尊重するということ 出エジプト記20章12節  2015年12月13日礼拝説教

あなたの神・ヤハウェがあなたに与えつつある土地で、あなたの日々が長くなるために、あなたの父親とあなたの母親とを尊重すること。(直訳風私訳)

今日は「第五戒」です。十戒のうち第四戒と第五戒だけが肯定文であることを先週申し上げました。蛇足ですが、もちろん「前文」(2節)も肯定文です。

第四戒の場合、命令形ではなく不定詞を用いていることも先週申し上げました。「安息日を覚える」、または「安息日を覚えること」や「安息日を覚えるということ」が直訳となります。第五戒の場合は少々複雑です。ヘブライ語動詞カベドは、命令形と不定詞がまったく同じ形だからです。「あなたは敬え」とも「敬うこと」とも訳しえます。

第四戒と第五戒は文法的に一塊で考える方が素直な読み方です。不定詞で第四戒が書かれているので、第五戒も不定詞と採る方が良いでしょう。というのも、その他の「否定文」も否定詞ロー+動詞の未完了形で統一されているからです。肯定文も統一されていると考える根拠となります。

単語レベルの意味を探ってみましょう。動詞カベドの直訳は、「重くする」です。だから日本語の「重んずる」が最も適合します(岩波訳参照)。相手を敬うという意味です。だから私訳のこだわりは「重」という字を用いることにあります。「あなたの父親と母親とを尊重する(ということ)」。

「重んずる」という表現が特徴的であることは、類似の条文と比べれば分かります。レビ記19章3節を読みます(191頁)。新共同訳聖書ではほとんど同じように聞こえます。しかし、原文のレビ記19章3節は、「各人は、その母親・父親を畏れなさい」とあります。こちらは、母親⇒父親の順番であり、主語を立て、動詞を命令形にし、カベドではなくヤーラーという動詞(畏敬の含意)を用いています。第五戒に比べてレビ記19章3節は、「重」という字を用いにくいものです。「敬いなさい」がかなり直訳調です。

当時の人々は現代人よりも、長生きすることを素直に神からの祝福の結果と考えていました。平均寿命も短かった古代のことです。だから、第五戒の後半部(私訳では従属節)は法律上の要件・効果というよりは(父母を重んじるという条件を満たせば、必ず長生きをするという効果をもたらす)、期待をこめた約束程度の言い方でしょう。両親を敬うことと、本人の寿命には何の因果関係も無いからです。古代人も経験的にそれを知っています。

後半部の重要点は、「長生きの約束」よりもむしろ「神が安住の土地を与えつつあるという現実」にあります。エジプトで奴隷であったイスラエルは、この時点で亡命中です。十戒は、イスラエルが荒野で放浪の旅を続けている最中に語られた神の言葉です。住むべき土地が無い者たちに安心して暮らせる土地を与えることが、さりげなく大前提として語られていることに第五戒の特徴があります。しかもその約束は現在進行中なのです(私訳参照)。この意味で、第五戒は前文(2節)と対応しています。神はエジプトから導き出しました。どこへと導くかというと、神が与えつつある土地へと導き入れようとしているのです。第五戒は、奴隷解放・出エジプトという主題と関係して読み解かれるべきです。

さて、第五戒の趣旨について、しばしば次のように言われます。「第五戒は、年老いた両親への保護を旨としている、なぜならイスラエルにおいても年老いた親への虐待があったからだ(箴言19章26節など参照)」という主張です。わたしはこの主張に反対です。というのも、古代のイスラエルは全体として家父長制が強く、家長である年長の男性が権力を持っていたし、女性差別・若年者差別を是としているからです。「両親を打つ者/呪う者は死刑」(出エジプト記21章15・17節)という恐ろしい条文もあることを覚えるべきです。

さらに現代の女性たちが、高齢の家族を介護する実務を押し付けられている現実をも考えに入れなくてはいけないでしょう。終わりの見えない介護の苦労に追い詰められて、自分の親に対して虐待をしてしまう場合もありえます。聖書を根拠に「年老いた両親を大切にしろ」と言って、加害者のみを問うことは酷でしょう。

老いた両親保護ということではなく、もっと出エジプトの物語の文脈に即して第五戒を読み解くべきです。それはエジプトの元奴隷たちにとって、荒野で逃亡中に自分の父親と自分の母親とを重んじるということが何を意味するのかということです。

米国留学中にお世話になったCottrell Rick Carsonというアフリカ系アメリカ人男性の新約聖書学者がいます。この人の第五戒についての解説に感銘を受けました。黒人神学者として、彼も米国の奴隷制度の負の遺産としての黒人差別に憤り、黒人たちの苦難の現実に聖書を引きつけて解釈していきます。大まかに次のような主張です。

奴隷にとって親というのは存在しない。奴隷船から降りたら、そこで競売にかけられ、家族がばらばらに別の白人旦那の家に買われていく。個人として尊重されず、物として売り飛ばされる。そしてその家で、白人旦那の強姦により父親のいない奴隷の子どもたちも多く生まれた。米国黒人の色が薄いのは偶然ではない。

出エジプトを果たしたイスラエルの奴隷たちも、家族をばらばらにされた者や、本当の親を知らない者たちも多くいたのではないか。その人々に神は、新しい「家族」をかたちづくるように促しているのではないか。それは決して血縁による家族ではない。信仰共同体である。第五戒の「あなたの父親」「あなたの母親」とは、たまたま一緒に逃亡し寝食を共にしている仲間・隣人のことではないか。その人々が個人として互いに尊重し合う群れを創ることを神は望んでいる。

わたしはカーソン教授の解釈に感銘を受けました。もちろん、米国黒人奴隷と古代エジプトのヘブライ人奴隷は、さまざまに異なることもありましょう。しかし、奴隷たちが個人として尊重されていないということや、家族というものの形成が難しいということは、まったく同じであろうと思います。「男性の赤ん坊をナイル川に投げ込め」という勅令に従わなくてはならなかったところが、そもそもの物語の始めでした(1章22節)。この勅令以外にも家族の分断を強制されることもありえたことでしょう。

イスラエルの旅は新しい共同体をかたちづくる旅です。共に救われたという共通点を持つ個人が、共に同じ救い主を礼拝する、その中で互いに尊重する。約束の土地に向かう途上で、共に歩きながら「互いに進んで隣人となる者」へと成長していくことが期待されています。

こういう含みが文法に影響していると思います。不定詞という曖昧な言い方が、広い意味の広がりを獲得しています。読者は、「父とは誰か」「母とは誰か」「尊重すべきわたしの隣人とは誰か」と常に考えなくてはいけない言い方なのです。軽んじられていた人々が、神に重んじられ、互いに重んじ合う、その時すべての隣人が、わたしたちの両親となります。

「血のつながった両親への孝行」に意味範囲を狭めない第五戒解釈は、ナザレのイエスの振る舞いとも共鳴しています。福音書の伝えるイエスは、実母であるマリアに対して、あまり温かい態度を取っていないからです。たとえば、実母のマリアから頼まれごとをされた時にイエスは、「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです」と冷たく突っぱねています(ヨハネ2章4節)。聞きようによっては親不孝な態度です。ここには、血縁関係を相対化する姿勢が見えます。

また別の場面でイエスは、母親と兄弟が訪ねてきたとき、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と言い、自分の周りに座っている人々を指して「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」と言い放ちました(マルコ3章31-35節)。イエスにとって血縁関係はそんなに重要なことではありませんでした。むしろ、神の意志を行う者が、イエスの母・兄弟なのです。つまり、イエスにとって重んじるべき母親は、自分の周りに居て一緒に旅をしている女性弟子・仲間たちなのでした。母マリアもイエスの弟子となるという逆転が後に起こっています。

イエスの目の前に「永遠の命を受け継ぐために何をすべきか」と問うた男性がいました(マルコ10章17節以下)。イエスは十戒を部分引用します。「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」。おそらく永遠の命との連想で、「日々が長くなるために」という従属節があるので、第五戒を最後・最重要に持ってきたのでしょう。彼は反論して、それらは守ってきたと言います。イエスはすべての財産を寄付した上で、自分の後ろに従い旅をしなさいと言います。これが本当の意味で父母を敬い、永遠のいのちを生きることなのだという意味でしょう(マルコ10章29-30節)。イエスの弟子たちは男性であれ女性であれ、自分の家を捨ててイエスの後ろにつき従ってきた人々でした(マルコ1章19-20節)。この人たちは血縁関係を相対化しています。イエスの振る舞いを真似しているから当然のことです。

ここに教会の原型があります。教会は、イエスの始めた神の国運動の継承者だからです。初代教会以来、教会が同信の友のことを「兄弟姉妹」と呼びならわしている理由は、血縁関係を相対化する新しい家族を創ろうという意志にあります。個人的には、男性女性以外にも、男女の間の性や、男女ではくくりえない性があると考えているので、男女二分法を前提にした「兄弟姉妹」という言い方は今日批判されるべきだと考えています。週報で用いないゆえんです。

教会はイエス一行の旅からさらに遡って、イスラエルの荒野の旅にならうことができます。旧約聖書も正典に含めているからです。兄弟姉妹という言い方よりも、あなたの父親・あなたの母親という言い方のほうが、より広くすべての人にあてはまる言い方になるかもしれません。または、「自分自身のようにあなたの隣人を愛しなさい」(レビ記19章18節)という最重要の命令と、よく重なるように思えます。「自分と相手とは対等である」というよりも、「どんな人も自分よりも優れた人である」と考えたほうが良いということです。ここにわたしの母親がいるという心境です。こう考えるならば、実の両親から虐待を受けたことのある人にも受け入れられる言い方となるでしょう。また、単純に親孝行したい人にも受け入れられる言い方ともなるでしょう。

今日の小さな生き方の提案は、新しい交わりを創りだすことです。社会での地位は関係ありません。血縁関係の有無・性別・年齢の差・民族の別・経済力の違いなどもどうでも良いのです。目の前にいる人を、個人として重んじるという交わりです。教会ではさまざまな逆転現象が起こりえます。たとえば、最も若い琴子さんを自分の母親とみなして尊重するということです。具体的に何をするかについて、自分の頭で考えて行うことが求められています。