食べて祝おう ルカによる福音書15章11-24節 2017年12月24日 待降節第4週礼拝説教

アドベント(待降節)の第4週です。有名な「放蕩息子の譬え話」を、クリスマスの視点から読み直してみましょう。この譬え話に登場する「二人の息子をもつ父親」は、神を譬えています。二人の息子は、この世界に住むすべての人を譬えています。下の息子は「自由」というものについて教え、上の息子は「平等」というものについて教えているように思えます。本日は下の息子の部分のみ取り上げます。自由奔放に振舞う息子に対する、父親のジェンダーフリーで意外な振る舞いが焦点です。クリスマスとの関係で言えば、下の息子はイエスをも譬えているように思えます。

弟息子は言います。「お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください」(12節)。すると父親は意外にも何も言わずに、生前の財産分与に応じます。この財産という言葉には不動産の意味合いがあります。申命記21章17節に基づくならば、弟息子には父親の三分の一が相続されます。父親は所有する土地の三分の一の権利を弟息子に黙って譲ったのです。

驚くべきことに、「何日もたたないうちに、下の息子は全部を集めて(金に換えて)、遠い地方に旅立ち」ました(13節)。父親から見れば短期間で自分の土地の三分の一が他人の手に渡ったということになります。この父親は躾に甘すぎる駄目な父親であり、家全体に損失をもたらしています。

「放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった」(13節)は、少し訳しすぎです。30節の兄息子の誇張された悪口に引きずられています。直訳は「不安定に(アソートス)生きることで、彼の財産をばらまいた」です。アソートスは「救いが無い状態」を表します。「救い」というものは「安定/安寧」に由来するので、不安定な生き方というぐらいの言い方です。不安定な生き方に救いが無いということも示唆深い点ですが。

弟息子は悪事までは働いていませんが、色々なことに金をばらまいたので、財産はなくなりました。おそらく事業を立ち上げたりしたのだと思います。諸方面に投資したけれども失敗して財産を失ったのでしょう。さらにその地方に飢饉も起こり彼は困窮します(14節)。

そこで彼は金持ちにすがりつきます。「その地方に住むある人」(15節)は、都市の中に住む裕福な市民を指す言葉です。この市民は都市の外に畑を所有していたので、弟息子を雇って、畑へと派遣し、豚の世話をさせました。1デナリオン未満を、夕方になると日給として支給される毎日となりました。豚はユダヤ人にとって宗教的に汚れた動物とみなされていました。屈辱的な仕事に就いてでも生きなくてはいけません。極限まで貧しい生活です。

そんなある日、飢えていた彼は豚用の餌を豚と奪い合うということまでしてしまいました。「そして息子は豚が食ういなご豆で腹を満たそうと思ったのだが、豚がゆずってくれなかった」(16節、田川建三訳)。自分が軽蔑していた豚と同じレベルで争ったことが、立ち止まって考えるきっかけとなりました。

「そこで彼は我に返って言った」(17節)。「自分の中へと至りつつ、彼は言った」が直訳です。弟息子は自分自身の中に来たのです。それは、何が「滅びへ至る生き方なのか」を深く考えることです。「見失う」(4・6節)、「無くす」(8・9節)、「飢え死にする」(17節)、「いなくなる」(24節)は、すべて同じギリシャ語アポルミという動詞です。ヘブライ語まで遡れば「滅びる」という意味です。人間存在の滅びとは何か/救いとは何か、きわめて宗教的な問いに弟息子は直面しました。どん底は自分という「存在の深みdepth」に立つ経験でもあります。そこでものを考えることが自分自身の中へと至るということです。彼が苦い体験を通じて思い当たったのは、「人間は品位を保って生きるべきである」ということです。豚と争う自らの醜い姿がきっかけでした。

父親に面と向かって遺産を要求し、すぐに金に換えて旅立つ品のなさ。ここに彼の罪の原点があります。犯罪にまでは至らないけれども、このように相手に失礼な、品のない生き方が滅びへと至るのです。品の無さが不安定な生き方と軌を一にします。父の家には雇い人たちに至るまで品位が保たれていたことを彼は思い出し、そこに安定と救いがあると考えたのです。

ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、天に向かって、そしてあなたの前で、わたしは罪を犯しました(点的動作)。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」(18-19節)。これは実に良い言葉です。弟息子の信実な悔い改めを示しています。それだから、品のある言葉です。ちなみに「わたしは罪を犯しました」は、新約聖書中もう一箇所にしか現れません。それは、ユダの罪責告白です(マタイ福音書27章4節)。神の信頼を裏切る自由というものが、罪の本質です(創世記2-4章)。

父親は適切な警告を発していませんでした。先回りして制止もしません。おそらく失敗するだろう息子を自由にします。自分を裏切る自由すら与えています。息子が売り払った土地は父親のもとに二度と戻ってこないのです。取り返しがつかないことを仕出かしてしまった息子。しかし、それによってこの息子は、苦労を重ねながらも自力で、人間の持つべき品位を取り戻したのです。

息子は自分の父の家へと戻ります。「ところが、遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い(スプランクニゾマイ)、走り寄って首を抱き、接吻した」(20節)。スプランクニゾマイは「共感する」という意味です。元々は、「犠牲祭儀に用いた後の動物の内臓を食べる」という意味の動詞でした。殺された動物の痛みを、自分の痛みとするという意味合いでしょう。ルカは、この言葉を、イエスの譬え話とイエスの感情にしか用いません(7章13節、10章33節)。神のみが持ちうる共感・共苦です。父親は神を譬えています。

父親は息子が遠くの地方に出て行ったその日から毎日待っていました。だから、遠くに姿を見て、すぐに見つけることができたのです。父親は悔い改めという条件を付けて息子を赦してあげようとは思っていません。はじめから息子の存在を無条件に赦しています。自発的に品位を取り戻すかどうかは父親の関心事ではありません。ただ、帰ってくるだけで嬉しいのです。

弟息子は礼節を尽くして、自分がたどり着いた精一杯信実の言葉を父親に言います(21節)。しかし、父は最後までそれを言わせません。19節の最後の文「雇い人の一人にしてください」は、21節にありません。この不自然さに気づいて付け加えた写本もありますが、元来の譬え話はこの通りです。「雇い人にしてください」と言われる前に、父親は僕たちに息子の晴れ着を用意することと、パーティーの開催を慌ただしく命じたのです。息子の悔い改めは父親の赦しに呑み込まれています。人間のなす罪の悔い改めよりも、罪を救う神の愛は先立ちます。人間の自由よりも神の自由の方が大きいものなのです。

「いちばん良い服」(22節)は紫の衣だったかもしれません(16章19節)。「指輪」(22節)は権限の移譲を象徴します。息子である資格は、息子が決めるのではなく父親が決めるものなのです。「履物」(22節)は自由人の象徴です。雇い人、僕、家奴隷ではなく、息子は今までと同じ自由・権利を持っているのです。つまり、彼は家出をして権利を放棄・喪失したのではなく、ずっと息子としての権利を持ち続けていたのです。少なくとも父親の意識の中では。

父親ははしゃいでいます。「食べて祝おう」(23節)、「祝うということを始めた」(24節)と「祝う(エウフライノー)」という同じ言葉が繰り返されています。この言葉は、ルカ福音書の譬え話の中では悪い意味でしか使われません(「楽しめ」12章19節、「遊び暮らす」16章19節)。通常ありえないほど父親は上機嫌になり、程度を越すお祝いをしてしまいました。

雇い人たちも常軌を逸しています。一般に、弟息子が父親に与えた損失から考えれば、「甘すぎて躾ができない父親」「家/家業の財政を危うくする経営者」としか考えられません。主人から見れば息子の復活ですが、僕たちからすれば出来の悪い二代目の帰還と考えて白けるのが当たり前です。しかし雇い人たちも「愚かしい父親」と共に度を越した祝いを皆で共にします(24節)。ここには神の姿と、教会というものの姿が表されています。

少し別の角度から考えてみましょう。神にとってイエスという一人息子はどのような存在だったのでしょうか。二人の息子を足して二で割ったような感じではないかと思うのです。自由であり従順である息子です。「キリストは神と同じ身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」(フィリピの信徒への手紙2章6-7節)。ルカの出身教会であるフィリピの教会に伝わるクリスマスの内容を含む賛美歌です。

天から地へと遠くに旅する息子。父が子を派遣するというだけでなく、子の自由な意思によって神が人となったことが伺える言葉です。イエスは不安定な生活にあえて飛び込みました。神は半分賛成、半分反対だったのではないでしょうか。対話的な三位一体の神は、ご自身の中で異なる意見をたたかわせ熟議することができます。そして結局神の子の自由を尊重します。

自ら冒険の旅に出た独り子イエスは、飼い葉桶に寝かされ、枕するところもない旅を続け、不安定な生活を続けました。その間に人々を助け、正義を教え、悪霊を祓い、愛と正義を貫きました。そのために、罪人の一人に数えられ、全ての罪を背負って十字架で殺されました。彼は黄泉という救いようのないどん底に降ります。その存在の深みで、がっちりと神から抱えられ、神の右の座にまで挙げられます。イエスはよみがえらされたのです。

イエスと弟息子とでは旅の動機は異なりますが、人生経路が似ています。親元を遠く離れ不安定な生活をし、滅ぶべき存在となったのですが、どん底において親と再会し復活させられるからです。この救いの道は、キリストが切り開かれた道です。神の独り子イエス・キリストの真似をすることで、わたしたちは神の子になることができます。つまり弟息子に譬えられている人物は、イエスでもあり、わたしたち一人一人でもあるということです。

今日の小さな生き方の提案は、クリスマスという節目に自分の人生の旅を振り返ってみることです。自分自身の中へと至る思索にふける冒険をお勧めいたします。「どん底」はどこにあったのでしょうか。存在の深みに突き当たる事件は何でしょうか。そこに誰がおり、どのようにしてそこから抜け出せたのでしょうか。そこに神がおり、抜け出す道筋を導いてくださったおかげで、今があるのではないでしょうか。

劇的な悔い改めをした人もいます。傷害罪で拘留されていた時に母親との面会で回心しキリスト者になった人の話も聞いたことがあります。正に「放蕩息子」の譬え話です。しかし、そのような大袈裟な大きな物語でなくても良いのです。些細な不安定さからの小さな改善であっても、全く同じ価値の救いです。なぜなら悩みの深さはその人にしか分からないからです。だからどんな小さな解放の出来事でも、天には大きな喜びがあり、神の度を越した大はしゃぎがそこにあります。教会は一人の人の神との出会いを共に喜び、小さな生活の安定を共に祝い、天の祝宴を地上に実現する群れです。食べて祝いましょう。