隣人となる ルカによる福音書10章25-37節 2017年6月11日礼拝説教

「良いサマリア人」の例え話と呼ばれる物語です。ただし、より正確なまとめは、「隣人についての問答」です。例え話の部分(30-35節)はルカ福音書だけが伝えています。この問答の前半は、マルコ福音書12章28-31節にもあります。しかし、この箇所はルカがマルコを真似して書いていません。珍しい箇所です。実にイエスらしい問答と例え話なので、ルカの伝える形式が最古のものであり、それをマルコは知らなかったと考えられます。よくぞルカが後世にこの問答を伝えてくれたものです。

この問答はイエスによる鋭い切り返しの連続です。その点に注目しながら物語を追っていきましょう。なお、この問答の行われた場所は不明です。イエス一行はガリラヤ地方・サマリア地方・ユダヤ地方をうろうろと巡っていますので、もしかするとエリコという町の近くだったかもしれません(30節)。

問答は「ある律法の専門家nomikos」とイエスの間で交わされました(25節)。ルカが好むこの単語は「法学者」とも訳しえます(田川建三)。モーセ律法nomosについての専門家中の専門家が、若い宗教家イエスを「試す」(現在分詞)という問答です。

「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」(25節)。これは死後の世界の質問です。法学者はおそらくファリサイ派と呼ばれるユダヤ教の一派に属しています。ファリサイ派は死者の復活を信じていますから、地上で何をすれば天国に行けるかどうかという問いです。彼は、イエスがどの法律の部分を根拠にして、天国行きの切符を手に入れられるかを探ったのでしょう。法学者なので豊富な引き出しを持って論争をする準備がありました。

最初の切り返しは質問返しの二連発です。「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読むか」(26節)。この言葉はイエスの出方を探っている法学者の真の意図を暴くための切り返しです。イエスは「議論のための議論」を避けました。時間の無駄だからです。対話は探り合いではなく率直な討論でなくはなりません。しかも、この切り返しは法律の読み方をも教えています。条文に何があるのかということと、それをどう解釈するかは一体のものです。この場合は特に根拠条文を選ぶのですから、選ぶ時点の解釈も入ります。

こうして試す側と試される側が交代します。法学者は自分の答えを持っていて質問をしていたのです。あらゆる質問にこの傾向があります。質問は答えを含んでいます。法学者は、自分の思い描く条文以外のものをイエスが挙げた場合に、「こちらの条文はどうなるのか」と詰問する予定だったのでしょう。彼の思惑は外され、彼は自説を展開します。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を」、また「自分のように/自分自身として隣人を愛する」(27節)と、彼は答えました。申命記6章5節とレビ記19章18節の引用です。ここで、正しくも法学者は「愛する」という動詞を一回しか使っていません。それは、神を愛することと人を愛することが一つの事柄であるという解釈を含んでいます。そして、「思いを尽くして」を申命記6章5節に付け加えています。彼は、この条文以外の条文をイエスが持ち出して反論することや、彼の付け加えにイエスが反応することを期待しました。

ところがイエスはさらに意外な方向に切り返します。「答えは正しい。これをあなたは行いなさいpoieo。そうすればあなたは生きる」(28節私訳)。三連発です。イエスは条文の選びと解釈、二つの聖句の併せ方、彼の付け加え、これらすべてを是認しました。これが第一弾の切り返し。「まさかイエスが丸呑みするとは」と、法学者はうろたえます。

次いで、法解釈をそのまま実行しなさいと意外な勧めをします。法学者は、神と人を愛していると自負していたのでしょう。「否、あなたはできてないよ」と言われることに衝撃を受けうろたえています。これが第二弾の切り返し。

さらに追い打ちをかけて、イエスは相手の問いをずらします。真に議論の土俵となるのにふさわしい土俵設定をします。つまり、死後の永遠の命ではなく、生前の生き方が問題なのだと言うのです。25節の最初の問いは、名詞「永遠の命」を受け継ぐかどうかでしたが、28節の答えによって動詞「あなたは生きる」が問題となります。神と人を愛する生き方の問題です。これが三連発の切り返しです。たちまち法学者は土俵際まで追い詰められました。

法学者は自分自身を正当化しつつ(現在分詞)、苦し紛れに、なお教理問答の世界に引きずり込もうとします。これは彼が見せる精一杯の土俵際のうっちゃりです。「では、わたしの隣人とは誰ですか」(29節)。彼もまたイエスに「あなたはこの条文をどう読むか」と問うたわけです。ユダヤ社会にとって「隣人」は、常にユダヤ人同士・自分たちの身内・同胞を指す言葉でした。レビ記が書かれた時代から、イエスの時代に至るまでそうです。法学者は、「あなたは『隣人』をどう定義し、どこに『隣人/非隣人』あるいは『ユダヤ人/非ユダヤ人』の線を引くか」と問うたのです。

この問いの根っこにあるものは罪深いものです。今に至るまで人々の分断の基になる考え方だからです。被爆者認定、水俣病認定、難民認定、原子力災害からの正当な避難者の認定などなど、「隣人」の定義と範囲が問題になり、同じ被害者である住民同士が分断させられています。法律は要件と効果です。ある要件を満たす場合にだけ効果が発生します。そこで定義が必要となるわけです。定義しだいでどの人までを愛すべきかの範囲が定まります。この類の線引きこそ罪深い考え方です。憲法十条にも「日本国民たる要件は、法律でこれを定める。」とあります。

反対側から言えば法学者は、自分が愛さなくて良い、免罪される場合について尋ねて、生き方の言い訳を探ったということでもあります。条文の反対解釈がありえるからです。「この範囲から外の人物は隣人ではないのだから、自分のように愛する義務は課されなくなる」というように、彼は考えて予め予防線を張ったということです。

イエスは法学者のいささか卑怯なうっちゃりに対して、瞬時にその意図を見抜き、最速の反応で最大の切り返しをします。それが「サマリア人に助けられたユダヤ人」という作品・フィクションです。「取り上げつつ(遮りつつ)、イエスは言った」(30節直訳)という筆致に、イエスの明敏さ、つまり、常日ごろ考えていた思想をいざという時に発信する瞬発力が、うかがい知れます。

一人のユダヤ人男性が首都エルサレムからエリコという町に行く大街道の下り道を歩いていました。二つの町の間は20kmぐらいの距離ですが、標高差1,000mという急坂道です。突然同胞のユダヤ人が襲い掛かり彼の身ぐるみを剥いで半殺しにします。白昼堂々の蛮行です。そこへ同胞の社会的地位の高い宗教家が二人通りかかります。祭司もレビ人(下級祭司)も見て見ぬふりをして道の向こう側を通り過ぎます。多分エルサレム神殿を目指して坂道を登り去ってしまいました。

今度はサマリア人男性が通りかかります。おそらくサマリア地方からエリコを通って商売のためにエルサレムに向かって坂道を登っていたのでしょう。ちょっと変わったサマリア人です。普通のサマリア人はエルサレムを嫌っていたからです。紀元前128年、ユダヤ国家はサマリア人を武力で併合し、ゲリジム山のサマリア教団の神殿を破壊し、ユダヤ人への同化を強要しました。琉球処分やアイヌモシリの武力併合と似た事件です。

さらに奇妙なことに、サマリア人はユダヤ人男性を助けます。特に「憐れに思う」という言葉は重要です。共感を表現する言葉で、語源的には腸・内臓に関わります。沖縄の言葉で「ちむぐりさ(肝が苦い)」に似ています。この人にとって相手がユダヤ人であるかどうかは問題ではなかったようです。実際半裸のけが人がサマリア人かユダヤ人かを判別することは困難でしょう。つまり同じ人間が困っているということに、いてもたってもいられなくなったのです。すべての人間は「神の似姿」「人の子」「神の子」として平等です。

彼は応急処置をし、自分の家畜にけが人を乗せ、旅人のための宿屋に連れて行き、共に一泊し看病にあたります。そして次の日にけが人のための一泊二日分の宿賃を払い、宿屋の主人に言うのです。「わたしはこれからエルサレムで仕事をし、帰りにこの宿屋に立ち寄る。その間の食事や必要な世話をお願いしたい。もし、費用が2デナリオンで足りなければ、その時に精算する」。こう言い残してサマリア人はエルサレムへと向かって行きました。続きは不明です。

サマリア人は、仕事の途中で自分のできる精一杯の親切を、半殺しにされたユダヤ人男性に施しました。要点は二つです。相手が迫害者ユダヤ人男性であれ、何人であれ、同じ人間として共感し、半殺しに遭った人に親切をしたことが一つ目。ユダヤ人が忌み嫌い差別しているサマリア人の方が、同胞に襲われ同胞に助けられなかったユダヤ人を助けるという逆転を描いていることが味噌です。上から下への庇護主義はここにはありません。

そしてもう一つの要点は、その親切は自分のできる範囲のものであって、あえて言えば日常の範囲内の親切であったということです。彼は、自分の仕事を棄てて、神と隣人のために献身をしていません。献身しているとみなされた祭司・レビ人という宗教家が偽善者であることを鋭く暴いています。

イエスは例え話を語り終えて、法学者に問いました。同じ道の同じ方角に歩いていた「この三人の中でだれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」(36節)。ここにも切り返し/ずらしが見えます。そもそもの法学者の問いは、「隣人とは誰か」という定義でした(29節)。しかし、正しい土俵設定は、「隣人となる」という行為が何かということなのです。そしてそれこそが分断構造を止めさせる行為です。

法学者は渋々と認めました。隣人となったのは「その人を助けた人です」。「サマリア人です」と言えないところに、ユダヤ人である彼の差別意識と、論破された悔しさが滲んでいます。イエスは容赦しません。最後に畳み掛けます。「あなたは行きなさい。あなたも同じようなことを行いなさいpoieo」(37節直訳、「実行しなさい」28節と同語)。そうすれば、あなたは生きる(28節)。なぜならそれこそ、神を愛し自分のように隣人を愛することなのだから(27節)。

言論で勝負する人はイエスのように振舞わなくてはいけないのだと思います。自分も同じようなことを常にしているという説得力が、イエスにありました。国境をまたぐ旅を続けながら自分の手の届く範囲の困っている人を積極的にイエスは助け上げ、最終的には十字架で全く線引きの無いかたちで丸ごと全世界の困っている人を救い出し、すべての人の隣人となったからです。

今日の小さな生き方の提案は「隣人となる」という行いです。敵が病気・怪我・事故等で困っている時に、敵にも共感できるかということが問われています。意見・立場・人種・性・言語・国の違いとは関係なく成立する共通の基盤がわたしたちにはあります。生きる権利です。それが損なわれている人が一人でも居るなら平和は実在していません。もし身近に居たら、すかさず出来る範囲で隣人となることです。そうすればわたしたちは真に生きるのです。