良い羊飼い ヨハネによる福音書10章7-21節 2014年1月26日礼拝説教

新約聖書は古代の本です。約2000年前に書かれた本です。本には著者がいます。そして著者には著作意図があります。著者の身の回りにいる誰かに何かを言いたいがために書いたということです。かなり昔のパレスチナ(現代日本からかなり離れた時間・場所)、ヨハネ福音書と著者が置かれていた状況に向かって、ヨハネ福音書は書かれました。その時、イエスはすでに地上にはいませんでした。復活したイエスを日曜日に礼拝していた信者たちが、イエスの伝記である福音書を、ヨハネの場合はイエスの死後30-60年ぐらい経ってから書いたのです。60年というのはかなりの年月です。現在のわたしたちが1954年の出来事を書くことにたとえられます。

たとえば1954年には、プロレスの力道山が大人気、マリリン・モンローが来日、日本民主党結成などがあったそうです。力道山の伝記を書く際に、すべての力道山の発言を力道山の語った通りに書けるでしょうか。生の力道山を知っていたとしてもそれは無理です。城倉の世界観を持ち込んで力道山のせりふに仕立て上げなくては、伝記として成り立ちません。それは力道山の弟子であるアントニオ猪木のファンである城倉、または力道山が飛び出した大相撲界のファンである城倉の傾向性が出た伝記となることでしょう。そして城倉は自分の生きている時代の人に向けて何か言いたいことがあって力道山の伝記を書くのです。たとえば「力道山のここを見倣うべきだ」などの価値観があらわれるはずです。同じことが福音書にあてはまります。

ヨハネ福音書収録のイエスの言葉が、常に生のイエスの言葉であるとは限りません。著者の傾向性が強く入った、著者の時代へのメッセージである可能性があります。イエスに語らせる自由は著者にあります。別の言い方で言えば、復活のイエスはそのような弟子たちの言論の自由を認めています。前置きが長くなりましたが、今日の箇所の12-13節の「雇い人」=悪い羊飼いが指すものは何かということは、今申し上げたことを理解しないと分かりにくいのです。

ヨハネ福音書の著者の教会は、すべての教会の母であるエルサレム教会と緊張関係にある独自の分派です。「雇い人」は、このエルサレム教会の指導者たちを指します。先週も申し上げた通り、羊を盗もうとする者や食い物にしようとする「狼」(12節)は、ファリサイ派のユダヤ人権力者を指します(6節)。「雇い人」は盗人・強盗・狼とは別の人々であるのは明らかです。

エルサレム教会はギリシャ語を使うユダヤ人会衆を切り捨てた教会です(使徒6-7章)。彼ら・彼女らの指導者ステファノがユダヤ人権力者に殺された時も見殺しにし、エルサレムに残り続けた集団です(使徒8:1)。またサマリア人伝道を積極的にしなかった教会です。ギリシャ語を使うユダヤ人キリスト者の別の指導者フィリポがサマリア人伝道を行った後に、自らの権威を振りかざし成果のみをいただいたのです(使徒8:4-25。なおヨハ4:38も参照)。異邦人伝道に反対し、ユダヤ人への「同化」すなわち割礼の強制を条件につけた教会です(使徒15章)。きわめて、権威主義的・民族主義的・閉鎖的・男性中心的な教会形成をしていました。最高指導者は「主の兄弟ヤコブ」、イエスの実弟です。そして一番弟子ペトロがさまざまな分派(パウロらにも)に配慮しながらもヤコブに従っていました。

それに対してヨハネの教会はサマリア人や女性たちの活躍する教会形成をしていました。ここにはフィリポの影響があります。ヨハネ福音書の著者が使徒8:25以来ぷっつりと登場しなくなった使徒ヨハネならば、この時以来ヨハネはフィリポに倣ってサマリア人と一緒の教会づくりに参与したのかもしれません。ヨハネ福音書だけが、イエスのサマリア人伝道を伝えたり(4章)、マグダラのマリア(20章)・ベタニヤのマルタ(11章)などの女性弟子たちが活躍を伝えたり、十二弟子の中でも有名ではないアンデレ・フィリポ(1章・6章)などを重視したりするのは、著者の集団の性格を映し出しているのです。

ヨハネの教会は、ユダヤ人社会の中で極めて厳しい迫害にさらされていました。ヨハネ福音書で冠詞付きの「ユダヤ人」と言われ、「ファリサイ派」と言われている人々は、「盗人・強盗・狼」としか言いようのない相手なのです。イエスの口にのぼせている厳しい口調の原因はヨハネ教会の状況にあります。このような大迫害によって指導者たちが投獄され殺され、信者たちが市民権を奪われていく中(9:22・34)、母なるエルサレム教会はまったく支えてくれませんでした。「あなたたちは自分の羊ではない」と言ってヨハネ教会を見殺しにし、自分たちはエルサレムに残る特権をユダヤ人権力者に認めてもらったのです。羊のためにいのちを投げ打つ良い羊飼いは、イエス自身のことでもあり、ヨハネ教会の指導者でもあります。

わたしたちはここで一つの教えを得ます。それは仲間を見殺しにする行為は卑劣である、罪であるという教えです。人間の集団には分派はつきものです。キリスト教にも多くの教派があります。昔からそうなのです。分派自体は悪ではありません。他人と意見が違うことは当たり前、趣味が似ている人がいるのも当たり前だからです。問題は、いったん仲間となったにもかかわらず卑劣な見殺しをするということです。一緒に泥をかぶる場面、自分だけがいい顔をしようというのは良くないのです。

さてその上で、イエスが良い羊飼いであるということに注目していきましょう。7-10節の「羊の門」のたとえは、14:6にある「わたしは道である」という言葉と同じ意味合いです。14章になったときに詳しく考えたいので、今日は飛ばします。19-21節も9:16の繰り返しなので触れません。

良い羊飼いは羊のためにいのちを捨てます(11節)。このことは十字架の処刑のことを指しています。十字架でイエスが殺されたことは、羊にいのちを与えるためのものでした。キリスト信者というのは、十字架が身代わりの死であると信じる人たちの集まりです。たしかにユダヤ人権力者に殺された、社会的弱者をかばう「良い羊飼い」であったがゆえに「狼」に殺されたのも事実です。しかしそれだけでは十字架刑というものは受身でありすぎるし、消極的な意味合いでしかなくなります。

わたしはいのちを再び受けるために捨てる(17節)。イエスは復活をするために十字架で自らのいのちを能動的・積極的にすてたのです。それは、復活のいのちを羊たちに配るためです。いのちを失ったものは他人にいのちを配れません。ただ神の意志に従い、無念の死を遂げた義人イエスの復活のいのちだけが、そのあとに続く者たちに配られるのです。イエスの後に従う者とは、ここで「羊」と呼ばれている人たちのことです。羊の特性は、目が悪く視野が狭いために羊飼いの後ろにつき従うことにあるからです。

キリスト信仰の中心はこの十字架と復活にあります。神の子が神の命令に従って自分のいのちを犠牲にし、神はその神の子をよみがえらせる、それは神の子を信頼する人の子らにいのちを配り、神の子らとするためである(3:16)。それを罪からの救いとも言います。イエスは全世界の罪を救うために遣わされた神の子です。

先々週も、罪からの救いを、ファリサイ派の場合と元盲人の場合に分けて考えました。今回は、「雇い人」(12-13節)と「囲い(中庭)に入っていないほかの羊」(16節)という新しい登場人物がいます。「雇い人」がエルサレム教会指導者たちとすれば、「囲いに入っていないほかの羊」は、キリスト教徒ではない人を指します。「囲いの中の羊」はキリスト信徒一般のことです。そう考えないとこのたとえ話は意味をなしません。さらに、興味深いことに、良い羊飼いであるイエスは、囲いに入っていない羊にも責任を負い、しかもその羊もイエスの声を聞き分け従うことができるとしています(16節)。

一方で信者や信徒の中の指導者であっても「雇い人」のような者たちは悪い羊飼いとして批判されています。他方で信者ではなくても「囲いの外にいてイエスに従う羊」として評価されています。信者であっても救われず、信者でなくても救われているように読めます。非常に面白い現象です。そして、「こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」(16節)と言うのです。このことはイエスの十字架と復活が誰のためのものであったのかを表しています。

「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(1:9)。ここで光と呼ばれているのはイエス・キリストのことです。イエスは、闇の世界に住むすべての人を照らす光です。それにもかかわらず、ほかならないキリスト信者が勘違いをしがちです。「わたしのために十字架と復活のいのちを配った」ということが、段々「わたしだけのために、わたしたち信徒のためだけに、わたしたちのグループのためだけにキリストがこの世に来られた」かのように勘違いすることがあるのです。これは倒錯です。救われた人/まだ救われていない人という二分法の嫌らしさです。狭い考えに基づく優越感・差別意識です。

今日描かれている良い羊飼いは型破りの羊飼いです。悪い羊飼いと知りながらも「雇い人」を解雇しないで、狼が来た時には自分だけが咬み殺される覚悟を持った羊飼いです。また、雇い人に任せて留守をするのは危険な賭けであるのにもかかわらず、中庭から出て他の羊を導こうとするのです。管理者責任を全うできないほどあまりにも寛容過ぎであり、あまりにも広く責任範囲を考えすぎです。それによって誰に救いが限定されて与えられるのかが曖昧になっています。それこそが世界全体を贖う方の生き方・あり方なのです。実は世界は一人の羊飼いの群れだからです。限定されないことが重要なのです。

全世界のためにイエスは十字架を負い殺されました。全世界のためにすでにイエスはよみがえらされ、いのちは無条件に全員に配られました。このことは二千年前に完了しました(19:30)。この意味ではすべての人はすでに救われています。死ぬべきいのちをイエスが身代わりになって死んでくださったからです。イエスの無残な虐殺を見るときにわたしたちは自分の罪を知ります。わたしたちも盗人・強盗・狼・ファリサイ派・裏切り逃げた弟子・雇い人として殺す側に回る人間であることを知るからです。さらにイエスの赦しを知るときにわたしたちは自分の罪からの解放を知ります。このような卑劣な者たちをもすでに赦している方の愛と正義を知ります。そしてこの方の後ろを常に歩きたいと考えます。これが信仰です。

キリスト信仰からは、どう考えても特権意識は芽生えないはずです。形式的にキリスト者ではなくても、または教派が何であれ軽蔑される理由はありません。むしろ、「自らの良心の声(イエスの声)に聞き従うことのできる人」という仲間同士として、隣人として考えるのが良識というものです。また、相手の迷惑にならない程度に、「すべての人は救われている、神の子らである」と心の中に思っている方が健全です。

こうしてわたしたちはわたしたちを縛る「比較の世界」という闇から解放されます。キリストの救いは、「わたしを知っている方がいる、あとはどうでも良い」という心持ちです(14節)。神への集中と隣人への寛容です。今日の小さな生き方の提案は、この類の敬虔と寛容を身につけることです。