「一つだけ願いを叶えてあげよう」と言われたら、わたしたちは何を望むでしょうか。その一つを絞ることに相当の時間が必要でしょう。この問いは単純ですが深いものです。とても宗教的な問いです。「自分が人生の中で何を最も大切にしているか」という問いに突き当たるからです。そしてそれは、自分が神を信じる理由や、逆に信じない理由ともなります。自分の魂の叫び、本心からの唯一の願いを聞いてくれない神は信じるに値しないからです。
エリコという町の近くで物乞いをしていた男性にとって、一つだけ叶えて欲しい願いは、「見る」(ギリシャ語アナブレポー)ということでした。イエスは、彼に「何をしてほしいのか」と問います(41節)。この質問は、非常に含蓄のある言葉なので、直訳をして解説をします。「あなたのためにわたしがすべきことが何であると、あなたは望みつづけているのですか」。「わたしがすべき」の部分は、ギリシャ語で一回きりの動作を示すアオリストという形が使われています。それに対して「あなたは望みつづけている」は現在形であり、ギリシャ語の現在形は現在進行中の動作の意味も持ちます。
物乞いの男性は望み続け、イエスはそれに対して一回きりの行動で答えようとしています。その行動が何であるべきかを、イエスは迷っています。ここはイエスの戸惑いや相手に対する対話的な姿勢を読み込むべきです。
「わたしがすべき」(ギリシャ語ポイエーソー)は、ルカ福音書と使徒言行録(著者は同一人物)の中で、判断に迷っている人が語る言葉です。たとえば、「愚かな金持ち」の自問自答(12章17・18節)、「不正な管理人」の自問自答(16章3・4節)、「ぶどう園の主人」の自問(20章13節)、パウロの祈り(使徒言行録22章10節)です。
イエスは迷っています。一期一会です。「わたしに共感せよ」(38・39節)と叫ぶ初対面の男性のために、一度きりの行動で何をなすことが最善なのでしょうか。イエスは確かに共感しました。周りは彼を黙らせようとしましたし、イエスから遠ざけ物乞いをしている人を排除しようとしました。しかし、イエスは彼に共感して立ち止まり、目の見えない人をそばに連れて来るようにと言ったのでした(40節)。
イエスはじっと彼を見るのですが、何をすべきかを迷うのです。イエスには彼の人生が見えたのだと思います。なぜ目が見えないのか、なぜ目が見えない人が路上で物乞いをしなくてはいけないのか、人生の苦労が見えたと思います。しょうがい者の人権という考え方もなく、憲法25条もない、バリアフリーという発想もない時代のことです。心身にしょうがいを持った時点で、仕事を失い、家族からも厄介者扱いされるのです。路上で物乞いをする以外にないでしょう。この人のために何をすることが良いことなのでしょうか。
イエスは迷います。しかし迷ったときは当事者に聞くことが一番だということを知っています。「あなたのためにわたしがすべきことが何であると、あなたは望みつづけているのですか」。彼は答えます。「主よ、わたしが見ることを」(41節直訳。「目が見えるように」とは書いていない)。彼は自分の人生で願ってやまない唯一のことを絞りました。常に望み続けていた本心は何か。イエスが通る千載一遇の機会に、「わたしが見ること」と手短に伝えます。
さて、この「見る」の意味をどう考えるかで、二通りの解釈がありえます。一つは文字通り目の見えない人が見えるようになったという意味でとらえる道です。もう一つは、視力の回復を「目からウロコ」としてとらえる道です。今日は二つとも並べて、そこからわたしたちの汲み取るべき教えを引き出したいと思います。
「見る」(ギリシャ語アナブレポー)という言葉は、「見る」を意味するブレポーに、アナという接頭辞をくっつけて意味を付け加えています(英語のforecastのような具合)。このアナをどう考えるかで意味がかなり変わります。アナの第一の意味は「上の方に」です。第二の意味は「再び」という意味です。そのほかにも「各々」「互いに」「間に」など多様な意味合いがありえます。
目の見えない人は、いつも肩を落とし、下ばかりを見ている人生だったのかもしれません。「胸を張って、高いところを見上げながら生きる」ことが彼の望みだったのかもしれません。あるいは、彼は元々晴眼者で、人生の途中で視力を失ったのかもしれません。「再び見ること」が、彼の望みだったのかもしれません(田川建三訳の立場)。あるいは、彼は「イエスと目と目を合わせてしっかりと見ること」を望んでいたのかもしれません(本多哲郎訳の立場)。どれもありえます。そしてそれら全ての可能性を含んでいても良いでしょう。「元々は目が見えていたのに見えなくなり、がっかりして下を向いて物乞いをしながら生きているところ、ナザレのイエスが通りかかることを聞いて、イエスと顔を合わせて話したいと思った。だから自分の望みは、胸を張って見上げることであり、再び見ることであり、他でもないイエスと目と目を合わせることだ」というわけです。
イエスはオウム返しの言葉を彼にかけます。「あなたは見なさい(アナブレポー)」。すべての可能性を込めて、彼自身の魂の叫び・本心に立ち返った願い求めを、そのままイエスは言葉にします。当事者が願う解決こそ、問題の真の解決です。米軍基地をどかしてほしいと願う人々に、お金をあげるから我慢しろというのは、真の解決にはなりません。あるいは様々な人生相談においても、まずは当事者の願いを聞いて、そこに反論しないで「当事者の願いの達成のために親身になる」ことが基本です。オウム返しで良いのです。「見上げよ。再び見えるようになれ。しっかりと見よ」と、イエスは彼に言いました。こういった応答関係に「信」というものがあります。
「あなたの信があなたを救った」(42節)。「盲人はたちまち見えるようになり」ました。本心の願いを言い、本心の願いに本心から応援するときに、奇跡が起こります。イエスに倣う教会が提供する救いは、そういうものです。目が見えるようになった男性は、イエスの弟子となりエリコへと一緒に歩いていきます。教会は一期一会であっても出会う人々の固有の魂の叫びに応える存在であるべきです。そういう仕方で仲間を増やしながら、神を賛美しながら(礼拝)、旅を続ける群れです(43節)。以上が第一の字義通りの解釈の道です。
第二の解釈の道は比喩的なものです。頭の中が真っ白になったり、目の前が真っ暗になったりすることからの解放体験のたとえとして読むのです。いわゆる目からウロコの体験が、「見る」ということだと考えられます。
「あなたは見なさい」(アナブレポーの命令形)は、もう一箇所使徒言行録22章13節というところにだけ用いられています。パウロがキリスト信仰を持った出来事を、自分自身で振り返っている場面です(22章6節以下。258ページ)。彼は自分の価値観ががらがらと崩れ去るという経験をしました。彼は熱心なユダヤ教徒(ファリサイ派)の価値観にのっとって、ユダヤ教の異端とみなされたキリスト信徒を逮捕し投獄することに一所懸命でした。イエスという人の子が救い主・神の子であるということは、ユダヤ教徒にとっては受け入れられ難い価値観だったからです。神は人とならないからです。
そのパウロにキリストが現れました。彼にしか見えない形で、彼にしか聞こえない形で、要するに神にしかできない超常的な形で、キリストが現れたのです。「わたしはあなたが迫害しているナザレのイエスである」(同8節)。彼はうろたえ戸惑います。「何をわたしはなすべきか(ポイエーソー)」(同10節)。今まで間違えだと思っていた事柄に真理があったときの驚きです。逆に自分の方が間違えていたという発見です。逆立ちをして生きていたのかという驚き。こういう時人間は頭の中が真っ白になり目の前が真っ暗になるものです。
たとえば、1868年から1945年までは天皇のために死ぬ軍国少年/少女であることが最高の美徳でした。そこに国家がつくりあげた「真理」があったのです。ところが敗戦と共にその価値観はがらりと変わってしまいました。パウロの経験はそれに似ています。国家のために死ぬことではなく自分のために生きることへ。敵を殺すことではなく隣人を活かすことへ。人権・平和が真理となった時、この光の輝きの前に、頭の中が真っ白になり、目の前が真っ暗になります。そこから人々は新たな歩みを始め今に至っています。
パウロはキリストに出会って目にウロコのようなものがかぶさり見えなくなったと言われます。その意味は、文字通りのことではなく、今までの価値観で世界を見ると何も理解できなくなったという事態だと思います。食事も喉を通らないパウロに、一人のキリスト者が遣わされます。アナニヤという人です。彼は勇気を振り絞ってパウロのところに行き、敵であったパウロを仲間に招き、バプテスマを施しました。その時の言葉が、「あなたは見なさい(アナブレポー)」でした(同13節)。「すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった(アナブレポー)」(同9章18節)。
「目からウロコ」の語源となっている出来事が伝えることは、今までの価値観では何も理解できなくなっていたパウロが、今まで間違えだと思っていた事柄を真理として受け入れた時に視界が開けたということでしょう。それがアナブレポーという事態です。本当の意味で再び見て今や別の風景になってしまう経験。これが救いというものです。信仰による救いとは価値観の大転換のことです。強烈な一撃で真っ白・真っ暗にさせられ、その後光の中に歩むことです。
パウロの回心と救いの出来事から改めて考えると、本日の箇所の目の見えない人も、この意味の目からウロコが落ちる経験をもしています。彼もまたメシア像が変えられたのだと思います。「ダビデの息子」(38・39節)とイエスを呼ぶ彼は、救い主をダビデのような強い軍人だと考えています。彼は、イエスが軍馬に乗って颯爽と通り過ぎていくことも覚悟していたでしょう。しかしイエスはたった一人の人の叫びのために、立ち止まるメシアでした。共にうろたえ、目線を合わせて、当事者の「困った」を自分の「困った」にしてくれるメシアでした。こちらの願いをただオウム返しにするだけの人でした。
この無力な方を見上げることに救いがあります。この方に信頼を寄せることに救いがあります。盲人は「見る」ようになりました。この後、また視力を失うかもしれません。しかし、目からウロコは永遠に取り除かれました。過去の「力に頼む考え方」から、今や救われたのです(完了形)。十字架で無力に殺されていった方が神の子であるという信仰によって、世界を見る目が変わりました。大きいもの・力あるものに注目すのではなく、小さいもの・無いものとされているもの・見えないものに注目するという世界観への変化こそ、十字架と復活のイエス・キリストによる救いです。
今日の小さな生き方の提案は、自分の本心に立ち返ることです。何に困って何から救われたいのかを考えましょう。キリストは同じ目線で問うています。「何をしてもらいたいのか」。その上で、「わたしの願いは世界を別の仕方で見ることだ」と答えましょう。そうすればあなたの信仰があなたを救います。