アドベント(到来)とも呼ばれる待降節に入りました。12月24日までの四回の日曜日を教会暦ではこのように呼びます。ちなみに教会暦は一年の開始をアドベントからとしています。今日は教会暦の上での「元旦」です。
イエス・キリストの誕生を、教会では降誕と呼びます。天から地へと神の子が降りたと考えるからです。そして教会はクリスマスで一度降りた方が、十字架・復活・昇天を経て、もう一度降りると信じています。再臨と呼ばれるものです。世界が完成する時に、主イエス・キリストが再び到来することを、わたしたちは待ち望んでいます。待降節には二重の意味があります。二千年前の降誕を祝うという意味と、もう一つ、今来つつある主を待ち望むという意味です。
本日の箇所は一読すると、再臨の希望についていささか皮肉な箇所のように読めます。イエスが自宅に来ることを遠慮するローマ軍将校・百人隊長の話だからです(6節)。同じカファルナウムという町でも、シモンという漁師はイエスを自宅に招いて自分の姑を癒してもらったのですが(4章38-41節)、それとは正反対の態度に思えます。細かく見ると、最初は百人隊長もシモンと同じようにイエスに頼んでいます(3節)。ただし途中で気が変わっています(6節)。形式的には、両者は正反対の行動をとったように見えますが、シモンと百人隊長には共通点があります。それは、「イエスが自分の信頼する人(姑や奴隷)の病気を治してくれる」という、イエスに対する信(ピスティス)です(9節)。そしてユダヤ人であるシモンよりもローマ人である百人隊長の方が、より高く評価されていることに注目すべきです(9節)。
百人隊長はイエスに自宅を訪れてほしくないのではなく、イエスの言葉だけで十分だと考えています(7節)。なぜなら、イエスの言葉はこの地上で必ず実現すると信じているからです(8節)。ここにはアドベントの過ごし方についての示唆があります。イエスが未だ到来していない時代にあって、わたしたちは何にすがって生きるべきでしょうか。それは神の言葉です。神の言葉が必要であり、神の言葉で十分なのです。ここにわたしたちが毎週聖書を読み、聖書の解説を聞く理由があります。
さらに驚くべきことに、ここでイエスは百人隊長の奴隷に対しての言葉を一切語っていません。「あなたの病気が治るように」や、「必ず治ると奴隷に伝えて欲しい」などと、イエスは言っていません。イエスは、群衆に向かって「イスラエルにもこのような信仰の持ち主はいない」という褒め言葉を語りました。だから、「ひと言おっしゃってください」(7節)という求めに応じていません。
語った言葉が実現するよりも上の出来事が起こっています。創世記にあるような「神は言われた。するとそのようになった」という出来事以上の奇跡が起こっています。百人隊長の持つイエスに対する「信」が、イエスの言葉なしに癒しの出来事を引き出しています。「あなたの信があなたの奴隷を救った」とイエスは心の中で言ったことでしょう。
イエスの体があるかないかに救いは限定されません。それと同じようにイエスの言葉が伝わるか否かにも救いは限定されません。心の中でイエスを信じるだけで良いのです。目にも見えず耳にも聞こえない信頼関係です。人は心で信じて義とされます。「義とされる」ということは正しい信頼関係に入るという意味です。イエスから自分への声かけも、自分からイエスへの応答も不要です。イエスが自分を愛していることと、自分がイエスに望みをかけていることを、心で信じるだけで良いのです。
ローマ人であり軍人である百人隊長が大いに評価されているのは、ナザレのイエスが自分の奴隷の重病を必ず治すと信じていることです。ここにわたしたちの模範があります。
さて彼はどのようにしてこのような信を得たのでしょうか。もう少し百人隊長について掘り下げて考えてみましょう。どのような生き方からイエスへの信頼がにじみ出てくるのかを思いめぐらしてみましょう。何しろ彼にとってイエスは未だ会ったことのない人物です。会ったことのない人になぜこれほどまでの信頼を寄せることができるのでしょうか。
新約聖書全般に百人隊長や千人隊長には良い人が多いという傾向があります。そしてルカ文書には特にその傾向が現れます。今日の物語は使徒言行録10章に登場するコルネリウスという百人隊長が使徒ペトロを自宅に招く話と非常によく似ています。特に同10章22節にコルネリウスが「すべてのユダヤ人に評判が良い人」と評されていることが、重要です。
当時の状況を考えてください。ローマ帝国という巨大な国の一植民地に属州シリアがあります。属州シリアの一部がパレスチナ地域です。たとえば1910年から1945年まで、日本は朝鮮半島を植民地としていました。その日本軍の将校が、統治されているその地域の朝鮮人たちみんなから評判が良いという状況と同じことです。または琉球諸島やアイヌモシリを思い浮かべても良いでしょう。
どうすればそのような状況が生まれるのでしょうか。今まで知らずに読み過ごしていましたが、シモン・ペトロやイエスが共に礼拝を捧げたカファルナウムの会堂は(ルカ4章31節以降)、この百人隊長がわざわざユダヤ人のために建ててあげた建物だったというのです(5節)。ローマ人やローマ兵には一級の土木建築技術があります。もちろん統治者として財力もあり、権限もあります。その力を、軍事占領されている人のために用いたわけです。権力というものは用いるべきものです。それも社会で小さくされている人のために用いるべきです。相手の文化を尊重し、ユダヤ人たちの礼拝の自由を保証し、礼拝の自由・権利を拡張してあげる行為を、百人隊長は実行しています。そのような人物であることを知っているので、ユダヤ人の長老たちは喜んでローマ人百人隊長の使者として伝言をします(3-4節)。百人隊長は対外的な信頼をかちとることができる人物です。
さらに加えて、対内的にも百人隊長は信頼関係を作ることができる人でした。彼は、自分の奴隷を重んじることができました(2節)。中間管理職の難しさは部下を信じて、部下に仕事を配ることができるか、右腕になるまで部下を育てられるかにあります。他人に任せられない人は、自分の能力の範囲内のみの仕事が組織の中で期待されます。自分の能力の範囲外には任せられないのですから、自分の能力が仕事範囲の限界となります。他人に任せられる人は、自分の能力の範囲の外まで仕事の範囲を広げることができます。
「百人隊長に重んじられている部下(奴隷)」(2節)という言葉の直訳は、「そしてその彼は(関係代名詞)彼にとってかけがえがない」という表現です。自分の奴隷を尊重し一目置いて、もはやその彼がいなければ仕事ができないというぐらいに信頼しているということが分かります。また、読者にとっては、「彼」が連続しているので、百人隊長と奴隷とどちらが主語か一瞬分からないという効果もあります。読みようによれば、「奴隷にとって一目置かれている、かけがえのない存在である百人隊長」ともとれるのです。この曖昧・両義的表現は相互信頼を示唆しています。
百人隊長には「友達」もいました(6節)。急な用事でも彼のためなら一肌脱ぐ友人がいるということは、内部的にも信頼が厚い人物だったことを伺わせます。対内的にも対外的にも非常に円満な人です。誰とでも分け隔てなく信頼関係を結び、信頼関係の輪を広げていくことができる人です。
このような人は相手のことも思いやることができます。イエスに迷惑をかけるような状況を作り出すと、イエスに申し訳ないと先回りして考えることができます。イエスはユダヤ人です。非ユダヤ人であるローマ人の自宅に入ることは律法違反の謗りを受けることになります。もし、イエスが律法から自由な振る舞いを喜んでするにしても(4-6章)、後で必ず論争になるのも申し訳ないと、百人隊長は考えました。友人がイエスの言葉を伝言するだけならば、ユダヤ人を自宅に入れることなく用が足りると思いつき、自宅一歩手前でイエスの訪問を未然に防いだのです(6節)。だからこそ直接会うのも避けたわけです(7節)。百人隊長は単に謙虚で謙譲にも遠慮しているというわけではありません。イエスに非難が集中しないように工夫しているのです。
こうして考えてみると8節の解釈の方向が定まります。「権威」(エクス-シア)とは、軍隊の上下関係のことだけを指しているのでしょうか。もしそれがここで褒められているのならば、わたしたちは軍隊という暴力組織内の人権侵害や、カルト宗教内の洗脳や搾取や暴力を批判できなくなってしまいます。バプテスト教会にピラミッド状の上意下達は望ましくありませんし、わたしたちの神への信仰はそのようなものではないはずです。
エクスーシアは、「~から」という部分と「存在」という部分から成ります。自分自身から解放されている様を表します。だから、権威、権力、権利、主権、自由とも訳されるのです。
百人隊長が「わたしも権威の下にある」と言う時に、彼は自分が軍人であるということも言いながら、「わたしもあなたと同様自由の下にある」とも言っています。事実百人隊長は軍隊組織の中で自分の権限を用いながらかなり自由に振舞って、ユダヤ人に親切をしています。もしかすると同僚のローマの軍人たちから、後ろ指を指されていたかもしれません。イエスと同じ境遇です。律法から自由であり、本当の意味で権威を持つ「主権者」として、憐れみたい人を憐れむイエスは、まだ会ってもいない百人隊長の心の友だったのです。
「言葉だけで十分」と願うローマ人百人隊長と、「このような信はイスラエルにもない」と褒めて、言葉もかけないでローマ人奴隷を癒すイエス。彼らは顔と顔とを合わせて出会っていないけれども、心の底ですでにお互いのことをよく知り、お互いに信頼を寄せ合っていたのでした。イエスが褒めたのは、百人隊長がすでに作り上げ、自然にどんどん大きくなっている信頼のネットワークだったのです。
かつても今もこのローマ人百人隊長のようにアジアで振舞っていない罪責を、わたしたちは思わざるをえません。大阪府から派遣された機動隊員の沖縄の人への「土人発言」「シナ人発言」はわたしたちの罪の表れです。権力の傘の下で暴力を振るうのではなく、真の自由・真の主権の下で隣人となっていく歩みが必要とされています。
今日の小さな生き方の提案は、ローマ人百人隊長のような振る舞いをすることです。一度も会っていないイエスを信頼するということは、わたしたちにもあてはまります。わたしたちも見ずに信じているのです。神を信じていると言いながら隣人を信じることができない人は嘘をついています。神を信じている人は、信頼のネットワークを対内的にも対外的にも広げている人です。自分の権限を用いながら、自分を縛る地上の権威から自由になりながら、神と人から信頼をかちとる生き方を少しでも実行しましょう。