預言者たちの言ったこと ルカによる福音書18章31-34節 2018年4月1日(復活祭)礼拝説教

ディズニーランド等でもイースターが季節のイベントとして扱われているようです。クリスマスに比べて地味な印象のイースターが日本社会に紹介され始めたことはありがたいことです。移動祝日であることや、ちょうど年度の変わり目にあたることなどが、普及されにくい理由かなと推測します。幼稚園でも年中行事として定着させにくいものです。

しかし、キリスト教会にとってイースターは一年で一番重要な日です。そもそも弟子たちが十字架で殺された師匠イエスに出会わなければ、教会は存在しなかったからです。死んだはずのイエスと出会ったという経験が、復活の信仰です。それも同時多発的にイエスが現れました。イエスに出会った男女の弟子たちの証言を突き合わせて、「あれは主だった。本当にイエスは神の子だった。神が独り子をよみがえらされたのだ」と確認し、キリスト信仰が生まれます。

ルカ福音書241335節(160ページ)には、復活のイエスと出会った二人の男性弟子の物語が記されています。この人たちも目撃証言者です。大変ユーモラスなお話です。二人はイエスと長時間面と向かって話し合っていたのですが、全然イエスであると気づかないのです。しかし、一緒にご飯を食べる時に、イエスがいつもの仕種でパンを裂いて渡した時に、イエスだと分かったというのです。このことに由来してわたしたちも主の晩餐という儀式を毎週行います。ここに復活のイエスがいるということを知るためです。

さて、この物語には、もう一つ大切な点があります。本日の聖書箇所と深く関わっている点です。それは、「イエス・キリストの十字架と復活は聖書にすでに預言されていて、その預言が実現したのだ」という信仰です。241927節のやりとり、特に最後の地の文に、今申し上げた信仰が明記されています。「そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」(2427節)。「人の子について預言者が書いたことはみな実現する」(1831節)。

聖書は二部仕立てです。前半の四分の三が旧約、後半の四分の一が新約です。イエスの時代には大雑把に言うと旧約聖書しかありませんでした。福音書は、旧約聖書に書かれていることを現在の出来事の予告と考え、起こった出来事あるいは現在進行中の出来事を予告の実施と考えています。

このことは教会が聖書を読み解く際の大きな基準です。復活のイエスに出会った弟子たちは、イエスに導かれ聖書を読みあさります。そして出来事の意味を、「実は何百年も前から、このような十字架と復活の救い主が待ち望まれていたのだ」と、解釈し確証していくのです。

最も有名な旧約聖書の箇所は、イザヤ書53章です。「屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物言わない羊のように/彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを」(イザヤ書5378節。なお使徒言行録83233節も参照)。預言者イザヤが予告した、民の裏切りによって逮捕され、裁判中黙秘を貫き処刑される人物。神の手にかかって殺された人物こそ、十字架のイエスであると弟子たちは信じました。自分たちが裏切ったからです。

また預言者ヨナが三日三晩魚の腹の中で過ごし、そこから地上に帰ったことも(ヨナ書2章)、一種の予告と考えました。預言者というものは、その行動で預言をするものだからです。象徴預言や行為による預言と言われます。ヨナは「イエスのしるし(前触れ、象徴)」なのです。

さらにホセア書612節は、預言者ホセアがイエスの復活を直接に予告した言葉と捉えられます(旧約1409ページ)。「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし/我々を打たれたが、傷を包んでくださる。二日の後、主は我々を生かし/三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる」。この言葉は、ルカ福音書1332節でも引用されています。

こうして、「我々の代理・代表としてナザレのイエスが十字架で殺されたけれども、三日目に神はイエスを立ち上がらせ、神の子キリストは今も信者と共に歩いている」という信仰が確立します。この十字架と復活の信仰は、イエスの死の直後、がっかりしているはずの弟子たちが突然元気良く活動を再開したことの根拠です。彼ら彼女たちは、復活のキリストがいつも自分たちと居て、絶望の時にも立ち上がらせ、永遠の命を共に生きることを信じています。自分たちの卑劣な裏切りすらも全面的に赦し、実はその罪もかぶって十字架で殺されたのだと、弟子たちは信じています。「彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」(イザヤ書535節)。

それは聖書に対する信頼と言えます。書かれた聖書は、どの時代、どの場所で読まれても、実現する。正典信仰です。そしてそれがわたしたちの生活を背後でがっちりと支えるのです。

「この言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(ルカ421節)。聖書は信じて読む時に、絶望から希望に反転させる力を持っています。教会は毎週信じて聖書を読みます。その出来事が今ここに起こるからです。また、自分の人生に起こっている出来事が、実は昔から予告されていたということを確認するために、わたしたちは聖書を信じて読みます。わたしたちの身に起こっている絶望が、希望に変わるためです。人生で担わされている十字架が、苦難で終わるものではなく、立ち上がる道も用意されている復活の道のりであることを信じるためです。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」(2432節)。

聖書に対する信頼・信仰は、復活のキリストに導かれたものなのです。聖書に興味を持つ人はすべて、今も生きてその人の内に働きかけるキリストによって、その興味を引き出されています。興味から信仰へと、跳躍してはどうかとお勧めいたします。すると、心が燃やされます。人生というものは燃えるものがないといけません。失望しながらくすぶるか、希望によって燃やされるか。信仰生活は後者の人生です。

わたしたちの失望には二種類あるでしょう。一つは自分の外側からくるものであり、もう一つは自分の内側からくるものです。自分には乗り越えられない壁が外側に立ちはだかる時わたしたちはがっかりします。社会の亀裂や、差別、分断はこの種類の失望です。

もう一つの失望は、外側の壁に由来するものではなく、自分自身の悪さ・弱さにがっかりする場合です。これはもう十字架と復活を信じることによらなくては癒されない傷です。そしてこの内面の傷が癒されている人は、くすぶらないで外側の壁に向かって行って乗り越える努力を続けることができます。

自己保身のためにイエスを裏切って十字架に送った弟子たちの悪さ・弱さは、復活のイエスとの出会いによって癒されました。「赦す。聖霊を受けよ。なぜならあなたの死の代わりに十字架で死んだのだから」。この無条件の赦しを「アーメン」と素直に受け取った弟子たちは、自分自身に対する失望という「死に至る病」から解放されました。癒され燃やされた弟子たちは外側の壁・亀裂・差別・分断を、教会という「神のところ」で乗り越えていきました。ユダヤ人と非ユダヤ人との間の壁、男女の壁、大人と子どもの壁、奴隷と自由人との壁。

現代に聖書を教会で読む時に、古代の出来事が予告であり、今も引き起こされるということが分かります。だから毎週わたしたちは聖書を読むために教会の礼拝に集まるのです。

さて、復活のキリストと出会った者が聖書を読みあさるという現象は、信仰の大原則を示すものでもあります。大原則とは、「あとで振り返って分かることって多いよね」ということです。信仰とは、自分の人生を振り返って見渡して、「あれが復活のキリストとの出会いだったのだ」と確認することです。そしてその時点では分からなかったけれども、あの分岐点での自分の選びは良いほうを選ぶことだったし、そこに神の導きがあったと後付けで納得することです。このような振り返りができることは、自分の人生を豊かにします。

イエスは自分が十字架で虐殺され、その後三日目に復活すると予告しています。「人の子(イエス)は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する」(3233節)。実はこれが三回目の予告だったのですが(一回目は922節、二回目は944節)、何回も繰り返し予告されているにもかかわらず、師匠イエスの言葉はその時点で弟子たちにはまったく理解されません。「十二人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである」(34節)。

24章の物語においても、二人の弟子たちにはイエスが隠されていました。目の前にいても、認識が隠されていて、イエスであると理解できませんでした。復活のキリストとの出会いも後で振り返って分かる類の出来事です。今読んでいる言葉の意味も、くどくどと聞かされている言葉の意味も、すべては後で振り返って分かるものです。

このことは人生全般にあてはまります。わたしたちは未来を知らないので、後ろ向きに前に進んでいるのです。人生はボート漕ぎのようなものです。後ろ向きに漕ぎながら、自分には見えない前へと勘で進んで行くのです。後ろのことは良く見えるし、検証することもできます。しかし、今自分がどこにいるのか、あるいは前にどのような危険があるのかは、おぼろげにしか分かりません。

キリスト信仰に入るということは、一人で乗っていた二人乗りボートの後部座席にイエス・キリストをお迎えすることに似ています。復活のキリストと共に生きる信仰生活は、前を見ているキリストの指示に従って、ボートを漕ぐことに似ています。なるべくキリストの顔を直視して、目を外さないで、耳をこらして指示に従う。聖書の言葉を読みあさり、聖書の解き明かしを聞くことが指示にあたります。

聖書を通じてキリストは常に「向こう岸に渡ろう」と新たな挑戦を与えます。ボートを嵐が襲うこともあります。どこに逃げ場があるのかは、自分には分かりませんがキリストは知っています。時にキリストはボートの後ろの方で眠っています。わたしたちが一番辛い時に助けてくれないかのように見えます。しかし、同じキリストは嵐を鎮めることもできます。波乱万丈のドラマもありながら、わたしたちはキリストともに人生という船旅を漕ぎ続けます。

今日の小さな生き方の提案は、十字架と復活のイエス・キリストを信じて、信仰生活を始めることです。平日は二人乗りボートに、日曜日は大勢が乗りこめる船に乗り、船頭イエスに従うのです。ここに永遠の命があります。