本日の箇所も非常に理解困難な部分です(特に18節)。離婚後の再婚の禁止は妥当でしょうか。結婚も離婚も個人の自由ですし、女性側から結婚や離婚を主張することも自由です。旧約聖書だけではなく新約聖書においても、このように受け入れがたい教えは存在しています。
「神の言葉には絶対に間違えがない」(無謬説)という考え方に立つと困ってしまいます。確かにわたしたちは、聖書が神の霊感によって書かれたと信じます。また律法の文字の一画もなくなることはありません(17節、正典信仰)。しかし、実際に書いたのは限りある人間たちです。書かれた時代の制約(古代)、書かれた言語の制約(地域・文化)に注意しなくてはいけません。当時人権思想は育っていませんでした。また、イエス自身は本を書きませんでした。イエスの言葉とされているものも全て聞伝えです。さらに新約聖書はギリシャ語で書かれました。わたしたちはアラム語で語られた、生のイエスの言葉に触れることはできません。書かれた時点で翻訳(解釈)が入り込んでいます。
書かれた本文が何であるのかと同時に重要なことは、今それをどのように読むのかということです。現在の社会が到達した倫理以下の内容は、良い知らせ(福音)ではありません。
わたしたちの聖書解釈の基準はイエス・キリストにあります。それが17節の意味するところでしょう。「律法の文字の一画(直訳「一角」)」は、おそらくヘブライ文字のヨッド(Yに当たる)を指します。最も小さい文字であり、その形が角状だからです。その文字は、神の名前であるヤハウェ(YHWH)の省略でもあります。Yはキリスト者にとってはイエス・キリストを意味します。昨日も今日もとこしえに変わることのない、天地の創り主・命の救い主が、聖書を読み解く際の基準です。いのちを尊重する方向で、イエスの生き様と死に様に矛盾しない方向で、聖書のすべての箇所は霊的に解釈され読まれるべきです。再婚禁止命令については守る必要がないと解します。
本日は、14節から16節の読み解きに力点を置きます。ルカ福音書だけではなく、使徒言行録や、パウロの手紙にも視野を広げて読み解きます。
16節とほぼ同じ内容は、マタイ福音書11章12-13節にあります。ルカとマタイを比較し、両者共通の資料にあった、元来のイエスの言葉を復元すると、次のようなものでしょう。「律法と預言者はヨハネまでである。彼以来神の国は暴力をふるわれている」。
元来のイエスの言葉は、バプテスマのヨハネ登場までの「ユダヤ教諸教派」をまず批判しています。「律法と預言者」は、当時確定していた旧約聖書(正典)の範囲です。ユダヤ教の正典配列は、第一区分「律法」(創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記)、第二区分「預言者」(ヨシュア・士師・サムエル・列王記、三大預言書・十二小預言書)、第三区分「諸書」(上記以外)とあり、イエスの時代は第二区分までが正典でした。霊的説教者ヨハネの登場と共に、「本の宗教」の時代は終わったというのです。文字は人を殺し、霊は人を活かすからです。これはファリサイ派に対する批判も含みます。彼らが人々を困らせる律法を新設していったからです。
さらにイエスは、バプテスマのヨハネをも批判します。イエスからすれば、ヨハネ以来の熱狂的・霊的説教者たちは「神の国」という宗教用語を濫用して、説教で人々を脅し上げているのです。「悔い改めよ。神の国は近づき、神の裁きの斧が根元に置かれているのだから」。現代のキリスト教説教にもありうる課題です。書かれた文字にこだわらない、霊的説教を中心にするユダヤ教に対しても批判は残ります。宗教的力の濫用が問題です。それが「神の国が暴力をふるわれている」という謎の言葉の意味です。「力ずくで入る」という意味は、原語にはありません。説教による暴力を、イエスは「それは神の国という言葉への暴力です。宗教用語は適切に使いましょう」と切り返しています。
ルカの教会にとって、ヨハネは激しく批判される対象ではありません。ルカ福音書ではヨハネはイエスの親戚であり近い存在です。また教会はバプテスマという儀式も実践していました。ヨハネ以来「悪しき宗教性」が神の国に暴力をふるっているという元来の言葉を、ルカは改変します。「神の国の福音が告げ知らされ、全ての者がそれに向かって暴力をふるっている」とします。この意味を考えてみましょう。ルカが付け加えた「福音を告げ知らす」(エウアンゲリゾー)が鍵となります。ルカの好むこの動詞は「~を良い知らせとして告げる」という意味です(4章18節、同43節、8章1節)。
使徒言行録8章12節(228ページ)には、「神の国とイエス・キリストの名についての福音を告げ知らす」とあります。神の国とキリストは交換可能です。また、5章42節・8章35節・11章20節・17章18節も、「キリストについて福音を告げ知らす」という言い方が共通しています。「イエス・キリストを福音として告げ知らす」ということでしょう。それは神の国を福音として告げ知らすことでもあります。イエスの周りに神の国があるからです。
実際イエスは「神の国」という言葉を脅しとして使いませんでした。ルカの着目点は、イエスの生き様に沿っています。「神の国はすでに来ている、イエスの周りにある、交わりの只中にある」という良い知らせは、イエス本人の主張です。こう考えると16節は、「イエス・キリストという福音が告げ知らされ、全ての者が彼に向かって暴力をふるっている」という意味になりえます。これはイエスの十字架を見よとの指示です。
わたしたちは神の国=イエスへの暴行という状況を、イエスの十字架において確認します。全ての者がイエス・キリストに暴力を加え、彼を虐殺したからです。十字架でわたしたちの罪が暴露され、同じ十字架で罪からの解放の道が示されます。「主の死を告げ知らす」ことが、毎週の晩餐でなされています。十字架がわたしたちの救いだからです。ちなみに、「あざ笑った(相手に鼻の穴を見せる)」(14節)は新約聖書の中で2回しか用いられません。もう一つの箇所は同じルカ福音書23章35節であり、民衆とファリサイ派を含む権力者たちが十字架のイエスをあざ笑う場面です。今日の箇所は、十字架と直結しています。少なくともルカとルカの教会では、ヨハネが神の国に暴力をふるったということではなく、全ての者がイエスに暴力をふるった出来事を、この箇所を読むたびに思い起こしていました。そのような仕方でルカ教会の人々は、教会(キリストの体、神の国)に対する暴力をも耐えていたのでしょう。
本日の箇所はルカの友人パウロの「罪からの救い」についての教え(信仰義認)を下敷きにしています。「高み(ヒュプセーロス)」「義とする(ディカイオオー)」(15節)という単語レベルで対応があります。15節の直訳風私訳は次のとおりです。「あなたたちこそ人々の前で自分を義とする者たちだ。しかし神はあなたたちの心を知っている。なぜなら人々の中での高みは神の前では忌み嫌われるからだ」。
パウロは「高み」を、人間の傲慢な心を表すために用いています(ローマ11章20節、12章16節)。この問題意識は「神はあなたたちの心を知っている」とも重なります。心の高ぶりが罪、自己正当化・自己絶対化が罪。そこから解放され、神が罪人の自分を義としていることを認めることが救いです。「義とする(ディカイオオー)」は新約聖書に39回登場します。ルカ文書では9回(特にルカ18章14節や使徒13章38節参照)、パウロの手紙で25回も用いられる神学用語です(特にローマ3章24節参照)。
神の前で義人は一人もいません。神に対するイエス・キリストの信頼によって、また、イエス・キリストへの信仰によって、人は罪人のまま義人と認められます。その真理に気づき、アーメンと受け取ることを「救い」と呼びます。永遠の命はこの救いにあります。宗教改革の原理である「キリストのみ・信仰のみ」です。キリストは神の敵であるわたしの罪を帳消しにするために十字架で殺されました。それを身代わりの死と信じるだけで良いのです。パウロは「100%の罪人が、同時に100%の義人である」という教えを述べました。人はキリストの恵みを受け入れることによってのみ救われ、自分の行為(例えば悔い改めという行為)によっては誰も救われません。「恵みのみ」の徹底です。
ルカは友人パウロが力説していた信仰義認の教えを、自分なりに噛み砕いて福音書の中に編み込み、教会形成をします。「富んでいる者・ファリサイ派のように高ぶる者は悔い改めなくては救われない」という主張です。ルカは、罪人の典型例として、パウロも属していたファリサイ派を挙げます。イエスの教えもパウロの教えも徹底し過ぎです。どちらもバプテスマの意義が分かりにくくなるという難点があります。ルカは庶民が日常生活で実践できる教えに落とし込んでいきます。「悔い改めよ。低みに立って見直せ(本多哲郎訳)。浸されよ。そうすれば全ての者は罪(諸々の誘惑による悪)から救われる」。
全ての者が犯す罪とは何でしょうか。一言で言えばそれは、「人々の中での高み」です。人が人々の中での高みに立つことを、神は忌み嫌います。この「高み」は、悪魔がイエスを連れ上った「高み」です(4章15節)。この世の支配欲全般が当てはまります。罪とは上から下への支配欲です。神の位置に立って「上から目線」で見ることです。だから神に忌み嫌われる行為です。ルカ福音書は罪という高みを、支配欲の誘惑として具体的に例示しています。
ルカ16章に登場する金持ちは、すべて批判の対象です。富が支配欲に負ける大きな原因となりうるからです。金持ちは、人々の中で自分が高みに立っているかのように思いがちです。イエスのような力を持たない邪魔者は、金の力で抹殺できるとファリサイ派の人々は考えていました。だから、見下しながら・あざ笑いながら、十字架という残酷な刑罰を執行できます。
高みという罪への誘惑は、富んでいる者に対して多く起こりえます。富んでいない者が直面する誘惑は別種です。決して本人たちの責任ではありませんが、教育を提供されていないことによって操作されやすくなること。その結果、力ある者たちに支配されたがってしまうという誘惑です。メシア願望もその一つです(被支配欲)。無責任という罪とも言えます。ルカはマルコと異なり「民」を低く評価します。「無理解な民」の抱える罪を意識するからでしょう。
イエス・キリストの十字架刑の第一の責任者は、当時の金持ち・権力者たちです。第二の責任者は、富や力に憧れ、それらにひれ伏し、まんまと世論操作されてしまった「普通の人々」です。支配したがる人々と、支配されたがる人々の罪が、最も低い人イエスを虐殺しました。全ての者が暴力をふるったのです。
今日の小さな生き方の提案は、低みに立って人生/生活を見直すことです。パウロは救いの条件を付けませんでしたが、ルカは分かりやすく「悔い改め」を救いの条件としています。誰もがイエスを殺す罪をいまだに持っています。支配欲と非支配欲です。高ぶること、序列を認めること、どちらも嫌だと思う人は、真に低みに立つこと、そこから生き方を変えることです。罪を洗い流して原点(神の子・人の子)に戻りたい人はバプテスマを受けましょう。それは真に低みに立つことを象徴する洗い流しの儀式です。