神と共にある ヨハネによる福音書8章21-30節 2013年11月24日礼拝説教

先週は自分の仕事に誇りをもって生きるということをお勧めいたしました。神が自分を遣わし、神が自分と共にいるということを信じて強い気持ちで仕事に当たることは良いことであると申し上げました。今日は、その根拠となることがらについてお話いたします。それは、イエスの場合はどうだったのかということです。イエス・キリストの十字架への道について、先週よりも詳しくお話しいたします。

21節に「わたしは去って行く(原文は「行く」のみ)」とあります。これは十字架へと向かう道のりのことです。また、28節に「(あなたたちが)人の子を上げたとき」とあります。「人の子」とはイエスを指す言葉です。「上げた」はヨハネ独特の言い方で、十字架刑のことを指します(3:14)。この段落は全体にイエスの十字架とは何なのかを説明しています。十字架とは自ら向かうものですが、しかし同時に十字架とは人々が上げるものです。能動的に自ら行うものであると同時に受動的に受け止めなくてはならないものでもあります。自ら死を覚悟してでも行うことでもあり(22節が暗示)、ローマ兵によって執行された死刑でもあります。イエス・キリストの場合、どうして十字架で殺されなくてはならなかったのか、そのことを今日の聖句から読み取りたいと思います。

イエスは「アッバ」と呼びかける神を信じていました。アッバとは子どもの言葉で「お父ちゃん」という意味です。この神は、「わたしはある」という名前を持つ神でした(24節・28節。出3:14)。また、「わたしはあなたと共にある」(出3:12)と信者を励ます神でした。モーセという人を遣わすときに神は自分の名前を紹介し、モーセを安心させるために「共にいるから大丈夫」と語りかけたのです。すると、臆病だったモーセも「わたしはある」という穏やかで毅然とした態度を持つ人となることができました。

ある時イエスは、アッバの声を聞きました。30代のころです。「わたしはある」という方からの派遣の声を聞いたのです。そしてモーセと同じように「わたしはある」という穏やかで毅然とした人になったのです。神の声は正義と真理を示すものです。この世界は罪に満ちています。神の喜ぶことを人間は行っていません。本来の人間は生まれながらにして神の子らであるはずです。にもかかわらず、隣人を貶め人間以下の扱いをする者がいます。隣人を支配しようとする者たちがいます。人の子の分を超えた傲慢です。また、自分で考えて判断するのを面倒くさがって、支配されたがる者たちもいます。いわゆる奴隷根性です。人の子である責任を捨てる怠慢です。

「わたしはある」と穏やかで毅然とした態度の人があまりにも少ないことを神は悲しんでいる。罪の内に歩む人があまりにも多いことを神は憤っている。イエスは内なる声・良心の声、共にある神の声を聞いたのです。自分の聞いた正義と真理の言葉(神の声)を世間に向かって語りかけるために、アッバはわたしを遣わしたと確信するようになりました(26節)。アッバの教えを忠実に語ること(28節)、それがアッバの喜ぶことであるとイエスは信じていました。29節「この方の御心に適うことを行う」という言葉の直訳は、「彼(アッバ)の喜ぶことを行う」というものです。

アッバの教えとは何でしょうか。「神を愛しなさい」「人を愛しなさい」という教えです(マコ12:28-34)。これをヨハネ福音書では「互いに愛し合いなさい」(15:12)と言い換えています。同じ意味です。隣人を愛せない人には神を愛することはできないからです(Ⅰヨハ4:20)。イエスはこの神の声を世間に向かって語りました。バプテスマのヨハネは荒れ野に人々を招いて生き方を変えるように呼びかけました(1:23)。イエスはその方法に違和感を持ちました。むしろ世間の中に入り、世間に向かって話しかけるべきだと思い、ヨハネから離れ、ヨハネの弟子を一部引き抜き(1:35以下)、独自の活動を町の中で展開しました。人の家に泊まったり、結婚式に出向いたり、旅をしながら人々に話しかけていきました。「民族主義を棄てなさい、霊によって生まれ変わりなさい、そうすれば自由になって互いに愛し合うことができる」と。正義と真理の教えを普通の人々の日常生活に届けたのです。

教えと同時に、イエスは互いに愛し合うことを行いました。ユダヤの人から蔑まれていたガリラヤの人・サマリアの人・女性と仲間になっていきました。「互いに愛し合う信頼関係のネットワークをつくる」という独自の運動です。親の肩書(「王の役人」)と関係なく病気の少年を癒し(4章)、38年間迷信と病気に苦しめられていた人を憐れみ癒し解放し(5章)、権力者たちの陰謀によって殺されかかった女性を助け解放したのです(8章)。もし「わたしはある」という神が地上に降り立ったなら、このようにするであろうということを、イエスは実際に行いました。これは並々ならない覚悟を持っていなければできません。

イエスの覚悟は、「一人でもこの仕事を行う」というものでした。「わたしはある」(24節・28節)という穏やかで毅然とした態度は、他に誰もついてこなくても良いという覚悟なのです。十字架の道を行くということは一人でもする決意に基づきます。誰も来ることができない道にあえてイエスは踏み込んでいきます。実際、弟子たちの数には変動がありました。30節にも弟子が増えたという記載がありますが、続きを読めば分かるように、この人たちは結局イエスを殺そうとしますから(59節)本当の弟子になったわけではありません。

イエスには敵が多くいました。正義と真理の教えを世間に言い広めると、世間からは憎まれることが多いものです。特に権力を持っている人、力を濫用したい人には嫌がられるものです。自分の間違えや悪い部分が指摘されるからです。イエスは「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」(21節・24節)と批判します。この人たちは正義と真理を軽んじ、互いに愛し合おうとしないので、生きてはいるようだけれども死んだような生き方をしている、死に至る生き方をしているという意味です。それを罪と呼びます。

実際に神が地上に降り立ったときに、神を歓迎する人々と神を締め出そうとする人々に分かれます。日常生活で愛されることが少ない人はイエスを歓迎します。愛するということがどういうことなのか真剣に考え、愛の教え・正義と真理を聞きたいと思う人はイエスを歓迎します。しかし、支配欲に満ちている人、悪意のある人、力を振るいたい人、所有欲に満ちている人、隣人の苦しみに無関心な人はイエスを邪魔者とみなし、殺そうと考えます。「お前は何者か」(25節)、生意気だというわけです。教えの内容も、言行一致なところも、さらに言えば穏やかで毅然とした「わたしはある」という態度も、イエスの全存在が嫌でたまらなかったのです。このような人は「下からのもの」「この世に属している人」、要するに下劣な者たちです(23節)。

下劣な人たちはイエスに神冒涜の罪をかぶせ(自分を神と同一視するという犯罪)、まやかしだらけの裁判を秘密に行い、十字架の上に上げ公開死刑を執行した者たちです。だから、十字架の道は受け身でもあります。イエスは殺されたのです。「わたしはある」という方を「亡き者」にしようとした、それが十字架です。おさらいをすれば、イエスは死を覚悟する決意で愛を教え・愛を行いました(能動)。その愛の教えと愛の行いを拒絶する人に殺されました(受動)。十字架の道は自ら向かう道でもあり、敵から押し付けられた道でもあります。

ここにもう一つの逆転があります。もう一人の登場人物の隠れた能動意思があります。それはアッバです。イエスの信頼する神が、神の子イエスを十字架に架けたかったという能動的な意思です。

もし悪い権力者たちの力の濫用によって神の子イエスが殺されたということが物語の終わりならば、正義と真理は貫かれないままです。十字架がイエスから見て受け身の敗北であるならば、誰もイエスに従って愛し合おうとは思わないでしょう。それならば世間で声の大きい人に従って長いものに巻かれる生き方の方がましではないでしょうか。せいぜい、良心的な人は権力者ににらまれない程度の良い行いをすれば良いということになるでしょう。

「あなたたちは、人の子をあげたときに初めて(処刑したときに初めて)、『わたしはある』(この人の子イエスが真の神の子であったということ)、またわたしが…ただアッバに教えられたとおりに話していることが分かるだろう」(28節)。十字架は神の子の敗北を示すのではありません。イエスが本当に神から遣わされた神の子であることを示すのです。アッバである神は万事を益とする方です。すべてお見通しということです。世間の悪がイエスを殺すことも織り込み済みです。その上で、神が神の子の虐殺を黙認したのです。ユダヤ人社会には、いのちを犠牲にすることが他人のいのちを救い出すという観念がありました。羊を犠牲にすると、人の罪がきれいにされるという考えがありました。アッバはこの考えにのっとって、イエスを「世の罪を取り除く神の小羊」(1:29)として、そのいのちを犠牲にささげたのです。それは誰も「罪のうちに死ぬ」ことがないようにするためです。すべての人が支配欲・力の濫用を棄て、互いに仕え合い愛し合い尊重し合うようになるためです。

悪意むき出しの人が邪魔者を殺そうとする時、殺される側の善人が「左の頬をも差し出す」穏やかで毅然とした人であったらどうでしょう。殺される側の人が殺そうとする人に向かって「あなたのしたいことをしなさい」と言ったらどうでしょう。「あなたの殺害を前もって赦す」と言ったらどうでしょう。その無条件の赦しの愛により、人は新しく生まれ変わるものです。この愛の教えと愛の行いが十字架の出来事です。アッバのイエスへの派遣は、十字架の死までも含むものでした。ここに正義と真理の貫徹があります。

アッバなる神はこのイエスの死に至るまでの従順を見て、イエスを死人の中からよみがえらされました。御心に適うことを生きかつ死んだ義人イエスを、「お前はわたしの愛する子」 と再び確認し、もっとも低いところに神が下りていって、そのようなかたちで神の子と共にあって、そうしてもっとも高いところに引き上げられたのです。それがイエスの復活です。十字架で虐殺された者こそが逆説的に永遠のいのちを得るという出来事です。

この復活からさかのぼって十字架を見ると、あの死はいのちを失うことではなく、いのちを得ること・配ることであると了解できます。「亡き者」となったのではなく、永遠に「わたしはある」という方になったということが分かります。そして、すべての人に「わたしはある」という神の子になりなさいとイエスが十字架の上から招いていることが分かります。「わたしの肉を分かちわたしの血を飲むなら、あなたたちは永遠のいのち・新しい生き方をもつ」(6:53以下)と語ってイエスは給仕役となって、杯とパンを配っておられるのです。

イエスへの信を持つことによって、わたしたちはどんな人でも、十字架の道を歩むことができます。イエスを殺したローマ兵でさえ、イエスを裏切ったユダでさえ、否定したペトロでさえ行き直し得ます。いやまさにそのような罪人の悔い改めのために、イエスは十字架の道を歩んだのです。わたしたちにも同じ罪があります。十字架のイエスを信じましょう。そうすればわたしたちは互いに愛し合う新しい生き方・永遠のいのちを生きることができます。