茨の冠 ヨハネによる福音書18章38-19章7節 2014年9月28日礼拝説教

イエスの裁判は続きます。今週もヨハネ福音書の強調点を意識しながら読んでいき、イエスの十字架の意味について共に分かち合いたいと思います。

ローマ総督ピラトはイエスを死刑とする理由がないことを確信していました。「罪」(18:38、19:4・7)と訳していますが、この単語も「理由、原因、事由」などと訳される一般用語です。宗教用語の「罪」(ハマルティア:的外れの意)と異なるので、ここも「理由」と直訳したほうが、ピラトのセリフとしてはふさわしいでしょう(本田訳「告訴理由」)。29節の「訴因」と同じ意味合いです。もしかするとピラトは、イエスとの対話を通して「真理とは何か」(38節)について真面目に考え始めたのかもしれません。法律に慣れ親しんだローマ人行政官・政治家の素養がくすぐられた面もあるでしょう。また後で足をすくわれないための予防ともなるので訴因の特定は重要です。

一方で基本的にはなるべく関わりたくないピラトは都合の良い習慣を思い出しました。毎年、過越祭のときに囚人を一人釈放することにしていたという慣例です(39節)。ピラトは再び玄関先に出てきて、ユダヤ人権力者たち(祭司長たちと下役)に新しい妥協案を示します。これでユダヤ自治政府とローマ総督府の両者のメンツが保たれるというわけです。マルコ福音書では群衆が一人の人の釈放を要求するのですが、ヨハネ福音書はピラトの思いつきにしています。

ピラトの提案に対して、ユダヤ人権力者たちが(群衆ではなく)「その慣例を持ち出すならばバラバという強盗を釈放して欲しい」と切り返します(40節)。バラバという人物の本名はイエスだったようです(マタ27:16)。バラバと呼ばれるイエスと、ユダヤ人の王・メシア・神の子と呼ばれるイエス、どちらのイエスを釈放するべきかが問題となっていたということです。イエスという名前は当時ありふれた名前だったのです。

さらにバラバという名前を分析してみましょう。バラバは、アラム語のbarとabbaの合成です。バル・アッバとは、「お父ちゃんの息子」の意味です。イエスは神のことをアッバ(お父ちゃん)と呼んでいました。つまりバラバと呼ばれるイエスと、神の子と呼ばれるイエスは、ほとんど同じ意味なのです。ここには文学的仕掛け(修辞)があり信仰上の主張があります。この仕掛けについては結論で再び取り上げます。

共観福音書によれば、バラバはエルサレムで起こった暴動と殺人の疑いで逮捕されておりとても評判の良い囚人だったようです。バラバは民衆に人気のある思想犯・政治犯です。おそらくローマ帝国ないしは親ローマ政策を採るユダヤ自治政府の転覆を目指して反乱を起こしたのでしょう。反米右翼の人が、親米右翼の自民党政権に反対運動を起こしたような感じです。ユダヤ自治政府はバラバ・イエスよりもナザレのイエスの方を危険視したということです。

ヨハネ福音書はこの場面を大勢の前の公開法廷とせずに、総督官邸の玄関先におけるピラトと少数の祭司長たち・下役たちの対話とします(19:6)。公開法廷は19:13から始まります。マルコ福音書と異なり、祭司長たちは群衆を扇動しないで直接イエスの十字架刑死とバラバの釈放を要求しています。ヨハネの方がユダヤ自治政府の悪が強まっています。またピラトの描き方が深まっています。ピラトは忙しく官邸内と玄関先を往復することになるからです。

19章1-3節は奇妙なところに入り込んでいます。同じ内容の記事は、マルコ福音書にもあります。ローマ兵がイエスを鞭打ち、イエスに茨の冠をかぶせ、紫の服を着せ、イエスを侮辱し、イエスに暴力をほどこすという記事です(マコ15:16-19)。マルコによればこの一連の行為は死刑判決の後の出来事とされています。この場合、マルコの方に史的信ぴょう性があります。自然な手続の流れだからです。

ヨハネはこのマルコの順番を知りながらあえてこの記事をこの場所にはめ込みました。その意図は、おそらくこの記事を「イエスの自白を得るための拷問」として読ませるためでしょう。拷問をしても自白しなかったならばイエスには死刑となる理由はないと結論づけるためでしょう。そして、拷問後のみすぼらしい姿を見せることで、イエスがまったく政治的なユダヤ人の王を目指していないことを立証しようと思ったのでしょう(4節)。また「ローマ帝国はイエスにある種の懲罰を与えたのでこれで妥協してくれ」という政治的メッセージでもありましょう。イエスから見れば無用の暴力です。ピラトが自分の責任範囲で無罪判決をさっさと出せば、このような人間の尊厳を奪い取る行為を被る必要がないからです。茨の冠と紫の服は裁判中ずっと着ていることになるので、読者に強い印象を残し続けます。十字架と地続きの暴力なのです。

再び玄関先に出てきたピラトの言葉、「見よ、この男だ」は、今申し上げたようなピラトの妥協案を受け入れなさいという促しです(5節)。ところがこの発言は火に油を注ぎます。「十字架につけろ」という祭司長・下役たちの感情的な叫びが返答です。「そんなに殺したいなら自分たちで殺せばいいではないか」というピラトの嘆きももっともです(6節)。それに対する祭司長たちの返事もおよそ論理的ではありません。「律法(モーセ五書の中のレビ記24章15節以下の神を冒涜する罪)によれば、イエスは死んで当然だ。自分を神の子としたからだ。それに比べてバラバは神を冒涜はしていない」(7節)。この返答には本当にピラトはうんざりしたと思います。18:31で「自分たちの律法に従って裁け」とピラトはすでに言っていたからです。律法に従ってこっそり石打の刑にして闇に葬ってくれるのが一番楽というのがピラトの本音です。

ピラトが理解したことは、ユダヤ自治政府は妥協案などにまったく耳を貸さないということです。彼らは都合よく宗教上の理由や手続上の理由を持ち出すけれども、話し合う気はまったくありません。常に喧嘩腰なのです。18:40「大声で言い返す」の直訳は「吠える」です。動物が挑む様を表します。それは感情的なのでもありません。感情的な振る舞いすらうまく演出して、自分たちの思うようにローマ総督を操ろうとしているのです。DVなどで、わざと怒鳴ることを支配の道具にする人がいます。牧会と称して、そのようなことが行われることも残念ながらあります。その人たちは決して感情的なのではありません。むしろ極めて緻密な計算に基づいて感情を用いて支配しようとしているのです。

ピラトの小さな悪は、ユダヤ自治政府のより大きな悪に飲み込まれます。自己保身のために妥協を探るという悪は、支配の拡大のために正しい人を殺すという悪に飲み込まれます。こうしてピラトは寄り切られていくのです。

このようにイエス・キリストの十字架への道は悪が悪に勝った出来事として描かれます。ヨハネ福音書とマルコ福音書の情報を組み合わせ、今まで述べてきた歴史の再構成はかなり史実に近いと思います。しかし、これは福音書です。ただのイエスの伝記ではありません。イエスが神の子であると信じた人々が書き、信者が読み、信者・非信者が礼拝の中で共有し、非信者が信じるきっかけとなっていくための伝記です。そのためにイエスの短い活動に焦点を合わせた、少し変わった伝記のことを「福音書」と呼ぶのです。

すべての福音書には全体を通じて仕掛けが組み込まれています。人の子らが織り成す歴史・どろどろとした弱肉強食の歴史の下で、実は、神の導く歴史・神の子が世界を救う歴史(救済史)がしっかりと着実に進んでいます。ある時読者はその仕掛けに気づいて、イエスは神の子・救い主と信じるようになるのです。今日の箇所もこの意味の仕掛け・信仰上の主張に満ちています。

たとえばバラバ・イエスの釈放や、「イエスが自分を神の子とした」から殺されたということです。イエスと同名の彼は何の理由もなく解放されます。神をアッバと呼んだイエスが殺され、アッバの子イエスが救われます。ローマ8:14-17(284ページ)をお開きください。神をアッバと呼ぶ者は神の子であり(バル・アッバ)、神の子らはイエスのように親しみをこめてアッバと呼べるようになるのです。イエスが代わりに殺されたおかげでバラバが救われたことは、読者に「わたしがバラバなのだ」という気づきを与える仕掛けなのです。「イエスの死とわたしの生とは何の関係もありません」と言う人に対して、贖罪による救済を教える仕掛けです。十字架とは身代わりの死なのだ、イエス・キリストを通してわたしも神の子になれるのだという信仰へと導く仕掛けです。

たとえばローマ兵らの暴力行為と「ユダヤ人の王」という言葉も仕掛けの一つです。このことはメシアがどのような方であるのかを気づかせるための仕掛けです。ユダヤ人たちは政治的軍事的救い主をダビデ王の再来として待ち望んでいました(12:13)。ローマ帝国の属州ユダヤではなく、ダビデ王時代の領土を持つ「大イスラエル王国」の復興を願っていました。古代東地中海世界において紫の服は高価でした。染色のために特別な貝を用いなくてはいけなかったからです。そこで紫の服は王や貴族を象徴しました。これをローマ兵は嘲りの道具としたのです。しかしこの嘲りはかえってイエスこそが本当の高貴な生き方をしたのだというように読まれる仕掛けとなります。真の王は誰か、イエス・キリストだというようにひっくり返すための仕掛けです。殺した加害者が神の救いの計画に逆用されているのです。

茨の冠をかぶせることは拷問です。茨の冠も紫の服と同じく嘲りの道具に用いられます。普通の王はきらびやかな冠をかぶるものです。だから本当の王がこんな冠をするはずがないという嘲りです。その延長に十字架刑があります。十字架は残酷な刑罰です。さまざまな学説によって、十字架のかたちについては議論が分かれています。T字形だったとか、縦棒一本だけだったとか、手首に釘を打っていたとか、腰掛け部分もあったとか、さまざまです。いずれにしろ十字架も嘲りの道具に用いられます。本当の王が処刑台なんぞという「玉座」に、右と左に政治犯を側近として従えて、つくはずがないという嘲りです。

福音書は、正にこの嘲りに満ちた問いに対して、「否、まさにこのような殺され方をした、ナザレのイエスこそ真のユダヤ人の王であり、全世界を救うメシアなのだ」と答えるために書かれたのです。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また信じてイエスの名により命を受けるためである」(20:31)。この福音書の著作意図に照らして、ピラトの発言を一つの仕掛けとして読まなくてはいけないでしょう。「見よ、この男だ」(5節)。「この人を見よ、メシア神の子とはこのような人なのだ」ということです。ローマ人に言わせるので益々劇的な仕掛けとなります。「本当にこの人は神の子だった」(マコ15:39)という言葉と同じです。

茨の冠と紫の服を見て嘲笑う人、自分より弱いものを痛めつけようとする人、自分の支配欲を満たすために隣人を踏みつける人、踏みつけられた人をかばえない人、さまざまな人の姿があぶり出されていきます。人間のどうしょうもなさです。それを宗教的な意味で罪と言います。わたしにもある、すべての人にある弱さ・悪さです。キリスト教信仰は罪からの解放を救いと呼びます。イエスの十字架は身代わりの磔だと信じる時、嘲りの道具が救いの道だったと気づくという仕掛けなのです。キリストの十字架は世界中の罪をなくしました。そのことに気づいて、その真理を受け入れた人がキリスト者となるのです。