永遠の命に至る水 ヨハネによる福音書4章1-15節 2013年6月30日礼拝説教

今日も永遠の命を得ているということがどのような生き方なのか、一つの例を申し上げます。これまでに、「わたしは」という主語で語り自由になること(3:1-15)、威圧的にならずに暴力を捨てること(3:16-21)、冷静で寛容な真の友人となることなどを(3:22-36)、永遠の命を生きることとして紹介してきました。今日の聖句の場合は、隣人に偏見を持たない・公正に見るという生き方の勧めです。この実践は決して渇かない水を内側に持つ生き方です。心の深いところに、命の水の泉を神からただでいただくのです(14節。6節も「井戸」ではなく「泉」)。決して将来の永遠の命をあの世でいただくということではありません。現在、生ける水がこんこんと湧き出る生き方の話です。公正を洪水のように正義を大河のように流す人生への勧めです(アモス5:24)。

『橋の無い川』という小説があります。映画化もされました。被差別部落に対する差別の問題を真正面から取り上げた本・映画です。部落差別は日本特有の門地による差別です。300万人と言われる、ある特定の地域出身者への結婚差別・就職差別は今でも根強くあります。映画の一場面で印象に残っているのは、被差別部落出身の人たちとそれ以外の人たちが絶対に共に食事を取らないこと、特に彼らの使った食器を「汚れたもの」として無造作に投げ捨て壊す場面でした。共に食卓につくということは対等の友人の交わりを意味し、それができないということは交わりが断たれている状態であることを教えられます。

日本の教会において主の晩餐(聖餐式)で小さな杯が用いられるようになったきっかけは部落差別にあったと聞きます。聖書的には一つの杯の回し飲みが適切なあり方でしょうし、実際そのようにしている教派もあります。共に同じ食器を用いないことと差別は深く関わります。

「ユダヤ人はサマリア人と交際しないからである」(9節)とあります。「交際する」という単語を、「飲食を共にしない」と解釈する学者がいます。というのも、原義は「共に・利用する」だからです。サマリア人が用いる杯をユダヤ人は用いないのが当時の常識です。そこに差別があったからです。イエスはサマリア人への差別を乗り越えています。

ここでユダヤ人がなぜサマリア人を差別していたのか、かいつまんで経緯を述べましょう。そもそもの発端は紀元前722年の北イスラエル王国の滅亡にあります。南北に分かれていたユダとイスラエルのうち先に北だけがアッシリア帝国に滅ぼされます。アッシリア帝国は北の上層階級のみを強制連行し、その代わりに別の五つの民族を北の領土に移住させます。婚姻は自由でした。こうしてイスラエル=ヤコブ(5、6、12節)を先祖にした新しい民族が人為的に作られます。北の首都サマリアにちなんでサマリア人と呼ばれます。

ここに一つの差別の原因があります。ユダヤ人が「純血主義」を採るからです。サマリア人は「混血」(この表現も差別的です。そもそも「混血」でない人間がありうるのでしょうか)だから、「半ユダヤ人」として差別される対象となりました。

さらに南が滅ぼされた(バビロン捕囚:前587年)後に、差別は強化されます。前539年に南出身のユダヤ人が強制連行から解放され帰ってきます。サマリア人は自分たちの居住地が縮小されるので、ユダヤ人の帰還と入植に抵抗していました。現在のパレスチナ問題に似ています。

エルサレム神殿と『モーセ五書』を中心に「正統」的なるユダヤ教団が発足します。サマリア人は独自の教派を作り、少しだけ修正を加えた『モーセ五書』(創世記から申命記)をもって分派します(前3世紀)。そしてユダヤ教団に対抗してゲリジム山に神殿を建て、そこでの礼拝を実践します。少し異なる聖書を持ち別の神殿で礼拝を行うサマリア人。ユダヤ人はサマリア人を「異端」として差別します。これは宗教的な差別です。「反ユダヤ教徒」というわけです。

マカバイ戦争というユダヤ人の民族自決を求める独立戦争がありました。その際に、ユダヤ人の軍隊はサマリア人の大切にしているゲリジム山の神殿を焼き討ちにし、多くのサマリア人を虐殺する事件を引き起こしています(前127年)。このような「戦争犯罪」もあり、「歴史認識の違い」もあり、両者の間の対立は決定的になりました。そして力関係で言えば、ユダヤ人が上でありサマリア人が下であったのです。差別の加害者はユダヤ人、被害者はサマリア人です。

イエス時代(後1世紀)のユダヤ人はガリラヤ地方とユダヤ地方を往来するときに、近道であるサマリア地方を通らずに、わざわざデカポリス地方に大回りしたと言われます。サマリアという土地に対する嫌悪感からです。この点を捉えるならばサマリア人への差別は「門地による差別」でもあります。イエスがあえてサマリア地方を通ることそのものが(4節)、差別の克服です。

ユダヤ人によるサマリア人差別は非常に複合的な差別です。今日の日本に当てはめるならば、在日朝鮮人差別や部落差別や非嫡出子差別や宗教的少数者への差別などが重なり合ったものです。そしてこの場面の場合、性差別も重なっています。ユダヤ人男性とサマリア人女性の交流の場面だからです。

差別とは何か。それを「罪」という単語に置き換えてもいいのではないかと言ったキリスト者がいます。本当にそうだと思います。差別とは人の心の中の最も汚い部分です。自己中心という定義では足りません。他者への加害性、特に偏見というものが抜け落ちがちだからです。ある人を貶めて良いと短絡的に考えること、ある人は犯罪者予備軍なのだなどと予断を持つこと、この差別こそ罪という言葉のより良い定義です。そして差別とは、人の心の問題だけではなく、最も汚い部分を肯定した上で組み上げた社会の仕組みでもあります。ある人々への差別があるところには、その人々への不当な犠牲を強いる仕組みもあるのです。オキナワとフクシマが問うていることがらです。

キリスト教会は罪からの救い、罪からの解放を説きます。そうであるならば、教会の説く救いは差別からの救い、差別からの解放です。差別されている被害者にとってはその苦しい状況から解き放たれることです。差別をしている加害者にとっては差別意識を失くそうとし加害の状況を改善していくことです。それが永遠の命を生きるということなのです。

「(イエスは)サマリアを通らねばならなかった」(4節)とあります。何のためだったのでしょうか。一つの理由は差別の被害者サマリア人に解放をもたらすためです。このことについては来週詳しく語ります。今日指摘したいことは、「通らねばならなかった」という表現が、徴税人ザアカイという人を訪問する際にも用いられているということだけです。すなわち「今日、あなたの家に泊まらねばならない」(ルカ19:5)とイエスが語りかけている表現がそれです。

もう一つの理由は加害者ユダヤ人である弟子たちへの現場研修・実地研修だったということです。永遠の命を得ること、永遠の命を得ていること、永遠の命を生きることは、罪・差別・偏見からの解放です。サマリア人に対して現にある差別を乗り越えることが弟子集団には必要であるとイエスは考えたのだと思います。27節の弟子の態度はよく学んだ者たちの態度でありましょう。初めは驚くけれども、後に学習内容を理解したというように読めるからです。

イエスの弟子たちは信頼のネットワークをつくるという仕事を負っています。それはあらゆる人を招きうる真の友人関係を、イエスを礼拝しながら、イエスを中心につくるという仕事です。そのために軽蔑されていたガリラヤ地方のユダヤ人たちが選ばれたのです(3節)。ガリラヤのカナ出身のナタナエルが、同じガリラヤのナザレ出身のイエスに偏見を持って差別していたことを思い出してください。同じように弟子たちはサマリア人にも偏見を持ち差別している可能性が高いでしょう。差別とは複合的なものです。その複雑に絡み合っている加害と被害のもつれを、丁寧に乗り越えること、それこそ罪からの解放、罪からの救い、永遠の命をもたらす泉(本田訳)を自分の内に持つことです。

バプテスマという儀式が水を用いることはこの泉との関係でうまい連想です。水で清められた者は常に清めの水を内に持つという連想です。罪・差別・偏見とはただ一度の問題ではなく、一生の問題です。わたしたちは常に洗われ続ける必要があります。あるいはバプテスマを受ける前に聖霊を飲んだわたしたちは常に聖霊を飲むことによって内側を清めてもらう必要があります。これは一生の問題です。毎日飲む水の問題といってもよいでしょう。

心の奥深いところでは汚い水を吹き出している、それがわたしたちの実態です。表面は低姿勢でも激しい偏見を隣人に持っています。たとえば福島支援の復興庁の高級官僚が、市民団体や被災者に対してとんでもないことを思っていたことが明らかになりました。これが現実の罪・差別・偏見です。

松本に住んでいた時に、被差別部落出身の部落解放運動家に駐車場を無償で貸したことがあります。月に一度来るその方と、時に話し込んだりもしました。「牧師さん、部落の者には黒い血が流れているとか、指が四つしかないとか言われているのを知っていますか。俺の指は何本に見えますか。何ならここで俺の体を切ってください。同じ赤い血が流れますよ。この偏見が差別です。」

サマリア人に対する偏見をどのように取り除くのか、イエスは何をしたのでしょうか。単純に当たり前のことをしました。普通は近い道のりでサマリア地方を通ると考えて、サマリア人と同じ場所に来たということ、そしてユダヤ地方から何日もかけて旅をしたので疲れたということ、さらに喉が渇いたので目の前のサマリア人女性に「水を飲ませてください」と声をかけたということです。これらは当たり前のことです。この当たり前のことができるというところに、イエスの非凡さが表れています。なぜならイエスがサマリア人への偏見・差別を乗り越えているからです。たとえばイエスは道で倒れている人を見かけたら助けるのが当たり前と思っています。仮にユダヤ人が倒れサマリア人が通りかかったとしても、そうです(ルカ10章)。これが聖霊に満たされている人の生き方です。イエスが弟子たちに教えたかった内容です。

サマリア人女性の応答も優れています。彼女も共通の先祖であるヤコブを持っていることを論じます。またヤコブも子孫も家畜も同じ井戸から水を汲んで当たり前の人として生きたことを語っています(12節)。すべての人は系図を遡れば神に至る「神の似姿」です(ルカ3章、創1章)。そして同じように飲み食いするただの人の集まりです。そこに気づけば、偏見を持たずに差別を乗り越えて、同じ食卓につき、同じ杯を用いることができるはずです。

小さな生き方の提案です。偏見を持たないで隣人を見、隣人の声を聞き、隣人と触れ合い、自ら隣人となりましょう。どんな人をも偏り見ないで差別を止めましょう。イエス・キリストを信じて求めるだけでこの生き方が与えられます。「永遠の命へと噴きでている水の源泉(14節直訳)をください。聖霊をください。自由な風をください」と求めるだけで良いのです。キリスト教信仰とは単純なものです。罪からの救いを求めること、すると無条件に与えられるということ、そうして当たり前の人として生きる生き方が与えられるということ、これが信仰です。イエス・キリストを信じて従いましょう。自分の罪深さ・差別性に常に敏感でありつづけましょう。命の泉を持つ群れになりましょう。