慈しみに感謝して コリントの信徒への手紙一1章22-25節 2024年9月29日宮下めぐみ神学生証

祈り

全ての命の創り主であられる神様、貴い御名を褒めたたえます。今朝もイエスキリストのお名前が全世界で讃えられますように。

今朝も憐れみの内に私に命を与えてくださり感謝申し上げます。

あなたを礼拝する喜びを与えてくださり、あなたをあがめる会衆のひとりに加えてくださいましたこと、心から感謝いたします。皆様と共にみことばに聞き、イエスキリストの福音の恵みを分かち合うことができますように。

あなたが与えてくださった貴い救いと導きを皆様に証することができますように助けてください。

イエス様のお名前で祈ります。

 

 神学校の学びを始めて6年目になりました。神学校での学びを通して豊かな恵みをいただいておりますことに心から感謝いたしております。自分の在り方を問われる厳しい面もありますが、裏返せば新たな知識や考え方に出会う機会でもあります。福音の真理に近づこうとする学びの営みは、どの教科も恵み豊かなものでした。

この5年間には、コロナ禍があり、私共の教会においてはその間に教会の牧師、坪井通泰先生が病み、天に召されるという大きな悲しみの出来事もありました。そのような状況の中、無牧の期間を含め、神学校の多くの先生方、そして神学生の皆様のお世話になり、祈りに支えていただきました。もし、神学校で学んでいなかったら、私の信仰はどうなっていたのかとも思わされます。無牧の間も、毎週の授業の為に必死に学ぶ中で信仰が護られ、育てていただいたことに心から感謝いたしております。坪井先生には、何一つ良い報告をすることはできませんでしたが、本科入学の推薦を書いてくださった、そのことへの感謝を忘れずに学び続けたいと願っております。少し学んだ今、お聴きしてみたいこと、お話してみたいことが多々あります。それが叶わないことは本当に残念ですが、先生がたぶん私たち信徒のために意図的に見せてくださった最後の最後まで礼拝者として歩まれた、その姿を忘れずに歩みたいと思います。先生が残された書物の中に、先生の卒業論文を見つけました。丁寧に1文字1文字、ペンで書かれた論文を大事になさってきたことと拝察いたします。牧師室に残されたたくさんの書籍が処分されてしまいましたが、それだけは私がいただくことに致しました。提出日を見ますと、昭和49年2月13日とありました。それは、贖罪についての研究で、ギリシャ語、ヘブル語の用法、分類、語彙などについて書かれていますが、まだ今の私には十分理解できません。いつかわかるようになりたいと願っております。

2019年4月に聴講生として学びを始め、翌年、本科生として入学はしますが、時間もエネルギーも仕事に費やさなければならない部分が非常に大きく、学びのペースを上げることはできず、毎学期1科目の受講を続けて参りました。時間はかかっていますが、その分、1科目ずつじっくり学んだつもりではいます。しかし、それはまとまった知識を得るのに十分な時間ではなく、5年学びましたが、未だ入り口にいる感覚はぬぐえません。本当に足りなさばかりを思いますが、この5年間に他に何を為しえただろうかと思うと、何も成しえなかったであろうとも思います。

神学校での学びを始めたきっかけは、ご高齢の方が役員を辞退されるなどして、バプテスマを受けて間もない私が責任役員をお受けすることになったことにあります。委員長会のメンバーとして教会の運営に携わるようになって、様々な疑問も感じるようになりました。そのような中で、学びに導かれました。とても何かを始められるような状況ではありませんでしたが、牧師先生に「夜学もあるよ」と言われて調べたのが、東京バプテスト神学校でした。女性が校長先生であるということに大きな衝撃を受けました。私が所属する教会の雰囲気として、今はだいぶ変わってきたようにも思われますが、以前は女性は男性の前に立ってはならないというような空気があったからです。パウロが集会の秩序について、

「婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることは許されていません。・・・婦人たちは従う者でありなさい」とⅠコリント14:34と言っているみことばをそのまま信じておられるようにも感じられました。神学校では多くの女性の先生方が、それぞれの賜物をもって仕え活躍なさっている様子に接し、また直接ご指導をいただく機会に預かりました。神様がそれぞれに与えてくださる召命と賜物にジェンダーによる区別はないのだと実感いたしました。

神学校での学びを進めていく中で、一つの大きな出来事は、神学校入学礼拝での坂元幸子校長の説教でした。それは2020年度前期の入学礼拝、受苦日の夕方の礼拝で、主イエスが十字架を受けられた、その出来事について語られたものでした。その説教で、今私たちに伴っていてくださる方は「十字架につけられ給いしままなるキリスト」であることを知りました。

そのことは、あまりにも衝撃的な内容で、それ以来忘れえぬ事柄となりました。

そして、そのことは、西南学院大学の青野太潮先生が数々の御著書の中で説かれていることであり、東バプ2019年度夏期・冬期公開講座「新約聖書をどう読むか」において、夏期講座を青野先生が、冬期講座を松見俊先生がもたれた講座のテーマであったことを後の授業の中で、他の受講生から教えられたのでした。(残念なことに、聴講生だった私は欠席していて直接お聞きしていなかったのでした・・・)

「一方でユダヤ人たちは徴をもとめ、他方でギリシャ人たちは知恵を追い求める。それに対して私たちは、十字架につけられたままのキリストを宣教する。(1コリント1:22-23)」この箇所は、日頃私が読んでいる新改訳聖書には、「23しかし、わたしたちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。」となっています。

「十字架につけられたキリスト」と「十字架につけられ給いしままなるキリスト」この違いに気づかされた瞬間でした。

青野先生の御著書によれば、「神の啓示を受け、パウロの心の内に現れたイエス・キリストは、今も尚十字架につけられたまま、みじめで無残な姿をさらすイエス・キリストである」というのです。 

そのことを、後日受講しました城倉先生が講師を務められたギリシャ語の授業の中で、確認することになりました。そして、パウロの心の内に現れたイエスはそのようであったということを事実として受け止められるようになりました。パウロ独自の特徴的な表現の意味を知る手掛かりは、ギリシャ語の文法にあるようです。パウロはギリシャ語でこの手紙を表していますが、「つけられたまま」と訳される箇所は、パウロは必ず分詞、現在完了形で言い表しているというのです。青野先生、城倉先生の解説によりますと、ギリシャ語の現在完了形は、完了した動作がもたらした状態、そしてその影響と結果が、今に及びつつ尚継続している、ということを強く言い表すための文法なのだそうです。パウロに現れた主イエスは、十字架にかけられたままの無残な姿のイエスであり、今日私と共にあってくださるのも、そのようなイエスであるということを知りました。「つけられたまま」とギリシャ語の現在完了形で書かれている、このことは、続く24節「ユダヤ人であろうがギリシャ人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」と書かれている神の力として、この先の何千年であっても、この手紙(福音)が読まれる限り、常に現在完了形をもって、読むその人に効果は継続します。福音の奇跡、素晴らしさをここに見る思いです。冬期公開講座の資料として、この箇所の青野先生の主張に対する松見俊先生による反論を後日拝読いたしました。松見先生がおっしゃるように、パウロの手紙の他の箇所、アオリストという過去形で書かれている箇所、アオリスト受動態で書かれている箇所との表現の違いや関係性について念頭におくべきだとの主張も理解できます。しかし、この箇所がどのように響いたか、というような個人的な回心の経験のようなものとして、私にとっては覆しえない事柄であるように感じております。

 

 「十字架につけられ給いしままなるキリスト」が、私に伴っていてくださるという真実は、私にどんな変化をもたらしたのでしょう。「十字架につけられ給いしままなるキリスト」が伴っていてくださるという真実は、神様に愛されている存在としての自分をより意識させたように思います。もっと前に戻って、信仰をもつ以前の自分を思い起こしますと、どんなにか無駄に時間を過ごしてきたことでしょう。私の人生の大半は、やる気のない人生でした。長いことどこにも希望を見いだせず、何もしたくないと思っていました。そんな私の為に神様は戸を叩き続けてくださいました。そのおかげで、終に父の家を離れ、自分らしく生きる道を選ぶことができました。全く不思議な導きであったと思います。

 

聖書を原語で読むという営みには大きな恵みがあります。それぞれの単語がもつ意味合いは、その言語が使われていた地域の風土、語られた時代の慣習・風習を知ることによって、正しく理解することになります。それは、記者(話者)のメッセージの意図するところを理解することにつながります。例えば、旧約聖書のイスラエルの民にとって「風」や「雨」といった気象に関わる言葉のもつ意味合いは、湿潤な日本に暮らす我々の感覚、イメージするところとは全く異なっていることを知りました。聖書が2000年~3000年前に書かれた書物であるということを念頭に、聖書に書かれている事柄は、今私たちが暮らしているのとはだいぶ異なる世界の話だという前提で読む必要があるということも学びました。

 

それにもまして驚きであったことは、その言語特有の文法によって知らされることの大きさにあります。先にお話しさせていただきました通りです。パウロは「ギリシャ語」で手紙を書いている(筆記させている)という誰もが知る事実にも、福音の真理を解くカギが隠されていることを知りました。

ギリシャ語の時制によって知らされることがあり、ヘブル語の視座によって知らされることがありました。

原語で読むという営みは、新たに一つ一つのみことばに出会い直すような経験です。それは、とても素晴らしい経験でありますが、初学者にとっては険しい道のりでもあります。日本語の聖書を手にしていて、わかっているのにわからない、もどかしい思いにもなります。しかし、どの科目においても、そのような険しい道のりも導いてくださる先生や共に学ぶ学生の皆さんがいてくださって、続けることができるのだろうと思います。以前、ドイツ語をラジオ講座で学び始めましたが、なかなか継続できず、残念ながら断念した経験があります。独学で究められる方もいらっしゃると思いますが、私には他者の助けが必要であり、神学校の授業が大きな恵みとなりました。

私にとって専攻科への進学は、何にも変えがたい神様からの恵みでした。どんなに専攻科で学びを続けたいと願っても、神様の許しが無ければそれは叶わなかったと思います。これまで、共にあって苦難を分かち合い、私の専攻科への進学を快く認めてくださった教会の皆様にも感謝の気持ちでいっぱいです。2022年の冬、大病を患い癒されました。その先の人生を生きることを許された時、これからのは救いの恵みに応える人生にしようと決めていました。

神学校で教えてくださる先生方は、いつも授業の為にたくさんの準備をしてくださり、また学生たち一人一人のためにお祈りくださっています。

素晴らしい先生方に出会ったおかげで、先生方のようにイエス様をしたい、心を尽くし、命を尽くして証して生きる、そのようになりたいと心から思うようになりました。

この世にあって、全ての愛の源がイエスキリストであり、全ての命あるものが調和の中にいかされ、生かし合う世界、平和をつくり出す道はここにしかないということを証して生きたいと心から願うようになりました。5年かかりましたが、もはや、黙ってはいられない者に変えられました。牧師が熱心なだけでなく、バプテスト教会には、自分の言葉で語らずにはいられない熱心な信徒の皆さんがいます。私は心からそのような一人でありたいと願っています。

 イエス・キリストの愛を一人でも多くの方に届けることができるように、みことばの素晴らしさを届けることができるように、これからも精一杯励んで参りたいと思います。

第Ⅰコリント2:7-10にあることを信じます。

「わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。『目も見えもせず、耳が聞こえもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神はご自分を愛する者たちに準備された。』と書いてある通りです。わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかにしてくださいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。」

どうかこれからも、引き続き、東京バプテスト神学校の働きが益々祝されますように、学ぶ人が益々たくさん起こされますようにお祈りいただきますようにお願いいたします。

祈り

学びに向かう心を与えてくださり、そして学びを通して、神様が指し示してくださる真理を求める心を与えてくださり、みことばとの出会い、人々との出会いの全てを与えてくださる神様に感謝いたします。豊かな神学の場である東京バプテスト神学校をありがとうございます。この素晴らしい学びの場が全世界の全ての人に開かれていることに感謝いたします。そこに多くの人が集い、より広く、より深く、あなたの御性質と真理について知ることができますように。教派を超えて豊かに分かち合ってくださる東京バプテスト神学校の働きに益々主の栄光がありますように。また、神学校を支える個々の教会・伝道所、またバプテスト連盟、北関東、東京、神奈川それぞれの地方連合の働きに益々主の御栄光がありますように、心からお祈り申し上げます。