燭台の上のともし火 ルカによる福音書11章33-36節 2017年7月23日礼拝説教

今日の箇所はともし火を用いた例え話です。まず話の大前提は、ここで言う「ともし火」や「燭台」がどのような日用家具であったかの基礎知識を持つことです。19世紀以降急速に発展した考古学の発掘成果によって、当時のパレスチナからも、ともし火は大量に出土しています。ともし火は、手のひら程度の焼き物です。油を入れるような器で、先の方が紐状の芯を挟むように細くなっています。イエスの時代には、急須のような形に発展しています。

燭台はこのともし火の明るさを増幅させる家具です。燭台の上に乗せ高いところに置くことによって明るさは増します。電灯を天井に設置することと同じです。さらには複数のともし火を乗せることができる燭台によって、明るさを増し加えることができます。それでもせいぜいキャンドルサービス程度の明るさがこの例え話の想定している明るさです。一つのともし火は、その芯の太さより大きな火を作ることはできないからです。現代の日本(特に大都市)に住むわたしたちには、この例え話を理解するための想像力が必要です。例え話の大前提は、夜の闇は圧倒的に強いということ、部屋は暗いということです。

第一の例え話は「ともし火についての常識」を伝えるものです(33節)。この例え話は元々マルコ福音書に収められていました(マルコ4章21節)。マルコ福音書の時点では、「隠れているものであらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない」(同22節)という真理を説明するための例え話でした。悪意をもって隠されていることがらは、善意をもつ神によって、いつか明らかにされるという教えです。隠蔽されていることがらが暗闇の部屋に例えられ、ともし火は真実を例えています。現代的に言えば、隠蔽体質を持つ組織が民主政治に背くということを明らかにする教えです。

ルカ福音書は、8章16-17節で丸ごとマルコを写し書きしています。マタイ福音書は同じマルコを参考にしながら、「ともし火についての常識」を別の文脈に移動しています(マタイ5章15節)。有名な「あなたたちは世の光である」という教えと接続させています。今日の箇所を読む際に大切な点は、「ともし火についての常識」が、接続された教えを説明するための例え話だったというマルコ福音書以来の役割です。マルコもマタイも、この世界を暗い部屋にたとえて、ともし火(神や教会)が闇を照らすと説明しています。

ルカ福音書は、すでに8章16節で書いた「ともし火についての常識」を、もう一度11章33節で繰り返しています。その意図は、後続する「ともし火にあたる体の部位」(34-35節)についての例え話を説明し、一体化するためです。この例え話はマタイ福音書にもほぼ同じ内容で掲載されています(マタイ6章22-23節)。この2節分は、マタイとルカが共有していた文書からの書き写しです。そして最後の36節は、二つの例え話を合体させたルカ教会の教えです。36節は、マルコにもマタイにもありません。

元々別々の例え話を一つに結びつけたために、独自の結論・まとめが必要となったのでしょう。非常に珍しいことに、ほんの4節の中に「三色の横糸」が混じり合っています。マルコ福音書に由来する例え(33節)、マタイ・ルカ共有の文書に由来する例え(34-35節)、そしてルカ独自の教え(36節)。ここには三つの文書の対話・熟議があります。ただしそのせいもあって論旨は入り組み、全体の主張が辿りにくい内容となっています。

第一の例え話は、「どんな人もともし火を暗い部屋の上の方に置く」という常識を教えています。誰もわざわざ人のいない地下室にともし火を置き去りにしたり、升の下に隠したりはしません(33節)。次の例え話は、「目という部位は体全体の中でともし火の役割を果たす。目が悪いと体全体が暗くなる」と飛躍します(34-35節)。最後に、「体のどこにも暗さがない状態は、暗い部屋の上の方にともし火があることを示す」と言っています(36節)。こうして見ると、対話・熟議がうまく行っているかは少々微妙です。かなり強引な論の展開と結論付けであることが判明するからです。三色の横糸には一本の縦糸が必要でしょう。これが一つの注意点です。

そして、もう一つ注意点があります。身体上の病気や障害を持つ人に対する配慮に欠けた例え話であることです。目の見えない人は、「あなたの体のともし火は目である」(34節)と言われることに抵抗を覚えるでしょう。白内障の人は目が濁っていれば体も暗いと言われたくないでしょう。ただし、ここは「濁っている」というより、「悪い」と書いてあるので、広く「目つきが悪い」という意味合いです。いずれにせよ、この聖句を基に「みなさんでキラキラと輝いた目になりましょう」とだけ無邪気には勧めにくいのです。「健全な目にのみ健全な精神が宿る」という短絡は失礼だからです。聖書にある体を用いた例え話は、健常者の体を前提にしている場合が多いことは、特に注意を要する点です。人権思想が発展していない古代の文書であるからです。

現代に生きるわたしたちは、これらの解釈上の注意点を踏まえつつ、しかし注意点を超えてなお現代に通用する意義を、個々の聖書箇所から導き出していかなくてはいけません。この4節を貫く太い筋と、全ての人をくるむ広い風呂敷は何でしょうか。

一つの鍵は、「目が澄んでいる」(34節)が何を指すのかにあります。「澄む」の原意は「単一である」「一重である」というものです。だから、目が澄んでいるということは、色眼鏡なく単純にことがらを見ている状態を指します。いくつもの層があると、光は屈折し、ものの見方が歪んでしまうものです。一重の目とは偏見がない様子を示します。このような目は、「あなたの中にある光」(35節)とも言われています。差別意識を持たない心と言っても良いでしょう。それが「ともし火」なのです。「透明な視点」です。「目」を字義通りに捉えるよりも、その人が内側に持っている真っ直ぐな構え・素直な心持ちと考えた方が良いのではないでしょうか。

二つ目の鍵は、ルカがパウロの友人であるということです。ルカはコリントの信徒への手紙一12章12-26節の「一つの体の例え話」を知っているように思えます(316ページ)。この例え話は、先ほど申し上げた健常者を前提にした内容という注意が必要ですが、今日の箇所を理解するためには有用です。一つの体の例え話は、一つの教会を構成しているメンバーの個性や役割の多様性を表す例え話です。様々な人が様々な役割を携えて集まっているのだから体の中の部位同士が仲間割れをしてはいけないし、原理的に仲間割れはありえないということを説明しています。

この中で「目」はどのような位置にあるでしょうか。目は、耳から競合相手とみなされています(同16節)。この両者の争いは、教会の中の指導者層同士の争いのように思えます。目と耳が、体そのものから距離を置いたことがらでさえ把握することができるからです。視覚と聴覚はこの意味で、部位の中で支配的な地位にあります。そして、目が手に向かって「お前は要らない」とは言えないと、パウロは説きます(同21節)。ここでも体の中でほかよりも弱く見える部位は、目ではなく手であることが前提とされています(同22節)。やはり、目は教会内の強い者・指導者層のことを指すわけです。パウロは教会の中の「目と耳の争い」と、「目から手への差別」を戒めています。

パウロの手紙は教会に対する教えです。イエスの伝記を編纂するルカとルカの教会は、かつてのイエスの言葉を、今存在する自分たちの教会への教えに織り込みます。一つの体の例え話における「目」と重ねると、ともし火の例え話は教会への教えとなります。そして、全体三色の横糸を貫く一本の縦糸となります。つまり、ともし火が置かれる一つの部屋は、教会のことを指すことになります。部屋は「全身」(36節)でもあり、ともし火は「目」でもあるからです(34節)。目でもあるともし火は、教会の指導者層のことでもあり、バプテスト教会にとっては全教会員のことでもありましょう。万人祭司だからです。

教会は暗い部屋に例えられています。聖書は闇を否定的な言葉に用います(34・36節)。ルカ教会は自分たちの教会のことを美化していません。教会は、この世界と同じ性質を持っているという悔い改めが、ここには込められています。教会もまた、ただの人間の組織です。聖書は性悪説に(も)立つので、教会も支配欲・打算・保身・偏見を持つ罪人たちの集まりです。パウロの手紙の前提には教会内の醜い葛藤があります。教会もこの世のままの、闇の支配する暗い部屋です。組織である限りにおいて、悪気はなくても組織を守るために個人を抑圧する行動をしたり、組織内の力関係が働いたりします。

「ともし火」は暗い部屋の中で、部屋に入って来る人のための光と言われます(33節)。それは日常生活で疲れ果て、教会に興味をもって来訪する人びとのための光です。教会が他の組織と一味違うのは、客を歓迎しなくてはならないということです。先ほど申し上げた嫌らしさを批判する理屈も持っていることが教会の強みです。教会は教会のためには存在しえないのです。他者に仕えるためにのみ教会には存在意義があります。他者を歓迎する時、教会は外部の人を排除し抑圧する罪から解放されます。

しかも、自分たちの暗い部分・弱さをもさらけ出す形で、「このような礼拝をわたしたちは行っています」と言いながら歓迎しなくてはいけません。だから当然、客に対しても偏見を持ちません。澄んだ目で相手を見て、部屋を明るくして内部をさらけ出していくのです。この世界では弱さとみなされる人間性を見せながら、共に礼拝をする中で人間性を恢復させていきます。この時教会は競争社会における蹴落とし合戦から解放されます。

しかも部屋の全部を明るく照らさなくてはいけません。少しでも暗いところがあれば、ともし火が輝いていることにはならないからです(36節)。体全体の中で一部でも傷んでいるなら、全員が傷んでいると考えなくてはいけません。体の中で弱いと見える部位こそ、全体の中で最も尊重されなくてはなりません。

暗い部分の有無を調べるためには、ともし火の明るさを増幅させる燭台が必要です。透明な目でよく見ること、明るく全体を輝かせること、場合によっては燭台にいくつもともし火を乗せて、部屋の隅々まで寄せて見ること・見せることが必要です。弱さをこそ誇ることが教会にとって大切です。それによって、わたしたちは教会の持つこの世と全く同質の悪さを克服していくのです。一人の人の弱さ(この世の常識で言う暗部)が開示され、全員がその痛みに共感するとき、わたしたちは全員輝きます。ここには立憲主義・福祉国家との共鳴があります。困っている一人のために全体があると考える時、教会という組織は力の濫用という罪から解放されます。外部の隣人と内部の弱者が、教会をキリストの体とし、ともし火を燭台の上に置く、明るい部屋とするのです。

今日の小さな生き方の提案は、各自が持つ弱さで連帯することです。神にすがる人は弱いと言われます。その通りです。ただし、自分が弱いと知っている人は本当の意味で強い人です。その人は澄んだ目を持ち、神を見ることができ、仲間を得ることができます。教会は弱さを知る人々が織り成す交わりです。そんなに明るい部屋ではありません。しかし真の休みを得られる場です。