今日も永遠の命を得ているということがどのような生き方なのか、一つの例を申し上げます。それはバプテスマのヨハネの態度から学ぶことです。
ヨハネ福音書は「あの世」の話をしていないということを先週お話しました。永遠の命を得るということは、この世の生き方の問題です。非暴力的な生き方のお勧めを先週はいたしました。「あの世」という考えに似たことがらをもう一つ今週追加いたします。それは「世の終わり」についてのヨハネ福音書の考え方です。というのも、「神の怒り」(36節)という「世の終わりについての専門用語」が用いられているからです。ここには説明が必要です。
キリスト教にも世の終わりについての教えがあります。「世界には始まりが有り終わりがある、世の終わりにはイエスさまが来て公平な裁判が行われ、義人が正当に救われ悪人が神の怒りを受けて裁かれる、そうして神の国が完全に到来して世界が贖われる」という教えです。ユダヤ教・イスラム教も共有している考えです。「あの世がこの世に来る」というイメージです。
さらにキリスト教の世の終わりの考えには、大まかに二つの立場に別れます。「明日にもイエスさまが来て欲しい(今の生活に不満)」という願いを強調する立場と、「別にイエスさまがすぐに来なくても構わない(今の生活で十分)」という立場です。新約聖書の中にも27の文書があり、その立場はさまざまです。その中でヨハネ福音書は、明確に「すぐに来なくて良い」という立場です。
なぜなら永遠の命はイエスさまが将来来るときに与えられるのではなくて、信じて歩みを起こす人に今与えられるからです。あの世ではなくこの世、将来の神の国ではなく現在の日常生活が大切なのです。信じている人には天から与えられた神の霊が風のように宿っています。神の霊は神そのものです。その風に吹かれて自由に(毎日を新たに・真理に則って)生きることが神と共に永遠の命を生きることなのですから、あの世における救いも、神の国における救いも必要ないのです。逆に、信じて歩みを起こさない人は、そのような生き方自体が神の裁きであり(たとえば暴力的な生き方によって隣人を失うこと)、世の終わりの神の怒りはその人に現在とどまっていることになります(36節)。31-36節は16-21節の繰り返しであり、ヨハネ福音書の立場を改めて説明した言葉と考えれば良いでしょう。バプテスマのヨハネのセリフは30節で終わっていることも、その現れです。ここはヨハネ福音書を書いた著者の意見です。
そういうわけですから、先週と同じく「すでに永遠の命を得ている人のこの世での生き方」が問題となります。それは永遠の命を毎日持ち続ける生き方でもあります。
先週は永遠の命を得(てい)る生き方の一例を威圧的ではない生き方・暴力を捨てることとして提案しました。今日は、別のありようを紹介します。それは「良い友人となる」という生き方です。先々週の「わがまま」の勧め・自分の生きたいように生きるということと対になる生き方です。この二つはバランスよく考えなくてはいけません。自分の尊厳を大切にすることと、隣人を尊重することは、時々対立するのでバランスを保たなくてはいけません。バプテスマのヨハネの態度は良い友人とはどういう人かを教えています。
イエスの弟子たちの何人かは元ヨハネの弟子でした。そして、イエスの集団とヨハネの集団はある時期競合していたということが22-26節と4章1-3節に書いてあります。これは史実通りだと思います。共観福音書は、ヨハネの逮捕後にイエスの活動が始まっていますが(両者の活動は重なっていないので競合しない)、しかしこの点はヨハネ福音書の方が正しいでしょう。両集団は一時期ライバルの関係にあったのだと思われます。
ヨハネ教団から見ると、この事態は穏やかではありません。ヨハネがバプテスマを授けたイエスが、自分たちの仲間を引き抜いて独自の教団を始めたというのです。どんなに師匠のヨハネ自身がアンデレともう一人に対してイエスに従うようにと勧めたとしても、ヨハネの弟子たちは面白くありません。さらに、ヨハネよりもイエスの方が人気を得ていくようになり、逆にヨハネ教団に人が来なくなっている、しかも同じ儀式であるバプテスマをしているというのですから、ますます面白くありません。「本家」ないしは「元祖」ということで言うなら、ヨハネがバプテスマという儀式の「専売特許」を主張しても良さそうな場面です。「真似した方が栄えるとは何事か」ということです。
このような緊張感のある場面でその人の本性が現れるものです。ヨハネという人の本質がここで問われています。イエスが栄えていること、そして自分が衰えていること、そのことをどのように考えたら良いのでしょうか。ヨハネは一つのたとえ話によってそのことを説明しました。花婿と花婿の介添人の関係が、イエスとヨハネの関係だと言うのです(29節)。以前に教会が花嫁であり、イエスが花婿であるということを申し上げました。ここでも同じです。イエスを歓迎し取り巻く人々・弟子たちが花嫁、イエスが花婿です。そしてヨハネは、花婿イエスの最も親しい友人である花婿の介添人(ベストマン)であると言うのです。
ブライドメイドとベストマンという人が結婚式にはいます。花嫁と花婿の介添人です。結婚式の間中新郎新婦の近くにいて、何くれとなく二人のお世話をします。わたし自身の結婚式にも、ブライドメイドとベストマンを立てました。三番目の兄に頼んだのですが大変に緊張して右手と右足が同時に動いていたのをビデオで確認して大笑いしたことを思い出します。兄弟の中でも最も親しかったので依頼したという経緯でした。ブライドメイドには親友を選ぶものです。
「介添人」という言葉は一般的には「友人」と訳される言葉です。そして「友人」はヨハネ福音書の鍵語の一つです(11:11、15:13-15)。イエスは弟子を「友人」と呼びます。ここには対等の交わりがあります。主人と奴隷という上下関係ではないのです。先生と弟子という権威主義的関係でもないのです。
バプテスマのヨハネが「預言者」でもなく「エリヤ」でもないということを以前に申し上げました。それは権威主義を持ち出さないためだと説明しました。預言者という偉い人でもなく、メシアの少し格下であり一般人より格上であるエリヤでもない、ヨハネはただの人です。今日の箇所もその通りです。ヨハネとイエスは友人同士なのであって、そこに上下関係は無いのです。
ここに新たな問題が生じます。対等であること、水平であることは良いことです。支配/被支配の関係を乗り越えているから良いことです。しかし、人はお互いが対等であるとなったときに、たやすく競争心むき出しになって比較をしだし、妬んだり、嫉んだり、誇ったり、落ち込んだりしだすからです。対等であるというだけではなく、友人であるということの意味が重要になってきます。
真の対等の友人ならば、友人との間がライバル関係みたいなことになった時にどうするか、それが今日の問題です。ヨハネはイエスが栄えていることを喜びます。そして自分が衰えることを受け入れます。これが友人の正しい態度です。
ヨハネは友人を正しく評価しています。親友というものはそうでなくてはいけません。イエスはこの世の罪を取り除く神の小羊です。救い主・メシア・キリストです。天地創造の時から神の懐におられた、「上/天から来られた方」です。イエスの社会の中の位置づけをきちんと把握しています。
翻って自分自身は何者なのか。自分はメシアではないということをヨハネは知っています。メシアの目撃証人でしかないということをヨハネは知っています。友人のことをよく知り、自分のことをよく知っています。自分の社会の中の位置づけも把握しています。だから、不必要な比較をしないのです。親友というのはそういうものです。適切な距離を保って決して無用のライバル関係にならない構えがここにはあります。ヨハネはイエスに嫉妬していません。むしろ喜びに満たされています(29節)。ヨハネは落ち込んでいません。むしろ自分が小さくなることを受け入れています。
この世での自分と隣人の位置づけを知ること、対等の人間同士の友人の輪を広げること、これがヨハネから学ぶことです。そして友人の幸せを友人の幸せとして喜ぶことです。時にそれが自分にとっては一歩譲ることに見えても、友人を羨むのではなく喜ぶこと、友人の足を引っ張るのではなく応援することが求められています。それが永遠の命を生きることの一例です。
ヨハネは冷静であり寛容です。周囲はヨハネを熱くさせようと煽り立てています。しかしその中でもヨハネはイエスが栄え自分が衰えることは当然であり喜ぶべき事態だと言い切ります。このような冷静かつ寛容な真の友人としての生き方が求められているように思えます。個人の生活においても、家族の中でも、教会の中でも、地域社会の中でも、学校の中でも、職場の中でも、国家間においてもそうです。
「あの人/地域/会社/学校/国には負けたくない」という競争心や寛容ではない考えの源はどこにあるのでしょうか。たとえば欧米に日本が負けてもそんなに悔しくないのに、なぜか中国や韓国に経済的・軍事的・政治的・技術的に追い上げられ抜かれると、妙に悔しく感じるというのはどういうことなのでしょうか。その根っこには明治政府以来の脱亜入欧政策・富国強兵政策が根を張っていて、過去のもろもろの侵略戦争を総括できていないという課題があります。かつて侵略し搾取し貶めた地域や国には負けたくないという心理があるということです。このような心持ちは端的に了見が狭いと思います。また、悪いことをしたという意識がほとんど無いことが根本的に問題なのです。
少し話題が逸れますが沖縄の「慰霊の日」にちなんで一言。明治政府がいち早く侵略したのは琉球諸島とアイヌの土地でした。ですからかつて「三国人」と称して差別した朝鮮半島の人々・中国大陸の人々・台湾の人々だけではなく、ウチナンチュとアイヌの人々への蔑視・差別もまたヤマトンチュでありシャモ(和人)である者たちはきちんと総括しなくてはいけません。冷静に考えて日本は多民族国家です。
ともかく、今日も小さな生き方の提案を一ついたします。それは寛容な生き方です。世間の雰囲気は非寛容です。おおらかではありません。そして心の狭い言い方が好まれています。隣人の成功を素直に喜びません。隣国の成長を素直に喜びません。
教会の使命というのは自らも含め冷静かつ寛容な社会を造り出すことにあると思います。この世は真の友人関係を必要としています。教会の中では無用な比較や競争がない、だから誰もが安心できるという寛容な場を提供したいものです。そして、非寛容な競争に煽られ、くたびれている人を招くことが必要です。その人と友人となり友人の喜びを共に喜べる共同体づくりをしていきましょう。そして非寛容な社会に新しい生き方の提案をしていきましょう。