もっと急進的な問題意識を持ったほうが良いでしょう。つまり、「教会それ自体が子どものものなのではないか」という問いです。
実際に教会の運営・礼拝奉仕のすべてを子どもに担わせるのは酷です。しかしその縛りがありながらも、どれだけ教会そのものを、あるいは礼拝そのものを子どもたちのものにしていくか。さらに大人たちも喜べるものにしていくか。わたしたちは新しい挑戦を受けています。この挑戦は、古代の教会が非ユダヤ人と共に生きる教会になったときの葛藤に似ています。また、アメリカの白人教会が黒人と共に生きるようになるときの葛藤や、性的少数者と共に生きるようになろうと今取り組んでいる葛藤にも似ています。日本で・子どもたちと・どのように教会を立て上げ、礼拝をしていくのかという挑戦。泉バプテスト教会は真っ向からこの宣教課題に取り組んでいます。だからこその恵みをいただいています。それが子どもたちのバプテスマという現象です。
聖霊は乳飲み子たちにも働きかけることができます。そしてわたしたちはそのような聖霊の働きを妨げることはできません。聖霊は子どもたちにも信仰告白を促します。そこには常に「わたしは自己嫌悪から救われた」という内容が含まれているとは限りません。それぞれの成長段階にふさわしい言葉があるからです。わかっただけのイエスさまで良いのです。むしろバプテストならば大人も子どもも毎年一回自分の信仰告白を書き改めてはどうでしょうか。
今日の小さな生き方の提案は、子どものようなアーメン信仰を身に付けることです。バプテスマを受けることもその一つです。教会を子ども時代に戻れる場所と捉え直してはどうでしょうか。もし子どもたちが礼拝中に五月蝿いのならば、「わたしたちが大事にしていることを、一緒に大事にしておくれ」と対等に語りかければ良いでしょう。神の国は異なる他者との対話の中にあるからです。