はじめに
エジプトで奴隷だったイスラエルは、そこを脱出して現在のパレスチナ地域へと向かいます。紀元前1200年代のことです。イエスの時代(後1世紀)からさらに1200年前のことです。巻末の聖書地図「2 出エジプトの道」を開いていただくと、「カデシュ・バルネア」という地名があります。この町が「カデシュ」(14・16節)です。カデシュ・バルネアの東に「エドム」とあります。これが「エドム」(14・18・20・21節)という地域/国です。死海の東南に位置する王国です。イスラエルから見ると死海の東を通ってパレスチナに入る場合どうしても通らなくてはならない地域/国です。
エドム王国から見ると、イスラエルが死海の西側を通れば何も問題は起こりません。通す義理もないように思えます。しかしエドムとイスラエルには深い関係があるのです。イスラエルという民の始祖はヤコブという男性です。そしてエドムという民の始祖は、ヤコブの双子の兄エサウという男性です。「貴男の兄弟イスラエル」(14節)という言い方に、この双子の兄弟関係が映し出されています。かつて弟ヤコブは兄エサウにひどいことをしました。その子孫たちが数百年ぶりに出会う時に何が起こるのでしょうか。
14 そしてモーセはカデシュからエドムの王に向かって使者たち(を)遣わした。貴男の兄弟イスラエルはこのように言った。貴男、貴男こそ私たちを見出した苦難のすべてを知っているはずだ。 15 そして私たちの父たちはエジプトへと下った。そして私たちは多くの日々エジプトに住んだ。そして彼らエジプト人は私たちに、また私たちの父たちに、悪をなした。 16 そして私たちはヤハウェに向かって叫んだ。そして彼は私たちの声を聞いた。そして彼は使者(を)遣わした。そして彼は私たちをエジプトから出させた。そして何と、私たちは、貴男の境界の端の町・カデシュの中に。 17 どうか貴男の地の中を私たちに渡らせてほしい。私たちは畑の中や葡萄畑の中を渡らない。そして私たちは決して井戸の水(を)飲まない。その王の道(を)私たちは歩く。私たちは右と左に逸れない。私たちが貴男の境界(を)渡るまで。
ヤコブとエサウ
イスラエルの指導者モーセはエドム王国の王に使者たちを遣わします。そして領地の通過を願います。この物語は一貫して領土の通過に関して「渡る(アバル)」(17-21節)という言葉を使っています。何回も繰り返して用いられる言葉は鍵語です。実はこのアバルという言葉は、ヘブル人(≒イスラエル人)の語源です。ヘブル人(イブリーム)とはもともと「川向うから渡って来た人」という意味だったと推測されています。パレスチナ地域の飢饉により、避難するためにエジプトへ逃げたヘブル人70数名。その時の一族郎党を治めていた男性がヤコブ(イスラエル)という人でした。超大国エジプトは難民ヘブル人を寛大に受け入れました。しかしその後王朝が変わり、ヤコブの子孫ヘブル人たちを奴隷として苦しめました。その人々イスラエルの民が奴隷労働とファラオ崇拝から逃げ戻って来たのです(15-16節)。正に渡り者です。ここにイスラエルの本質があります。
このイスラエル(ヘブル人)の本質・特徴は、わたしたちにも示唆に富みます。人生は放浪の旅に似ているし、その意味ですべての人は渡り者です。「渡る世間は鬼ばかり」というように、世間・社会・世界をわたしたちは毎日渡り歩いているのです。その時必要なことは何かを捨てる勇気をもって大胆に出て行くこと、一日の旅程を誠実に歩き毎日一日分だけの感謝をささげること、振り返らないことなのでしょう。忘れっぽくはなりますが。
さて、ヤコブの兄エサウは、同じ地域の同じ飢饉の時にエジプトに移住することを選びませんでした。ずっとエドムの地に住み続け、渡り者とならないことを決めました。もちろんヘブル人として生きる弟ヤコブ一族の動向は知っています。またエサウもエジプトに麦を買いに行ったかもしれません。それでも彼は土地を捨ててエジプトに移住することまではしません。自分の土地で飢饉を耐え忍んで凌いだのです。その子孫たちがエドム王国を建てます。
エサウが渡り者にならないことを決めた理由は何でしょうか。ヤコブにだけパレスチナ地域が約束されていることが関係しているかもしれません(創世記28章13-15節)。エサウには神からの約束の土地はない。自力で土地を獲得しているからこそ移住しにくいと思います。自分の土地だからです。エサウからすれば、移住できる弟はいつでも戻ってこられるという「甘え」の中にあるのでしょう。現代のパレスチナ問題に引き寄せて考える時に、エサウの考えは示唆的です。何千年も前の「神の約束」に基づいて任意にパレスチナに「帰還」され、不法占拠を繰り返されても、定住民にとっては迷惑です。現代イスラエル国家はパレスチナ人に土地を返還すべきでしょう。
ともかく私たちはエサウとエドム王国とを重ね合わせ、ヤコブとイスラエルの民とを重ね合わせて読む必要があると思います。モーセはエドム王に、領内を渡らせてほしいと願います(17節)。一本の道以外は通らないから、畑も荒らさず、井戸も使わないから、通らせてほしいというのです。「王の道」は死海の東側を、ダマスコからアカバ湾まで通る大動脈です。弟が甘えておねだりしています。王の道という地名すらもイスラエルの傲慢を暗示しているように思えます。「俺様は王様なのだ」という具合です。少なくともエドム王は、とても嫌な気持ちになりました。そして先祖エサウから伝わる家訓を思い出します。エサウ・ヤコブ双子の父親は長男エサウに予告していました。
「貴男は剣に基づいて生きる。そして貴男の兄弟に貴男は仕える。貴男が休めなくなった時に以下のことが起こるのだ。すなわち、貴男が彼の軛(を)自分の首の上から壊すということが。」(創世記27章40節私訳)
エドム王はモーセの申出を断る決意をします。
18 そして彼に向かってエドムは言った。貴男は私の中を渡ってはならない。さもなければ剣で私は貴男と会うために出る。 19 そして彼に向かってイスラエルの息子たちは言った。その街道の中を私たちは上る。そしてもし貴男の水(を)私たちが、私と私の家畜が飲むならば、私はそれらの代価(を)与える。私の両足で私が渡る以外は、事柄は存在しない。 20 そして彼は言った。貴男は渡ってはならない。そしてエドムは彼と会うために重い民と共に、また、強い手と共に出た。 21 そしてエドムはイスラエルが彼の境界を渡ることを与えることを拒んだ。イスラエルは彼の上から逸れた。
話し合い
エドムはイスラエルの領内通過を拒否します。「渡ってはならない」(18・20節)は絶対的禁止命令と呼ばれる独特の表現です。十戒と同じです。「渡るな。さもなければ剣で応戦するぞ。王のようにふるまい、勝手に奴隷の軛を負わせるな。そのような屈辱はごめんだ。」(18節)
イスラエルはこの反応に驚きます。双子の兄弟なのだからという甘えを捨てて若干へりくだってもう一度依頼しなおします。「王の道でなくても構いません。その街道でも良いです。家畜が無作法をした場合であってもちゃんと代金を支払うことも約束します。大したことではないでしょう」(19節)。この再依頼にも甘えが見えます。どの道であっても「私〔エドム〕の中」(18節)であれば問題なのだということを捉えていません。そして「事柄(問題/課題)は渡ること以外に存在しない」と言い放っていますが(19節)、正に領内を渡ること、そのものが問題だということに気づいていません。家畜やお金の問題でもないのです。ヤコブはエサウを侮っています。
エドム王は再び同じことを言います。「貴男は渡ってはならない」(20節)。先ほどと同じ絶対的禁止命令です。そして使者たちに対する言葉だけではなく、彼は自らイスラエルに会うために出て来ました。「エドムは彼と会うために重い民と共に、また、強い手と共に出た」(20節)。20節には「剣」(18節)はありません。「強い手」は武装した兵士とまでは言い切れません。「重い民」は指導者層とも考えられます。「会うため」を「迎え撃つため」と解釈しなくても良いと思います。つまり、エドムが武力による威嚇でイスラエルを追い払ったと考えなくても良いと思います。そうではなくエドム王は強硬な手段(強い手)で外交交渉にあたり、その際に礼儀を失さないように民の中の重要な者たち(重い民)を同伴して、直接モーセと話し合うためにカデシュ・バルネアまで会いに来たと理解します。戦争というものは外交の失敗だからです。
そして兄エサウ(エドム)が弟ヤコブ(イスラエル)に向かって率直に語りかけます。「自分にとってどうしても嫌なことはあるので、率直に直接伝えたい、弟よ。このエドム王国領内に入ることを止めてほしい。それだけは我慢できない苦痛なのだ。私にも尊厳というものがある。私たち民の代表たちには民全体を守る責任もある。あなたたちが渡る民(ヘブル人)であることは理解した。それはあなたたちの文化だ。尊重しよう。しかし私たちの中を渡ることを許すことはできない。それを許すことはエドムの文化にない。またエドムの民の不公平感を抑えられなくなる。どうか超えるべきではない境界線を越えないでほしい。そもそも私たちは離れて暮らし干渉し合わないことを合意したのではないか。私たちエドム王国のあり方も尊重し認めてほしい。」(創世記33章参照)
この言葉にモーセやアロン、イスラエルの長老たちは頷きます。大切な歴史を振り返って反省し、自分たちの非礼を恥じて、エドム王国の領地から逸れて、イスラエルは異なる道を歩いていきます。イスラエルにとっても戦争は外交の失敗であるから、この回り道も「より良い道」です。武力衝突の構えで苛立ちを相互増幅させることではなく、品位を保って話し合いお互いの主張に折り合いをつけることが大切です。
今日の小さな生き方の提案
双子の兄弟という設定は、人同士の対等、国同士の対等・平等をあらわす譬えです。誰もが同じ人間であり、どの民も同じ人間の集まりです。国際連合が一国一票であることは国家間の対等・平等を言いあらわしています。どんな人もどんな民も一方的に押し付けられ非難されることは嫌なものです。自分のしたいことを言うのではなく、相手のされたくないことに耳を傾けるべきです。個人の間でも、集団の間でも、国家の間でもそうです。私が尊重されるべきならば、隣の人もまったく同じ理由で尊重されるべきです。対等・平等の神の子だからです。目指すべきは「ごめんなさい」「いいよ」という和解ではありません。相互尊重に基づく妥協と線引きと距離をとることです。