いつも一緒に ルカによる福音書15章25-32節 2017年12月31日礼拝説教

有名な「放蕩息子の譬え話」のうちの後半部分、上の息子と父親との対話が本日の聖書箇所です。下の息子は「自由」というものについて教え、上の息子は「平等」というものについて教えていると先週申し上げました。本日はそれについて深掘りします。

全体に上の息子はいたって常識的な人物であるとの印象を持ちます。むしろ父親の方が非常識です。そしてその点にこの譬え話の妙味があります。非常識な下の息子よりも、さらに非常識な父親の姿が神の自由な愛、あるいは愛の神の自由が描かれていたのです。この譬え話全体の中で最も常識的なのは上の息子です。だから上の息子と父親の対話に最大の落差があります。

資産家である父親は広い畑を持っていたのでしょう。下の息子が売ってしまった不動産を差し引いても(全体の三分の一)、広大な畑が残っていました。上の息子は畑で労働をしています。下の息子が貧困になって初めて畑仕事をしたのとは対照的です(15節)。勤勉な二代目です。現場の苦労も知っています。彼は日々の労働のことを、「あなた(父親)の奴隷/僕となる(ドゥーレウオー)」(29節)ことと考えています。岩波訳は「奴隷奉公してきた」と訳します。奴隷/僕となるという動詞は、「僕たち(ドゥーロス)」(22節)と対応しています。上の息子は、父親の僕と自分を同一視しています。

彼は家父長制度の中の優等生です。それは、最初に生まれた男性優位の上下関係が基本の秩序です。長男の上に立つ者は父親か祖父しかありません。父親と長男の関係は、主人と奴隷の関係にもなりえます。家の中の序列一位と序列二位の関係は、その他の人々の関係にも影響します。全ての構成員はピラミッド型の上下関係のどこかに位置づけられます。男性が女性よりも上であり、年長者が年少者よりも上であり、直系の者との血縁上の距離が上下を決めます。兄が持つ弟への蔑視と敵視の根元に家父長制があります。「自分が父親の僕であるように、弟も自分の僕であるべきだ」という考えが兄にはあります。

兄は弟の帰還を知ります。そして父親が破格のお祝いを弟のためにしており、乱痴気騒ぎを繰り広げていることを知ります(2627節)。当然兄は怒ります。絶対権力者の父は意外にも兄を叱らずに、ただなだめようとします(28節)。「なだめる」は、ギリシャ語のパラカレオーという動詞です。「励ます」という意味も、「慰める」という意味も持ちます。教会にとって重要なのは、この言葉が「宗教的勧告(奨励)」という意味で使われ続けたという歴史です。

上の息子の言い分はこうです。「自分はずっと奴隷奉公をしてきた。父母を敬えとの律法を守ってきた。忠実なわたしのための祝いを一度もしてくれなかったのに、不実な弟のためには度を越した祝いをする。これは不公平ではないか」(2930節)。この怒りは至極もっともです。

父親の言い分はこうです。「不公平ではない。お前は常にわたしと共にいた。今わたしに残されている財産の全部(三分の二)は、将来お前に相続される。わたしも律法を守っている。弟は共にいなかった。死んでいたのに復活した。滅ぶべき存在が見出された。馬鹿騒ぎも当たり前だ」(3132節)。今ひとつ説得力に欠ける勧告です。父親は勤勉であることの価値を不当に低く見積もっているように思えます。もしも公平・平等に扱うのならば、兄息子と一緒に毎日パーティーを主催しなくてはいけないのではないでしょうか。

わたしたちの常識が揺さぶられています。特に不平等な社会における平等とは何かが問われています。読み解きの鍵は「子ども」という言葉にあります。

実は、この譬え話には三種類の「子ども」という言葉が用いられています。パイス(26節)、フイオス(11131921242530節)、テクノン(31節)の三つです。それぞれヘブライ語に遡れないこともありません(ナアル、ベン、イェレド)。ただしイェレドという単語はこの譬え話では使いにくい言葉です。おそらくイエスが語った時点では、ナアルとベンしか用いていないところを、ギリシャ語を第一言語とするルカやルカの教会が三種類に「子ども」という単語を使い分けたと推測します。

譬え話の語り手は、前半と後半とで巧妙に言葉をずらしています。「僕(ドゥーロス)」(22節)を、「僕(パイス)」(26節)と言い換えます。ヘブライ語ではどちらもナアルという単語になりえます。その辺りを意識して新共同訳では同じ「僕」としたのかもしれませんが、ギリシャ語では別の単語です。パイスの第一の意味は「子ども」です。一種類目の「子ども」です。

パイスは男の子も女の子も指します。この言葉は新約聖書に24回登場しますが、マルコ福音書には登場しません。同様にギリシャ語が不得意なヨハネも1回しか用いません。ギリシャ語を得意とするルカ文書に集中しています(ルカ9回、使徒5回)。このパイスを家の召使いたちに用いることで、「男女の奴隷をも家の主人(二人の息子の父親)が子どもとみなしている」ということを、話者はさりげなく示しています。

二種類目はフイオスです。「息子」という意味の男性名詞。ヘブライ語ベンの訳語です。この言葉は、新約聖書に382回も登場する頻出単語です。なぜなら、一般名詞でもあり、「神の子」や「人の子」という神学用語でもあるからです。この譬え話の中では、「息子」(111319212430節)と翻訳されたり、訳出されなかったりしています(25節「兄の方」)。

フイオスという言葉の使い方で重要なことは、誰の息子であるかです。ギリシャ語は日本語と異なり、まめに人称代名詞を付ける癖があります。新共同訳聖書で省かれがちなその部分をあえて訳出すると、次のようになります。「あなたの息子と呼ばれる資格はありません」(21節)。「わたしのこの息子は死んでいたのに生き返り」(24節)。「彼の(父親の)上の息子は畑にいたが」(25節)。「あなたのこの息子が娼婦と一緒に」(30節)。

譬え話は冒頭から父親に二人の息子がいたと主張しています(11節と25節)。父親の発言も二人とも息子という立場で一貫しています(24節と31節。31節については後述)。下の息子は、息子の地位を失ったと勘違いしていました(21節)。実は、上の息子も同じ勘違いをしています。この勘違いはむしろ常識です。父親だけが非常識にも、下の息子をずっと息子の地位に留めているのです。上の息子は、そのことに抗議して皮肉を言っています。「あなたのこの息子」という兄の発言は、「わたしのこの息子」という父の発言をもじった批判です。「弟を息子とみなし続け依怙贔屓する父がおかしい」と言いたいための修辞です。二人の息子を公平に扱ってほしいという抗議は、自分は息子として扱われていないという不満として噴出しています。ならば家に入るものか、と。

父親の反論はさまざまな角度からなされています。三種類目の「子ども」がここに登場します。「子よ」(31節)と訳されているテクノンです。元来のイエスの言葉では、ベンというヘブライ語に人称代名詞が付くベニーという形で、「わたしの息子よ」だったと推測できます。「あなたの息子であることを辞めたい」と主張する上の息子にも、父親は、「いや、あなたはわたしの息子である」と宣言します。人は神の子であることを辞めることはできません。

このベニーを、ルカとルカの教会は人称代名詞を抜かした中性名詞テクノンのみにしました。中性名詞ですから息子か娘かを問わない形です。テクノンは全部で99回登場しますが、ルカ文書では18回(ルカ14回、使徒5回)という頻度です。著しいのはパウロの手紙です。真正の手紙の中でパウロは24回もテクノンを用いています。特にルカの出身教会であるフィリピ教会あての手紙でキリスト信徒のことを「神の子(テクノン)」と呼んでいます(フィリピ215節。なおローマ8161721節も参照)。上の息子のような発想になりがちなすべての教会員に向けて、ルカはイエスの言葉にパウロの言葉を被せて二重の意味を込めていることが分かります。「あの人が居るなら自分はこの交わりから出る」などと言わないものです。自分が神の子であることも、隣人が神の子であることも否定できないからです。

別角度からの勧告もあります。父親から見て誰の息子かだけが問題ではありません。誰があなたの兄弟/姉妹かという問いかけも大切です。兄息子の皮肉を父は切り返します。「あなたのこの息子」と言うが、「あなたのこの兄弟」とも言えるのではないか(32節)。24節「この」、30節「あの」、32節「あの」は全て同じフートスという指示代名詞です。同じ文脈なので同様に理解します。すると弟は近くに居ることになります。父の切り返しには「あなたの兄弟はどこにいるのか」という神の問いがこだましています(創世記49節)。下の息子は「あなたはどこにいるのか」という問いを反芻していたことでしょう(創世記39節)。ここに兄弟が居る。兄弟となれ。平等を成り立たせるためには連帯が必要です。家の「僕/子ども(パイス)」も父親に同調しています。「あなたの兄弟が来た。あなたの父親が肥えた子牛を屠った。なぜなら・・・」(27節)。僕には同じ家に住む「神の子」としての連帯感があります。

さらに別角度。父親は律法の問題性に触れています。「残り全部がお前のものということは、そもそも下の息子はお前の半分しか相続できないということだ。ましてや女性たちは相続できない。この法体系が不平等で偏った仕組みなのだから、逆側に肩入れして依怙贔屓するのは当たり前ではないか」。上下・支配が温存されている世界で平等を目指すとは低いところを高める努力です。神の普遍的な愛は、偏向が横行している世界の中では、偏愛という形をとるからです。テクノンという中性名詞は家父長制を撃ちます。

関連して父親の発言は救いとは何かということにも触れています。それは神と共に居続けるという安定です(31節)。興味深いことに、ある程度の不満があっても兄息子は救われ続けています(未完了過去)。神と人にはある程度の距離があります。同じように人と人にもある程度の距離が必要です。距離の無い主従関係を父親は求めていません。それはこの家のルールでもないのです。

救いは距離を保ちながらも一つの「家」(25節。ギリシャ語オイコス、ヘブライ語ベト)の中にいることに譬えられます。この「家」は、この世界に横行している家父長制的で庇護主義に基づく家制度、家族、擬似家族とは異なります。houseでもhomeでもfamilyでもありません。ルカはあえてパイスやテクノンを用いています。それによって男女の僕たちも、二人の息子も、またここに登場していない娘たちも、すべて「神の子」とされています。非常識かつパーティー好き。この世界の長男優位の秩序をゆるがせにするジェンダーフリー。奇妙な父親を中心にして座り、距離を保って食べて祝う交わりに安定と救いがあります。ここはベテル・神の家(創世記2819節)、教会の原型です。

今日の小さな生き方の提案は、困っている人の救済に「ずるい」と言わない品位を保つことです。逆に、力を濫用している人の横暴にこそ「ずるい」と言うべきです。それこそ聖書の示す平等です。そのことが体現される礼拝を続けていきましょう。それは神の子同士が連帯感をもって等距離で神を囲む晩餐という祝宴です。この礼拝という交わりに救いがあります。全ての者に、神は「この家に入ろう」と慰め・励まし・宥め・勧めています。