本日は広島への原子爆弾投下記念日です。毎年政府の代表、国家元首である首相が挨拶をし、核兵器の使用が非人道的であると言い、核廃絶を誓います。その一方で同じ政府が、国際連合の核兵器禁止条約に批准しようとしません。米国の「核の傘(核兵器の抑止力)」に守られている手前、同条約に批准しない米国に従うという態度です。「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」と憲法前文にあります。そろそろわたしたち(の政府)の偽善を止めないといけないでしょう。
というのも、「自分の先祖が殺した預言者たちの墓(記念碑)を建てて」、毎年追悼し非戦・否核を誓う行為に見えてならないからです(47節)。軍都・広島で住民が虐殺されたのは、明治以来の侵略政策の帰結です。政府の行為による戦争の惨禍です。現在政府は世界の核兵器による殺戮を黙認しています。そのことによって過去の人類の核兵器使用にわたしたちは「賛成して」います(48節)。立派な記念碑や記念式典での美辞麗句ではなく、米国の「核の傘」から出て、核兵器開発・保持・使用の違法化に努力することが求められます。
具体的手順は、①米軍基地を沖縄以外の都道府県に移動、②本土住民の米軍基地排斥運動、③日米安保条約廃棄・自衛隊のみによる専守防衛、④自衛隊の「災害救援隊」化・日本の非武装・「非核の傘」形成(日・韓・朝から)、⑤国連によるすべての戦争の違法化、世界の非武装・非核化、⑥核廃棄物管理です。数十年から百年かけて実現すれば良いと考えます。このような夢・幻を現実的工程表に添えて語ることが、「正当に選挙された国会における代表者を通じて行動」するわたしたち主権者の責任です(憲法前文冒頭)。
さて先週のファリサイ派への「禍いなるかな」は、今週の箇所で「律法の専門家(法学者)」に及びます(46・52節)。ファリサイ派と律法の専門家の違いを確認しておきましょう。マルコ福音書・マタイ福音書は両者を同一視していますが、ルカが厳密に区別しているからです(37・45節)。
当時のユダヤ教の各教派グループは、自分たちの教理を補強するための律法の専門家を抱えていたと言われます。サドカイ派にも、ファリサイ派にも、ゼロタイ派(熱心党)にも、エッセネ派にも律法の専門家はいました。「ファリサイ派の律法学者」(マルコ2章16節)という表現は、その他の教派にも、それぞれの律法学者がいたことを伺わせます。「律法(旧約聖書の冒頭の五巻。「トーラー」「モーセ五書」とも呼ぶ)」は、ユダヤ教のすべての教派が共有している正典だったのですから、少なくとも律法に関してはすべての教派に専門研究者がいても不思議ではありません。
すべての教派のうちサドカイ派とファリサイ派の律法の専門家は、いわゆる「御用学者」になりがちです。なぜなら、この二つの教派だけが最高法院(サンヘドリン)に議席を持ち、政治権力・司法権力とくっついていたからです。両派は政権に都合の良い法律を作り、法律解釈を提供し、邪魔者は裁判で処刑し、利権の甘い汁を自分たちも吸うことができます。
東京電力福島第一原子力発電所事故において、「原子力発電が安全でクリーンなものである」ということが神話だったことが公に明らかになりました。この神話を作ったのは、政・官・業の「鉄のトライアングル」だけではありませんでした。報道・法曹・学界も癒着の仕組みにしっかりと組み込まれていました。御用学者たちが、原発の安全性を専門家として補強していたのです。
昔も今も罪に変わりはありません。学識者は「知識の鍵を(人々から)取り上げ」独占したがります(52節)。律法を研究し解釈する権限を普通の人々には許しません。1517年の宗教改革は、当時西欧で唯一正統だった教派が聖書解釈権限を握っていたことへの批判に始まりました。原子力の素人が「原爆と原発は同じ。即時停止を」と訴えても、専門家は一笑に付していました。しかし今も続く日本の惨状と、1945年から続く地球全体の被曝総量の増加状況はどうでしょうか。放射性物質の垂れ流しという点では原爆も原発も同じです。
しかも御用学者たちは、「人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしない」のです(46節)。ファリサイ派の人々は有言実行でした。ただしそれを自慢することが彼らの罪でした。それに対して律法の専門家は解釈だけをして、自分が実行するかどうかは関係ありません。原発は安全だという御用学者は、ウラン採掘をしたり、定期検査中の原発の中に入って掃除をしたり、核燃料輸送車を運転したりはしません。それらの被曝労働は、貧しい人びとに割り当てられるのです。
まとめて言えば、御用学者の聖書解釈・法令解釈は、公共の利益のためになされません。力をふるっている人々の利益のため、また、そこからこぼれ落ちる自分自身の利益のためになされています。
このような律法の専門家に対して、「預言者」が対置されています(47・49・50節)。旧約聖書に登場する預言者の多くは、自分自身の利益のためではなく、社会全体の利益のために王を批判しました。彼ら彼女たちの中には行政官僚や、祭司など地位の高い者もいましたが、専門性をもった聖書解釈の専門家はいませんでした。知識によるのではなく、むしろ預言者たちは、「遣わされた者」(使徒)という使命感、困っている人たちの代理という正義感、よく考え抜かれた思想(神の知恵)を原動力にしていました。
彼ら彼女たちは「王の政策間違えのために、このままでは国が滅びます」という忠告を、直接王に向かってしました。王は政治権力も司法権力も握っている絶対君主です。「王は裸である」と王に直接言った結果、預言者の中には迫害され殺された者もいました(たとえばエレミヤ書26章参照)。まっとうな批判を権力者にまともに行う人は、いつの時代でも権力者たちに憎まれるものです。そして邪魔者として消されていくものです。
「イエスがそこを出て行かれると、律法学者やファリサイ派の人々は激しい敵意を抱き」ました(53節)。ここに登場する律法の専門家が旧約時代の預言者を殺す側の人間であることが分かります。そして同時にイエスが旧約時代に殺された預言者の一人であることが分かります。
細かい話ですが、その場を出て行ったイエスに彼らが質問を浴びせることは不可能です(53節)。ここは田川建三に従って、「彼が言ったことを口で反復しはじめ」と翻訳すべきです。論敵イエスの言葉を何度も口ずさむ行為によって、敵意の激しさを表現しているのです。記憶を強めるその行為が、言葉じりをとらえようとする悪巧みと直結します(54節)。
「天地創造の時から流されたすべての預言者たちの血」と(50節)、イエスが十字架で流された血は、人間の罪を教えます。罪とは律法の専門家が持っている悪です。利権にたかることであり、自分にとって不都合な論敵に憎しみをむき出しにし、その人を消し去っても構わないと考え、実行することです。
しかし十字架のイエスは罪を教えながら、罪を赦しました。十字架上でイエスは、自分を殺しつつある律法の専門家たちをも含むかたちで、「アッバ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(23章34節)と祈りました。イエスは、律法の専門家と対峙し論争した時に、自分が「こんな人たちに」殺されると知っていました(9章22節)。そして「こんな人たち」にも永遠の命を配るためによみがえらされたのです。
十字架でイエスを殺したのはわたしだ。しかしそのわたしの罪を赦し贖うためにイエスはあえてわたしに自分を殺させたのだ。そもそもは出来レースであり、そもそもから赦されていたのだ。このことを受け入れるだけで良いのだ。
律法の専門家の中で、復活のイエスに出会って、自分の罪を教えられ、自分の罪を贖われ、新しい生き方を始めた人がいます。ルカの友人・使徒パウロです。ルカが福音書で律法の専門家を描くときに、はっきりと意識したのは友人のパウロでしょう。
パウロはユダヤ政府の御用学者となって、イエスを信じる者たちを迫害し逮捕しました。しかしその途上で、「なぜわたしを迫害するのか」という質問を天から浴びせられます。復活のイエスです。イエスと信者は一体化しています。そこで、パウロは十字架・復活のからくりを納得します。裁くために赦し、赦すために裁く。それがキリストの十字架による神の救いです。この救いの方法が「神の知恵」です(49節。Ⅰコリント1章21・24・30節)。預言者以上の方がここにいます。こうしてパウロは権力者の利権のおこぼれにあずかり私腹を肥やす御用学者から、預言者たちと同じ「使徒」(49節)となります。十字架に架けられたような貧しい姿で宣教の旅を続け、最終的には迫害され殉教します。この世界の常識によれば、パウロの人生は不幸なのでしょう。しかし、聖書によれば元々の律法の専門家としての人生のほうが不幸であり、そこから悔い改めたパウロは幸いな人生を送ったと言えます。逆説的な自由の謳歌です。
すべての人はこの救いに招かれています。自分は優れていて威張ることができる・他人を搾取しても良いとい考える人はそのままでは救いようがありません。ところが、「こんな人たち」に対してさえも神は、罪を教える機会を与えています。ましてや、日々壁にぶつかり自分の弱さを知る人、誰かを犠牲にすることに嫌気を感じている良心的な人は、すぐにでも十字架・復活の救いを受け入れたら良いと思います。人生の重荷がものすごく軽くなります。天地創造の昔から存在が肯定され、無条件に赦されているという愛を「アーメン」と言って受け入れるだけで良いのですから。パウロのバプテスマは、イエスと出会って三日後、実に教会の中でさえないユダという人の自宅での出来事です。
この愛を受け入れた人は新しい生き方に遣わされていきます。新しい生き方の一例を、今日の箇所から取り出してみます。今の時代の責任を負うことです。
「今の時代の者たちが責任を問われる」(50・51節)とありますが原文は主語が逆さまです。「今の時代の者たちによって責任を問われる」と書いてあります(欽定訳等参照)。わたしたちがアベルの血・ゼカルヤの血・イエスの血の加害責任を先祖に問うて良いのです。過去の歴史の、特に先祖の流血沙汰の責任を、現在を生きるわたしたちが問うようにと、ここで求められています。しばしば「その時代に生きていない者が昔の人や出来事を断罪するな」「あの時は仕方なかったのだ」と言われます。歴史を書くということは難しいものです。その時代を生きた当事者は歴史を書けないのだと思います。必ず自己弁護を入れ込もうとするからです。
十字架の神の裁きと赦しを知る者は正しく歴史を書くことができます。大いなる赦しを知っているので、厳正に先祖の戦争責任も、自分の罪も断罪できます。原子爆弾とは何であったのか。原子力発電とは何であるのか。わたしたちは歴史を書き、未来に教訓を残さなくてはいけません。それが責任です。
今日の小さな生き方の提案は、軽やかにされて重い事柄を引き受けることです。他人に重荷を負わせて自分は何もしないことの正反対です。この礼拝で全存在が軽やかにされて、明日からの責任を引き受けていくことです。キリストが下から支えています。だから人生は自由で楽しいものとなります。