いのちが回復されて ルカによる福音書13章10-17節 2023年11月12日礼拝説教 村上牧師

今日の聖書箇所は、他の福音書(マタイ、マルコ、ヨハネ)に平行記事はなく、ルカ福音書にのみ記録されている物語です。ルカ福音書が書かれたのは、教会に非ユダヤ人のメンバーが増えてきて、時代的にもキリスト教をローマ帝国という広い世界に適応させていく必要に迫られていた時でした。ルカのかかわっていた教会は、ユダヤ教の律法の枠を超えてキリスト教会としての新しい信仰共同体を目指していたと考えられます。

今日選んだ聖書箇所の前半10~13節は、18年間腰が曲がったままの女性が安息日にイエスにいやされた物語。後半14~17節は、モーセの十戒の第4戒(出エ20:8~11)、安息日律法をだいじにするか、しないか、そもそも安息日をだいじにするとはどのようなことかということが書かれています。

10節:安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。

イエスはユダヤ人であり、ユダヤ教の中で育ちましたから、ユダヤ教の会堂で教えていたのはごく自然なことです。しかし、イエスは、律法を行うことによって救いが得られるというファリサイ派の歪曲された律法主義を壊し、律法は人を生かすためのものであるという律法本来の意図を回復しようと改革に取り組んでいました。

11節:そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。

ギリシャ語の聖書では、「すると、見よ、一人の女性」という語順で書かれています。岩波訳は「すると見よ」で始まっていますが、新共同訳聖書をはじめ日本語の聖書のほとんどは、「見よ」が省かれています。しかし、福音書記者が「見よ」と聞き手にまずこの一人の女性に注目することを促していることに大切な意味があるように思います。イエスはすべての人に寄り添ってくださる方でありますが、中でも特に小さくされた人や、差別され社会から排除されている人、弱い立場に置かれた人にこそ目を留めて寄り添い歩まれた方であるからです。ルカは、腰が曲がったままのこの女性の痛みが単に身体的なものではなく、18年もの長い間、病の霊に取りつかれている者とされ、差別され疎外されてきた苦悩でもあると見ているようです。そして、この女性は神の祝福から外されている存在でもなく、身体は不自由であっても決してかわいそうな存在ではないと見ているように思えます。

さて、皆さんは、腰が曲がったままの女性にどのようなイメージをもつでしょうか。わたしは、自分の母が高齢になって腰が曲がり、家の中を歩く時に体をまっすぐにすることが難しく、両手を両ひざに乗せて歩いていた姿を思い浮かべておりました。横田幸子さんの本に、「18年間も『腰の曲がった女』とはどういう人なのでしょう。ごく普通にイメージしてしまうのは、腰が曲がってしまったおばあさんの様子だと思いますが、生まれながらにして、と読めば花の18歳ですし、中途からとすれば働き盛りでしょう。いつ頃、どんな理由で、そんな状態になったのかは明らかではありません」。この言葉に、わたしはハッとしました。この物語の女性を、10代の終わりの若い人や、働き盛りの人のイメージで読んだことがなかったからです。若い人には若い人の、働き盛りの人には働き盛りの人の、高齢の人には高齢の人の、それぞれの年代に特有な悩みやしんどさがありますから、この女性をどういう人のイメージで読むかによって読み方が変わってくるのではないかと思うのです。この物語の女性が、いつ頃、どんな理由で、そんな状態になったのかは分かりませんが、自分の固定観念で読む読み方から解放されて自由に読むことが大切だと気づかされています。

12節:イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、

13節:その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。

絹川久子さんは、12節を「女性よ、あなたはあなたの病気からすでに解放されている」と、岩波訳では「婦人よ、あなたは〔これで〕あなたの病弱さから解き放たれたのです」と訳しています。二つの訳には微妙な違いがありますが、共通していることは新共同訳で「病気は治った」と訳されているところを解放された(すでに解放されている)と訳していることです。新共同訳では、12節と16節のイエスの言葉も、14節の会堂長の言葉もすべて「治す」となっています。しかしギリシャ語の聖書では、イエスの言葉は「解放」という意味の言葉、会堂長の言葉は「治す」という意味の言葉で、明らかに違う言葉が使われています。にもかかわらず、新共同訳はすべて「治す」になっていますが理由は分かりません。イエスは、長年にわたって病気のゆえに差別され、疎外されてきたこの女性に「あなたはあなたの病気からすでに解放されている」と、苦悩からの解放を宣言し、彼女の上に手を置かれたのです。あなたは決して悪い霊にとりつかれているのではない、神の祝福から外された者でもない、あなたは神に祝福されているということを、言葉と行いで示されました。すると女性は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した(賛美し続けた)と書かれています。

ルカ福音書で、女性がイエスにいやされた物語は、今日の箇所の他に8章のヤイロの娘と12年間も出血が止まらない女の物語があります。ヤイロの娘の物語では、会堂長である父親のヤイロが娘のいやしを願ってイエスのもとへ行きました。出血の止まらない女性の方は、自らイエスのもとに行き勇気を振り絞ってイエスの服に触れ、いやされました。今日の箇所の女性には、ヤイロのような間に入ってくれる人はなく、自らイエスのもとに行く勇気もなく、ただ黙って会堂に座っているしかなかったのです。長年にわたり腰が曲がったままで疎外されて生きてきた彼女は、何の言葉も発していないので、何を求めていたのか分かりませんが、やはりいやされたいと願って会堂にいたと考えるのが自然でしょう。身体を伸ばすことができないから、少しでも顔を上げ、目を上げてイエスを見ようとしていた。今日もわたしに声をかける人はいないと思っていたであろう彼女にイエスが目を留め、自分の元に呼び寄せたのです。古代ユダヤ教社会において、腰が曲がったままの彼女は病の霊に取りつかれている者とされ、神との関係、人との関係が断絶されていた彼女には大変な驚きです。しかも、イエスはご自分の身を低くして彼女の目線に合わせて手を置き「あなたは病からすでに解放されている」と宣言してくださったのです。イエスによって彼女は苦悩から解放され、神との関係が回復され、自分は神に見放された存在ではないとの確信に至ったのでしょう。彼女の腰はまっすぐになり、神を賛美しつづけたと書かれています。どんなふうに神を賛美しつづけたのでしょうか。聖書にはそのつづきが書かれていませんので、それぞれで考えてみたいことです。

 

14節:ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」

規則は守らなければならないもの、しかし、規則を絶対化することによって、大切ないのちのことがないがしろにされていく現実。このような現実は、わたしたちの日常においてもあることです。

ルカには、安息日にいやされた人の物語が4つ書かれています。4章31~37節、6章6~11節、13章10~17節(今日の箇所)、14章1~6節です。ここで4つの物語を読むことはできませんので後から読んでいただければと思いますが、4章、6章、14章は、男性がいやされた物語で、13章だけが女性です。読み比べると、明らかなのは、男性がいやされた場面には、周りの人からの直接のクレームがないのですが、女性がいやされた場面にのみ周りからのクレーム、つまり会堂長からのクレームがあるのです(13:14)。しかも会堂長は、女性に直接に言わないで、聞こえよがしに群衆に言います。「働くべき日は6日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない」と。現代に生きるわたしからすれば、言いたいことがあるのならわたしに直接言ってくださいと言いたくなるような場面です。しかし、ここでも女性は黙っています。この女性は「神を賛美しつづけた」と書かれているだけで、この物語においては最初から最後まで黙ったまま。安息日にいやされた男性たちと女性への周りの反応の違いは、家父長制における男性優位の考え方によるものなのか。ルカは女性の伝承を豊かに取り上げて女性を引き上げているようであるが、やはり女性に従順を求めているのか、いろいろと考えさせられます。聖書の時代の限界と言ってしまえば簡単ですが、現代を生きるわたしたちは、イエスの言葉と行動によってあらわされた福音に照らし合わせながら聖書を読んでいきたいものです。

14節の会堂長の言葉にイエスは応答します。

15節:「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。

16節:この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」

16節は、アブラハムの娘であるこの女性は、18年間もサタンに縛られていたのだから、安息日に彼女がその束縛から解かれるのは当然ではないか、と読みたいと思います。律法は本来人のいのちを生かすためのものであって、律法を行うためにいのちがないがしろにされたら、それは神の意思に反していることです。

ここで注目したいのは、イエスがこの女性を「アブラハムの娘」と呼んでいることです。アブラハムの子は多くの聖書箇所に出てきます。ちなみに、ルカ19:9では、徴税人ザアカイがアブラハムの子と呼ばれています。アブラハムの娘は、聖書全体を通してここ1箇所にしか出てきません。16節の言葉が生前のイエスに遡る言葉なのか、それともルカの編集によるものなのか、はっきりは分かりませんが、ここでは男性と女性が平等にされている点でイエスとルカの一致が見られます。イエスは、この女性をアブラハムの娘と呼ぶことで、この女性もあなたたちと同じ仲間であること、性別を超えてみんなアブラハムの子であり、神の祝福が約束されている存在であると宣言しているのです。

17節:こう言われると、反対者は皆恥じ入ったが、群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ。

今日の物語は、こんにちのわたしたちの社会におけるいろいろな課題を考えさせられる話です。特に差別や偏見、不条理の苦しみの中に置かれている人のことに思いを馳せます。もしかしたらそれは「わたし」のことでもあるのかもしれません。安息日に腰の曲がった女性がイエスとの出会いによっていのちが回復され身も心も伸ばして生きる勇気が与えられたことを聖書から聴きました。わたしたちにも同じ恵みが与えられていることを信じたいと願います。主の日の礼拝でいのちが回復され、遣わされたところでキリストの希望を仰ぎつつ他者と共に日常を生きる。そして喜びはもちろん疲れや悩みやいろんな思いを抱えながら主の日の礼拝へと戻る。礼拝堂であってもオンラインであっても、礼拝から礼拝へ、この循環を生きることが神を賛美しつづけることの一つと言えるのではないでしょうか。