今日はキリスト教の暦で言うと「棕櫚の主日」Palm Sundayです。イエスが人生最後の一週間をエルサレムで過ごしたこと、そしてエルサレムに入城するときに人々が棕櫚の葉を敷いて歓迎したことにちなんだ名前です。この日曜日に受難週Passion Weekが始まり、受難週の金曜日が受難日Good Friday、イエスが十字架に架けられた記念日です。受難日の二日後が復活祭Easterです。
キリスト教徒は「イエスの十字架と復活によって新しい契約(救いの約束)が神と人々の間に結ばれた」と信じています。そこで、「新約」聖書という呼び名が生まれました。さらに、「新約」の反射として「旧約」聖書という呼び名が生まれました。旧約という呼び名は、今でもその部分のみを聖書TaNaKとしているユダヤ教徒を軽んじているので、「第一の契約書」という呼び名を用いることもあります。第二の契約(新約)は、第一の契約を基にして成り立っています。
今日の箇所(と来週の箇所)は第一の契約が結ばれる場面です。だから第一の契約書の頂点と言っても良い箇所です。〔今日は、1-2節を取り上げません。来週9節の説明と一緒に申し上げる予定です。〕その意味で、イエス・キリストの十字架と重なります。十字架は第二の契約が結ばれる場面だからです。イエスはゴルゴタの丘で殺されました。イエスの殺害は、シナイ山で殺された雄牛たちを基にしています(5節)。
イエスは十字架で血を流しました。雄牛たちも血を流しました。和解(円満)の犠牲です。和解とは、神と人々との間の和解です。不思議な表現です。正義の神は、罪深い人間を処刑せざるをえないという観念(葛藤)が前提にあります。だから神を直視すると人は死ぬと信じられていました。モーセが雄牛の血の半分を祭壇に振りかけるのは、神に向かって血をかけているという意味です(6節)。鉢に入れた別の半分を民に振りかけるのは、神と契約を結ぶ人間たちに同じ血をかけているという意味です(8節)。動物の血は、神と出会って死ぬべき人間の代わりに殺されます。血は命そのものと考えられているので、人間の命の身代わりに動物が殺されるのです。
ヘブライ語の表現で、「契約を結ぶ」は「契約を切る」と書きます。日本語の「契る」の語源が「千切る」であるのと似ています。割符のように、契約当事者同士で引き裂かれた片方を持つならわしが、「契約を切る」という表現に残っています。その引き裂くものが動物であったので、この場面でも半分の血を神の側にかけ、半分の血を民の側にかけたということでしょう。
ここには古い伝統が影響しています。創世記15章9-10・17-18節(19ページ)をご覧ください。アブラムという人と神が契約を結ぶ場面です。雄牛・雄山羊・雄羊が引き裂かれ、その間を神の臨在を表すものが通り、契約が結ばれます。アブラムと神の契約と似たような仕方で、第一の契約は結ばれます。
こうして引き裂かれた動物の血と、十字架で殺されたイエス・キリストの血が重なります。神の子キリスト・人の子イエスが、神と人々との契約の割符となります。イエスが十字架上で殺された瞬間、エルサレム神殿の幕が真っ二つに裂けたという記述があります(マルコ15章38節)。イエスは生前自分の体をエルサレム神殿にたとえていました(同14章58節・ヨハネ2章19-22節)。このことを考えると、幕が裂けたことは、イエスの体が裂けたことを表すのかもしれません。十字架で殺された時に契約が結ばれ、救いの約束が契られたということです。
最後の晩餐でイエスは、モーセの発言「見よ、これは主が・・・あなたたちと結ばれた契約の血である」(8節)を意識して、それをなぞるようにして言います。「これは多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」(マルコ14章24節)。同じ最後の晩餐で、男性弟子の12人しかいなかったように描かれているのは(同14章17節)、十二部族の代表だけが居たことや、十二の石碑が建てられたことに重ね合わせるための記述でしょう(1・4節)。十二という数字は、全世界の象徴だと考えて構いません。
では救いとは何なのでしょうか。第一の契約・第二の契約を貫いて、聖書宗教は何を救済と信じているのでしょうか。そしてそれは現代を生きるわたしたちにどのような意味を持っているのでしょうか。教会が語る「救い」なるものが、実生活を豊かにしなければ意味はありません。わたしたちの人生を、より豊かに充実したものとする「救い」とは何でしょうか。
わたしたちは、「命の交換」・「命の同伴」・「命の継承」という三つを救いと信じています。この信仰が人生を豊かにするのです。
100%神の子であり、100%人の子であるイエス・キリストが裂かれたときに血(命)が半分に分けられました。「人の子」の割符を神が持ち、「神の子」の割符を人間が持ちました。死ぬべき人の子たちの命を神の子が代わりに死に、永遠の命を持つ神の子の命を人の子たちが持たされました。雄牛の血は「無実の罪を負わされて殺される者」の象徴です。「動物には罪が無い」と考えられているからです。神の側(祭壇)にかけられた血は、正義の神の前に立つことができない、わたしたち罪人の死ぬべき命を表します。人間の側(民)にかけられた血は、愛の神から一方的に与えられる永遠の命を表します。無実の罪を負わされて十字架で殺されたイエス、三日目によみがえらされ永遠の命を持つキリストは、ここでの雄牛と同じです。
この命の交換を信じるときに、わたしたちは明日を生きる力を与えられます。人生には悩みがつきものです。自分の弱さと、自分の悪さに直面したとき、わたしたちは立ち上がることができなくなります。死にたくなることもありえます。罪とは、弱さ・悪さと言い換えることができます。善良な人ほど、罪を自覚することができます。罪の自覚とは、「もしあの場にいたら自分もイエスを処刑する側に立っただろう」と考えることです。弟子だったら裏切ったり見捨てたりするだろう。ローマ総督だったら死刑判決を下すだろう。大祭司だったら陰謀を企むだろう。群衆だったら扇動されるだろう。この感想は良心的です。だから良心的で善良な人ほど、世知辛い世の中で生きづらくなります。支配欲むき出しの傲慢な人ほど、世にはばかります。これは不公平です。
命の交換への信仰は不公平を正します。わたしたちは落ち込みすぎることはありません。自己嫌悪しすぎることはありません。自分の小ささを覚えても、イエス・キリストが代わりに殺されたのだから、自分は死ななくても良いと考えることができます。イエスだけはわたしたちに、「わたしを踏みつけにして生きて良い。赦す。ただし他の人を踏みつけにするな」と語っています。命の交換への信仰はバネとなり、生き方に弾力性・不屈の精神・翻って生きる力を与えて、不正を正す力をも与えます。これが救いです。
次に命の同伴についてです。聖書の神は契約を交わした人々と常に共におられます。神と民とは、そのような血盟団的な結社なのです。この後、シナイ山を出発するイスラエルの民の真ん中に神がおられ、旅に伴いました。シナイ山で第一の契約を結んだ神は、山頂にだけいる神ではなく、いつでもどこでも民と共に居るインマヌエル(我らと伴う神)の神です。
第二の契約は、さらにその思想を推し進めます。契約の血を共に飲むからです。ユダヤ人たちは生の血を口にすることをタブーとしています。いのちそのものだからです。教会は、イエスの血を象徴してぶどう酒を飲みます。しばしばタブーをあえて破ったイエスに倣って、ユダヤ人の中から始まったキリスト教会はユダヤ人の嫌がる「血を飲む行為」を儀式化しました。それによって神の同伴性を実感するためです(ヨハネ6章56節)。だからやはり主の晩餐は毎週行なう方が良いでしょう。目には見えず、耳でも聞こえず、手でも触れない聖霊の神が、いつでもどこでもわたしたちの内に居られることをなるべく多く感じたいものです。
命の同伴への信仰は、わたしたちに深い慰めを与えます。どんなに苦しい場面でも共に誰かが居る、わたしたちの傍らに神が居ることを信じると、生きる勇気が与えられます。人は仲間を必要とする存在です。優しい言葉をかけられても癒されない痛みというものがあります。そのような時に、言葉かけよりも隣に誰かが座ってくれることの方が重要です。親友とは隣に無言で座ることのできる人、自ら隣人となる人のことです。
孤独は人生の危機です。人はひとりぼっちであることに長時間耐えることはできません。神への信仰はひとりぼっちからの解放です。わたしたちは主の晩餐の度ごとに、インマヌエルの神を共に実感し、一週間の一人旅に耐える力をいただくのです。
最後に命の継承です。今日の箇所は、「主のすべての言葉」「主が語られた言葉」(3節)、「契約の書」「主が語られたことすべて」(7節)、「これらの言葉」など、言葉に関する言葉が多いものです。救いの約束を締めくくるものは、神の言葉を守ることです。この文脈で言えばそれは20-23章の法律を守ることになります(十戒と契約の書)。その中にはもちろん現代のわたしたちに受け容れられない内容もあります。それらについては先週まで行ったような解釈が必要となるでしょう。
イエスは旧約聖書に記されている法律を「神を愛せ・隣人を愛せ」にまとめました。聖書のすべては、この二つで一つの命令にまとめられます。この言葉を実行することが、無償で命の交換をされ、命の同伴を許されている者に求められています。それによって、命の継承がなされるからです。民が声を一つにして、「わたしたちは言われたことをすべて守る」と約束している通りです(3・7節)。神の言葉を守る時に、神の命が本当の意味で血となり肉となって生きているのです。この仕組みは第一の契約・第二の契約を貫く真理です。
神を愛し、人を愛している時に、わたしたちは十字架と復活のイエス・キリストの命を継承しています。イエスは有言実行の方でした。愛を教え、愛を実行しました。その頂点に十字架と復活があります。だから愛を行うときにのみわたしたちはイエスの弟子であり仲間です。
命の継承への信仰は聖書への信頼です。聖書は良い言葉だと信じて行なうことです。すっと入る言葉もあれば、飲み込み難い言葉もあります。飲みくだしたり、噛み砕いたりしながら、とにもかくにも行なうことです。それが人生を豊かにします。聖書の言葉には常に意外な気づきがあるからです。聖書の言葉に驚きながらも喜んで従う歩みの中で、わたしたちは救いを経験していきます。救いとは新しく生まれ変わることです。わたしたちは自分の中にない新鮮な言葉を見聞きし行うときに、生まれ変わりを体験できるものです。
今日の小さな生き方の提案は、第一の契約・第二の契約を貫く救いを共に体験しましょうということです。すでに十字架と復活で、命の交換・命の同伴が起こっています。アーメンと受け容れ、命の継承をしている人をキリスト者と呼びます。信仰告白・バプテスマにすべての人が招かれています。