新共同訳聖書の小見出しで、「十二人を選ぶ」(12-16節)と「おびただしい病人をいやす」(17-19節)とされている二つの物語を今日は取り上げます。元本のマルコ福音書では、この二つの物語は逆の順序で記載されています。「湖の岸辺の群衆」(マルコ3章7-12節)、「十二人を選ぶ」(同13-19節)という順番が元々のものです。あえて逆さまにするルカの意図も尊重しながら、二つの物語を併せて読み解いていきましょう。
ルカが逆にした意図は単純に、十二使徒の方が群衆より重要だと考えていることにあります。マルコは群衆に贔屓をしていますが、逆にルカは群衆を好まないという傾向があります。ここに解釈の縦糸があります。それ以外のいくつか注意すべき点が横糸となるのです。
ルカ福音書のイエスだけは徹夜で祈って十二使徒を選びます(ルカ6章12節)。有名な十字架前夜のゲツセマネ(オリーブ山)の祈りに加えて、ルカだけは徹夜の祈り場面をもう一度増やしています。この事実は、人を選ぶということがとても重要であることを教えています。十字架の前夜の悩みに匹敵する重さが、自分の代理人を選ぶことにあります。
イエスは一人で山に登り自分の信じる神に祈ります。古来、山は神との出会いの場所です。モーセもシナイ山で一人神の啓示を受けて、律法を授与されたのでした(出エジプト記19章以下)。アブラハムも山で神に会います(創世記22章)。祈りは神との出会いであり、基本的には一人でなされるものです。
祈りは神に自分の思いを伝えることです。ゲツセマネの祈りは、「このようにされたくない」という思いをイエスは神に伝えました。殺されたくないということです。今日の箇所では、「このようにしたい」という思いをイエスは神に伝えたのでしょう。「使徒となるべき人はこの十二人にしたい」と、決断を前にして神の前に伝えたのだと推測します。
祈りとは何か、祈りにおいてどのような言葉を発すれば良いのでしょうか。イエスに倣うということがわたしたちの基本です。したいことやされたくないこと、要するに自分の意思を神に伝えることが大切です。信じていない人にとっては独り言ですが、しかし信じている人にとって祈りは力となります。自分の意思を考えること・言葉にすることによって、神の意思が次第に明らかになってくるからです。「こうしたい/こうはなりたくないけれども、神さま、あなたはどうお考えですか」。
西南学院大学神学部は、わたしの在学中福岡市の南側郊外に分校として独自の寮と併設して立っていました。干隈分校です。現在は西新という場所に統合されていますし、寮も西新の近くに移設されました。干隈分校の近くに油山という標高の低い山がありました。神学生たちはオリーブ油に引っ掛けて、オリーブ山と呼んでいました。神学部一・二年生の頃は、毎週火曜日早朝、油山に登って中腹の見晴らしの良いところでお祈りをしていたものです。山で神に会うという気持ちです。いずれにしろ独りきりになる時間というものは人間にとって重要です。一分でも良いから独りで祈る。黙祷でも口に出してでも神に、自分のしたいこと、されたくないことを祈ることをお勧めいたします。その時さまざまなヒントを得るのだし、そのヒントのことを神の声と呼ぶのです。
「十二弟子」または原文ではしばしば「十二人」として記されている人々を、ルカだけが「使徒」と言います(13節)。続編の使徒言行録を意識しているからです(使徒言行録1章1-2節)。イエスが地上で活動していた時期には、「使徒」という役職はありませんでした。すべてイエスに従う者たちは弟子と呼ばれています。使徒や、預言者、監督、執事、長老、教師、伝道者などは教会という組織が成長するにつれて増えていった役職名です。神父や牧師はさらにずっと後にできた役職名です。
時代錯誤であっても十二人を「使徒」と呼ぶことにルカの強調点があります。「使徒」(アポストロス)には遣わされた者という意味があります。遣わす者はイエス・キリストです。イエスから使命をいただいて、イエスの代理としてお使いをする者という意味です。この名前自体が持っている意味の重さのゆえにルカは、「使徒」という言葉を重んじます。
イエスの使者である使徒は、一人一人名前を挙げて選ばれなくてはいけません。すでに登場していた三人の名前もあります。ペトロと名付けられたシモン(ルカ4章38節以下)、ゼベダイの子のヤコブとヨハネ(5章10節)です。それ以外の九人は、ルカ福音書では初めて登場します。同じ名前の人もいます。原則としてその場合に、父親の名前や出身地名、思想信条をつけて区別します。シモンが二人いるので、一方を「ペトロと名付けられたシモン」、もう一方を「熱心党(ゼロテ派)のシモン」と呼びます。ヤコブも、「ゼベダイの子のヤコブ」(5章10節、6章14節)と「アルファイの子ヤコブ」(15節)。ユダも、「ヤコブの子ユダ」と「イスカリオテのユダ」(16節)と言われます。
名前の大切さは、その人自身を特定することにあります。名前に人格がくっついていると言っても良いでしょう。選択的夫婦別姓にわたしは賛成です。また外国籍の人に日本風の通名を強いることに反対です。
苗字が無い文化において、その人を特定するために、イエスは親の名前、出身地、思想信条、あだ名などを駆使しています。それは個人を最大限に尊重する配慮です。そして人を任じるときに、間違えを無くすための工夫でもあります。弟子の中にも、多くのシモンやヤコブ、ユダがいたことでしょう。十二使徒を選ぶときに、単純ではあるけれども深刻な人間違えが起こらないようにしたために、このような冗長な記載となっています。
余談ですが、選挙において同姓の候補者の苗字だけを記載してしまった場合には、その1票は割られます。佐藤さんが二人いて、それぞれが6:4の票を獲得していた場合、その1票は二人の佐藤さんに、0.6票と0.4票に分配されます。時々開票結果で端数が登場するのは、このような事情によります。これは人を選ぶ場合の人の特定の重要性と同時に1票の重要性をも示す例です。
イエスは細心の注意を払い最大限の配慮をもって、自分の使者を選びました。ここでは十二人の男性に限っていますが、使徒言行録においては、マティアという男性も補欠選出の上「使徒」とされ(使徒言行録1章26節)、バルナバとパウロという男性も「使徒」と呼ばれています(同14章14節)。さらにパウロの手紙の中では、「アンドロニコ(男性名)とユニア(女性名。ただし異読による)」も「使徒」の中に数えられています(ローマの信徒への手紙16章7節)。誰でもイエスに任じられ遣わされれば使徒になることができるということも確認したいところです。使徒が身分ではなく役職だからです。ルカやパウロの立場を重んじると、復活前のイエスを見たことがあるかどうか、男性であるかどうかは、使徒の条件とは言えません。そして、わたしたちもルカやパウロの立場を採る方が良いと考えます。すべての人は使徒に任じられる可能性があります。
このように名前を大切にされイエスの使者・固有の名前を持つ使徒となることと、正反対のことがらが「群衆」となることです。山の上の十二使徒と、平地での群衆が対比されています(17-19節)。「おびただしい民衆」(17節)、「汚れた霊に悩まされていた人々」(18節)、「群衆」(19節)と三度も記載されているので、鍵語です。今回は特に、「汚れた霊に悩まされていた人々」に注目します。そこに否定的な意味での群衆とは何か、群衆の問題性を考える大切な教えが込められているからです。
「悩まされていた」という動詞は、悪霊や汚れた霊と結びついては古代のギリシャ語の文学であまり用いられないものです。直訳すると「群衆化されている」という意味の言葉です。新約聖書でもルカしか用いません(使徒言行録5章16節に類似表現)。ルカは、他にも言いようがあるのにもかかわらず、悪霊に憑かれている人々を表す際に、わざわざ「群衆化されている人々」と言います。群衆が嫌いだからです。もう少し丁寧に言えば、群衆というものを手放しで肯定できない理由がある、群衆というものには問題があると言いたいのです。その問題とは、使徒の選びとの対比から推測すると、名前を失っていることです。
個人が名前を失うという現象は二つの側面から考えなくてはいけません。一つは社会全体が個人の名前を奪う場合です。もう一つは個人が自ら群衆化しようとする場合です。このどちらも悪霊の仕業として批判の対象となります。
悪霊というものは「時代の雰囲気・空気」と考えることができます。社会全体が共有している嫌な流れです。例えば、「大雑把に括られてしまうこと」があります。「男らしさ」や「女らしさ」もその代表例です。その人個人の個性ではなく、「女子力の無い人」という大雑把なくくりで、個人の名前が奪われていきます。名前のある個人ではなく、人「材」や、労働力としてしか数えられないこともあります。人々は匿名化され、自分の存在価値を見失いがちな社会に漂います。群衆として大雑把に括られながら、一人一人はばらばらに切り離されています。この反対の状況を作るために、十二使徒が選ばれています。
逆に個人が自分に都合の良いように名前を隠し匿名化しようとする場合もあります。進んで名の無い群衆になった方が強い主張をすることができる場合もあるからです。無責任な匿名の意見がのさばることもまた悪霊の仕業です(4章34・41節)。SNS等の暴力的な言葉の氾濫に辟易とします。イエスは十二使徒を選ぶ時に、この種の無責任な匿名の暴力を禁じています。すべて使徒の語る言葉は、自分の名前に基づく責任・遣わしたイエスの名前に基づく責任を帯びるのです。
だからおびただしい数の群衆化された人々や、大勢の病人がイエスによって癒されるということは、「病人」という括りからの解放をも意味します。思えば十二使徒たちも、匿名化され・群衆化されていたのでした。イエスは例えばシモン・ペトロの固有の人生に触れ、名前を取り戻し新たなあだ名を与えました。まず同居家族である義理の母親の熱病を癒してもらうことから始まっていたことはすでに取り上げた通りです。一人一人名前を挙げて祈って選んだ方は、それぞれの人生に関わった方です。
十二人はイエスの言動を通して、神の愛を知り、神の愛を受け入れました。それが救いというものです。社会における自分の存在価値を、イエスを通して知らされたのです。当然のことですが、十二使徒は社会的には無名の人々です。しかしキリストにあって固有の名前を持つ価値ある神の似姿です。そして神の子イエスの使者です。群衆化から解放され、群衆化しない生き方に遣わされるのです。無条件の救いは新しい使命と抱き合わせです。
今日の小さな生き方の提案は、自分の命に意味があることをイエス・キリストを通して確認することです。あなたの名前が呼ばれている。それが救いです。この救いをいただいて群衆化された世の中を生き抜きましょう。