「中間部分」(9章51節-18章14節)には、ルカ独自の物語・教えが集中していることを、以前に申し上げました。今日の箇所もその一つです。十二人を派遣する物語とそっくりなのですけれども(9章1-6節。並行箇所、マルコ福音書6章7-13節、マタイ福音書10章1・5-15節)、ルカだけが「七十二人」の派遣物語を伝えています。 単純に六倍の派遣者数になったことは、神の国運動の広がりを示しています。先週からの引き続きで、「神の国」という単語を繰り返しているのですから、この広がり感は大切です(9章60・62節、10章9・11節)。 しかしそれだけでもありません。十二使徒だけがイエスに派遣されているのではないことをもルカは強調しています。「使徒」は、「遣わす」から派生した言葉です。その動詞が今日の箇所でも二回用いられています(1節「遣わされた」、3節「送り込む」)。十二人だけでなく七十二人もまた使徒たりえます。 実際、七十二人に命じられている内容と、十二人に命じられている内容はかなり重なります。神の国の近づいたことを告げること・病人をいやすこと(9節)・簡素な旅支度(4節)・ひとつの家に留まること(7節)・歓迎されない場合は足の埃を払うこと(10-11節)。この一致は、七十二人が十二人と遜色の無い使徒であることを示唆します。 ルカは使徒言行録においても、十二使徒以外に自分の友人パウロとバルナバも「使徒」であることを控えめに述べています(使徒言行録14章14節)。この七十二人の派遣物語の背景には、パウロとバルナバという二人組の福音宣教の旅があるように思えます(同13-14章、ルカ10章1節「二人ずつ」)。実際、受け入れられずに足の埃を払う行為を、パウロとバルナバは行っています(使徒言行録13章51節)。友人パウロは使徒であることが疑われていました(Ⅰコリント9章1-2節)。ルカはパウロも使徒であると弁明しています。特に「働く者が報酬を受けるのは当然だからである」(7節)という言葉は、「わたしやバルナバには働かずに食べ飲みする権利が無いのか」というパウロの言葉と共鳴しています(Ⅰコリント9章4・6節)。 さらにはすべての信徒が使徒となりうることをもルカは示したいのでしょう。「収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」(2節)という言葉は、「求めるならば全ての者が神によってこの世界に遣わされうる」という主権者意識を伝えています。少なくともルカの教会では、教会員みなが「遣わされた者」という自覚をもつ雰囲気を共有していたのではないでしょうか。これこそペンテコステの出来事をなぞり続ける教会の姿です。 このような使徒言行録やパウロの背景をおさえながら、今日の箇所の内容に踏み込んでいきましょう。ルカによればイエスに遣わされた者たちは、常に「先遣隊」として位置づけられます。横綱の前を歩く露払いのような位置づけです(9章52節、10章1節)。後で主イエスご自身が来る(その意味で神の国は近づいている、9・11節)、その準備のために自分たちは来たのだという意味合いです。イエスが来た時に事柄を円滑に進ませるために、予め「道筋をまっすぐに」「でこぼこの道を平らに」するのです(3章4-5節)。それが、世の終わりの前に生きる教会の仕事です。 だから今日の箇所は、世の終わりにイエスが来た時に、つまり、神の国がこの地上に来た時に一体何が起こるのかということと関係付けて読み解くべきです。イエスが来る時に地上に平和な世界が実現します。神の国が来る時に地上に公正な裁きが実現します。教会の仕事は、その道備えです。「神の国はあなたのもとに近づいている(自分たちは神の国そのものではない)」と宣教することで、神の国の前触れをするのです。理想の社会としての神の国がどのようなものかを、人々に伝えることが教会の仕事です。 今日の箇所は、神の国で実現する平和と裁きが何であるのかを説明しています。だからイエスの命令を文字通りに理解して、文字通りに実践する必要はないでしょう。つまり、教会員が二人組になって、裸足になって無一文の旅を続け、挨拶もせずに家庭訪問をして、「平和」を祈り、受け入れられたらご飯までいただき、受け入れられなかったら拒絶の意思を示すという行為を、現代社会でわたしたちがしなくても良いと思います。むしろイエスの命令全体を、鍵語として繰り返される「平和」と(5-6節で4回)、その裏返しとしての「裁き」についての説明と捉えることとします。 平和と裁き。言い換えれば、神の国ではどのようなあり方が肯定され、どのようなあり方が否定されるのかが示されています。結論を先に言えば、神の国では多様性を認める寛容なあり方が勧められ、神の国では多様性を認めない非寛容なあり方が裁かれます。平和を「狼と羊」が指し示し(3節)、公正な裁きを「ソドム」(12節)が指し示しています。 「それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」(3節)は、「見よ、わたしはあなたたちを狼たちの真ん中に羊たちとして派遣する」と訳すことができます。こちらの方が直訳調です。この言葉は、キリストによる派遣の「全体状況」を曖昧に喩えているのではなく、キリストによる派遣の「実態」をずばり喩えているものです。 羊たちは武力を持たない者たちの喩えです。羊飼いならば杖という武器を持って狼に対峙するでしょう(詩編23編4節)。財布も袋も履物も持たない(4節)ということは、杖も持たないということでもあります(9章3節)。ここに武力によらない平和、個別的自衛権を放棄してつくる平和が示されます。当時、「ローマの平和」という言葉がありました。それは「軍事力による支配」を意味していました。キリストの平和は、ローマの平和に対する対抗文化です。キリストは弟子たちを武装解除し丸腰にして「羊たちとして」派遣します。しかも国に対してではなく、一軒一軒の家に派遣します。国家間の戦争を食い止めるのは、平和を祈り求める民間の交流なのです。友人を殺せるでしょうか。 聖書は狼を、外国軍(エレミヤ書5章6節、ハバクク書1章8節)、王(創世記49章27節)、高官(エゼキエル書22章27節)、裁判官(ゼファニヤ書3章3節)などの喩えとして用います(マタイ福音書10章16節も参照)。地上で権力・武力を持つ者たちです。その狼たちの真ん中に、羊たちが派遣されます。この図は、一群の狼集団に少数の羊が送り込まれるというものではなく、どちらも多数居て混じり合っているというものです。そして、今日の言葉によれば、その狼たちの中に「平和の子」がいるかもしれないのです(6節)。 旧約聖書の中に「平和の子」という表現はありません。類似の「私の平和の人」という表現を調べると、「仲間」という意味合いであることが分かります(詩編41編10節、エレミヤ書20章10節)。おそらく、「平和の子」は、「意見は反対だけれども、賛成とみなしうる人」と同じです(9章50節)。そのような人の上に、平和はとどまります。驚くべきことに、狼は狼のままで平和の子であり、その人は羊を食べない寛容な狼となります。 狼と羊が同時に出る聖書の箇所は、今日の箇所以外ではイザヤ書だけです(イザヤ書11章6節、65章25節)。イザヤ書は両方とも、狼と羊の共存を平和の実現として謳っています。その延長線上に今日の箇所もあります。狼と羊の共存という平和が、神の国の実態です。変わった風体の、貧しい格好の旅人を受け入れる寛容さがあるかどうかが、その試金石です。特に、地上で力を持ち、富んでいる人たち・今満腹している人たち・今笑っている人たちに、そのような寛容さがあるかどうかが問われているのです(6章24-25節)。 聖書の民の伝統は、旅人をもてなす温かさにあります(創世記19章1-3節)。ソドムという町の中でロトという人は、この伝統を実践しました。二人の人がソドムの町を訪れた時に、まったく見ず知らずであったのに、自分の家に半ば強引に泊まらせたのです。エマオの途上の物語も少し似ています。遊牧民であったときの習慣から、旅人・外国人に食べ物をふるまい、泊まらせることが伝統となっていました。もちろん泊めさせてもらった人は、出された食べ物を喜んで何でも食べたことでしょう(ルカ10章8節)。 ところが、ソドムの町の人々はロトの寛容な振る舞いが気に入りません。彼らはロトの家に押しかけ、二人の旅人を引き出せと要求します。暴行を加えるためです。ここでの暴行は性的虐待も含み得ますが、それを元にして同性愛をsodomyと呼び、同性愛者を差別することは的外れです。問題は寛容なもてなしがあるかどうかです。実はロトはソドムに引っ越してきた新参者だったのです。ソドムの人々はロト家族に対して不寛容でした。排外的民族主義者たちだったのです(創世記19章9節)。だからこそ旅人に寛容なロトに対して、余計に不寛容な態度を取ったということです。 このやりとりの一部始終を見聞きした二人の旅人はソドムの町に対する審判実施を決断します。この二人は神から遣わされた天使だったのです。その使命は神に代わって、ソドムが不寛容な町であるかどうかを調べることにありました(同13節)。そして天からの火によってソドムは滅亡します(同24節)。 この一連の出来事のことをイエスは引用しました。「かの日(世の終わり)には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む」(ルカ10章12節)。世の終わりに神の国が実現する時には、多様性を認めない不寛容が裁かれます。なぜなら神の国は、狼と羊がどちらも平和の子・仲間として共存する平和だからです。神は多様な命を認め、小さな命の一つも惜しむ、寛容な方です(ヨナ書4章11節)。しかし、不寛容な者にまで寛容な方ではありません。神の国は不寛容な者に対する公正な裁きが実現する世界です。こうして、この世界で不当に居づらくさせられていた人の名誉が回復されます。 世の終わり以前の時代にあっては、寛容で平和な神の国を拒否する自由もあります。ここには注意が必要です。受け入れない人々に対して、わたしたちは世の終わりの裁きを待たずに、「天から火を降らせて」(9章54節)その人々を裁いてはいけません。真に多様性を貫くのならば、自分と反対の意見の人の存在をも喜ぶべきでしょう。暴力だけは許さないとしても、意見の違いや、拒否・反対する自由は認められるべきです。それが民主政治の根幹です。 もし受け入れられなくても「平和はあなたたちに戻ってくる(6節)」。寛容を取得し直すのですから、わたしたちは何度拒絶されても、神の国の到来を次々に宣べ伝えられます。「聞いてくれない人がいても良い。聞いてくれる人は必ずいる。別の人のところへ行こう」と、気を取り直し、あきらめないで神の国の宣教(寛容と公正な裁きの到来)を続けていくことが大切です。 今日の小さな生き方の提案は、理想の神の国が近づいていることを実感して生きることです。教会は不完全・未完成・暫定的な神の国です。ここで寛容を実践し、平和の主イエスが来る道を整えましょう。今日の世界はでこぼこです。不寛容な石だらけ坂だらけです。平和の子となり平和の子を見つけ協力し、真っ直ぐ平らな誰もが通られる公正な道を、この世界の只中に創りましょう。