生きている者の神 ルカによる福音書20章27-40節 2018年6月17日礼拝説教

ルカ福音書は20章の論争を、「一貫したイエス対サドカイ派の論争」として描いています。先週はサドカイ派の「回し者」が説得されてしまった話でしたが、本日は当事者であるサドカイ派の何人かが論争をしかけてきます(27節)。

ここでサドカイ派についての説明をいたします。サドカイ派は当時のユダヤ教の一派です。政治権力を握っており、神殿を経営し、神殿関連の収入を独占している貴族です。サドカイ派は旧約聖書のうち最初の五巻(モーセ五書)である創世記・出エジプト記・民数記・レビ記・申命記しか、聖書(正典)として認めません。そして、当時のユダヤ人の多くと同様、モーセ五書の著者はモーセであると考えています(28節)。

五書の中には、人間が復活するという記事がありません。預言者エリヤやエリシャが人間を蘇生させたと書かれているのは列王記の出来事です。サドカイ派からすれば、正典ではない部分に書かれている人間の復活は、あまり重要ではない出来事となります。彼らは死者の復活を否定します(27節)。

五書の中には、「世界の終わりに神が世界全体を裁判して統治する」(終末論)という教えがありません。だからサドカイ派は、世界の終わりについての教えを重視しません。世の終わりにメシアが来ることも信じていません。天使の存在も霊魂の不滅も信じていません。彼らは現世に集中します。

サドカイ派に対してファリサイ派は、世の終わりにメシアが到来して、ユダヤ民族の支配と統治が始まること、その時に死者が復活することを信じています。特に「正しい人」はよみがえらされると確信しています。また、五書以外の書物も正典としているし、さらに五書には書いていない解釈も「口伝律法」としてほぼ正典並に重視していました。徴税人に対する規定なども口伝律法の一部です。後に口伝律法も書物化されます。ファリサイ派の正典に対する態度を(雪だるま式に増やす態度)、サドカイ派は受け入れません。

ローマ帝国がユダヤを支配する紀元前63年までは、ファリサイ派とサドカイ派は激しく対立していました。しかし、ローマ帝国が支配するようになると、それぞれ最高法院の議席を三分の二(サドカイ派)と三分の一(ファリサイ派)とに分け合い、ローマ帝国に逆らわない政府を構成していました。サドカイ派が、ローマ帝国に妥協したから成り立った奇妙な連立政権です。

サドカイ派は一言で言えば世俗的な宗教団体です。現世に集中した教理も世俗化を後押ししています。この世の利権に敏感で、権力の維持のためならば何でもする人々です。そのためにサドカイ派の神殿貴族は、貧しい人びと・権力を持っていない人・一般の民衆を、強く軽蔑していました。

同時代の歴史家のヨセフスというユダヤ人は、サドカイ派について次のように述べています。「サドカイ派は金持ちだけに認められており、民衆は彼らに好感を抱いていない」。20章の背景には、以上のような事情があります。サドカイ派が民衆を意識する理由(1940節、2061926節)、「権威/権力(エクスーシア)」が話題にのぼる理由(2820節)は、権勢欲の強いサドカイ派を、民衆が嫌っていたということにあります。この背景を頭におくと、本日の箇所も理解しやすくなるでしょう。

サドカイ派はまたもや民衆の前でイエスに恥をかかせたいと考えています。イエスを逮捕したいからです。彼らは「世の終わりに死者が復活するという教理がいかに馬鹿らしいか」を証明しようとします。サドカイ派は、イエスの主張がファリサイ派に近いと考えています。イエスは、あの世・メシア・復活・終末を信じていると思っています。その上で、28節から33節の架空の場面設定をぶつけています。

「七人兄弟が次々に子どもを授からないまま死んだ場合、妻が長兄の家を残すために、義理の弟と出産だけを目的に性交渉する。その結果として子どもを一人も授からないで八人とも死んだ場合、死者全員が復活した世界の終わりの時に、どの二人が婚姻関係にあるのか。女性は複数の夫を持てない。このような重要な論点が曖昧なのだから、死者の復活はないのだ」。論争を吹っかけたサドカイ派の人々は言いたいのです。

サドカイ派の根拠は、五書の一部である申命記2556節です。古代西アジア社会に広くあった風習が、ユダヤ人の正典・律法にも規定されていました。この主張のために、おそらくサドカイ派の律法学者がこの場面に投入されています(39節)。ユダヤ教各派は知恵袋である律法学者を抱えていました。そしてユダヤ社会では、律法学者同士の「神学論争」が盛んでした。イエスは律法学者として切り返します。

3436節は、あの世の有様や、世の終わりが起こった後の「神の国」の現実を語っています。この地上にはいまだ実現していない理想の世界を、イエスは描き出します。まとめて言えば、「個人が家に優る世界」です。そこでの個人は、「天使に等しい者」・「神の子」です(36節)。イエスは申命記2556節の規定を、不要なものであるとしてばっさりと切り落としています。イエスの目には、正典であっても時代に合わないものは軽いものとみなされます。なぜなら「文字は殺し、霊は生かす」からです。

女性の人権がまったく認められなかった時代の話しです。一夫多妻は許されても一妻多夫は認められません。女性が職業を奪われ貧困だったからです。新共同訳聖書では「結婚する」「めとる」「嫁ぐ」などと翻訳されていますが、ヘブライ語まで遡れば「取る」「取られる」という言葉です。申命記25章の規定は正規の婚姻ではありません。「家」を存続させるために、愛情もない男性と性交渉をさせる目的で女性を「略取する」。実に非人道的な制度による、女性に対する人権侵害です。この制度のもと、女性は次男以降の「正妻」となるわけではありません。次男の正妻であれば、生まれた息子は次男の家を存続させる子どもとなってしまいます。あくまで長男の息子を生ませるための道具として、女性は利用されているのです。

この事例の場合、イエスはおそらく「女性は長男の妻だ」と考えています(ヨハネ福音書41618も参照)。ただしかし、現在の法律だけを論じるだけではつまらない。さらに論点を広げて、イエスはサドカイ派の根本を突きます。現実世界での利権ばかりを追って、理想の社会を追求しない態度を批判します。権力ゲームとしての屁理屈の応酬を止めさせなくてはいけません。

神の国においては、その人が女性であるという理由で「取ること・取られること」がなくなるのです。女性は産む機械ではありません。女性たちも、あるいは性的少数者も、永遠に個人として尊重され、「神の像」(創世記12627節)を取り戻し、神からの使い(使徒)とされます(3536節)。そのような人間性の回復を、イエスは「復活」と表現しています。この相互尊重の社会においては、隣人を社会維持の犠牲にさせるような行為が投げ棄てられます。「社会維持の犠牲」の中にイエスを殺そうという陰謀も入ります。

37節以下は、理想の社会である神の国のイメージをさらに膨らませています。イエスは、すでにアブラハム・イサク・ヤコブといったイスラエルの始祖たちが、今も神の国の祝宴についていると語っていました(132829節)。そして、ここでモーセ五書の一部である出エジプト記36節を引用します。アブラハムの神・イサクの神・ヤコブの神が、モーセの神でもあるという箇所です。イエスは、これらの人物は今も生きており、神を中心にした祝宴を囲んでいると考えています。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである」(38節)。

アブラハム・イサク・ヤコブという親子三代は、それぞれに社会で生きづらさを抱えていました。世間からはあまり尊重されないけれども、なんとかしぶとく生き抜いた人々です。その人々こそが「死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々」(35節)です。彼らはこの世界の祝宴からは排除されていましたが、神はそのような彼らを強引に神の国の祝宴に招いたのでした(14724節)。イエスはたとえ話を用いて、自分が行っている食卓が、あの世で行われている祝宴と同じものであると説明していました。徴税人・娼婦・子ども・しょうがいを持つ人・やもめとの食卓は、アブラハム・イサク・ヤコブと共に行う祝宴と同じです。

イエスの食卓に連なる人々は、すでに死んだ人々・今あの世で神の祝宴に出席している人々と、一緒にいます。すべての人が生きている者として、生ける神と共にいます。理想の社会が、イエスの周りで一部実現しています。「実に、神の国はあなたがたの真ん中にあるのだ」(1721節)。ここでイエスはファリサイ派と異なる、独自の意見を言っています。世の終わりまで待たなくても、今・ここに神の国はある。今・ここで先に亡くなった人たちも復活しているのだという主張です。サドカイ派もイエスも、現世の生き方を重視しています。しかし両者は決定的に異なります。隣人を貪るか、それとも隣人を尊重するかで、まったく異なるのです。ファリサイ派もイエスも、あの世を信じています。しかしイエスにあっては、あの世が限りなくこの世とくっついています。

七人兄弟の話に戻りましょう。長男と結婚した女性は、無理やり好きでもない人と性交渉を強要されるべきではありません。彼女が再婚しようがしまいが自由です。その上で、彼女が神の国の祝宴を囲むなら、彼女は亡き夫とそこで出会うのです。すべての人は神によって生きているからです。

紀元後一世紀の誕生間もないころのキリスト教会は多くの殉教者を抱えていました。毎週の主の晩餐には、死者を記念するという意味が強くありました。主の晩餐を行う度に、主イエスの死だけではなく、すべての信徒たちの死が思い起こされていたのです。先に召された人々は、復活の主と共に、主の晩餐で生きていること・復活させられていることが確認されました。この実践の根拠は、生きているアブラハム・イサク・ヤコブと共に食卓を囲むことができるという信仰です。ルカ福音書131420章を総合して得た知識です。

この論争でも回し者に引き続きイエスに説得された人がいます。サドカイ派の律法学者です。イエスがモーセ五書を引用し、サドカイ派の土俵に乗って主張をしたことや、さらに、イエスの五書解釈のすばらしさに感動したのです。「先生、立派なお答えです」(39節)。「彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった」(40節)。サドカイ派との論争は終わります。イエスは何人かの改宗者を得ましたが、その一方で多くの権力者から憎しみを買いました。彼らは言論での勝負を止め、いよいよ卑怯な不当逮捕へと舵を切ります。

今日の小さな生き方の提案は、屁理屈を止めることです。一所懸命に屁理屈をごねて、自分を守ったり隣人を陥れたりするのは止めましょう。わたしたちが教育を受けたのは、隣人を尊重するためです。隣人への尊重は、主の晩餐で養われます。ここにキリストを中心に死者も座っている。すべての者は神によって生きている。死者を冒涜しないのと同様に、わたしたちは生きている者も尊重します。百の屁理屈よりも、一の愛を練習していきましょう。