イスラエル男性の宗教指導者(預言者)には一本の系譜があります。前13世紀のモーセ、次に前11世紀のサムエル、その次に前9世紀のエリヤです。そこから前8世紀に記述預言者たちが登場し、自分たちの預言を本にまとめていきます。それらが弟子たちの編纂を経て聖書に収められていくのです。エリヤは本を書いていません。しかしその強烈な行動から、彼の弟子エリシャや、エリシャの「預言者学校」の者たちによって言行が書き留められ、列王記を書いた人々に手渡されたのでしょう。
本日の箇所に至るまでのエリヤの言動について振り返ります。北イスラエル王国での出来事です。オムリ王朝のアハブ王は、先進国フェニキア出身の妻イゼベルによって国に富をもたらしました。フェニキアはフェニキア文字を発明し地中海貿易で栄えた国です。富める北王国は急速にイスラエルらしさを失います。アハブ・イゼベル夫妻は王宮への権力の集中を志向しますが、古き良きイスラエルは部族社会のような自治を志向しています。そもそもソロモン流の中央集権が嫌で、北の十部族は北イスラエル王国を建国したのでした(前922年)。フェニキアにも広く行き渡っていた「バアルを主神とする神々が豊穣をもたらす」という多神教神話が、「イスラエルにとってヤハウェのみが神である」という素朴な信にとってかわります。この状況下で、非常に保守的な主張をもって預言者エリヤ(私の神はヤハウェの意)が登場します。「ヤハウェのみが神である。王も民もここに立ち帰れ」。
預言者エリヤはアハブ・イゼベル夫妻を真っ向から批判し、いささか戯画化された「火起こしをする神がどちらかという試合」によって、バアルではなくヤハウェが神であることを証明します。さらにエリヤはバアル神の預言者たちを処刑しました。やり過ぎの感があります。アハブ・イゼベル夫妻は報復を企図し、エリヤを指名手配します。処刑するためです。エリヤは逃げます。逃げ疲れたエリヤは死を覚悟しますが、神はパンと水を与えて彼を生かします。
8 そして彼は起き、食べ、飲み、その食べ物の力をもって四十日と四十夜、神の山ホレブまで行き、 9 そこで洞穴に向かって来、そこで泊まった。そして見よ、彼に向かってヤハウェの言葉。そして彼は彼のために言った。「ここはあなたにとって何か、エリヤよ。」
エリヤはホレブ山に行きます。ホレブ山はシナイ山と同じ山です。そこでモーセは召命を受け(出エジプト記3章)、そこでモーセは四十日四十夜神の言葉を授かり、イスラエルと神の契約が交わされました(同19-24章)。本日の箇所の場面設定は、このモーセの召命とシナイ契約締結の記事を下敷きにしています。エリヤは新しいモーセです。契約締結後、十戒の板をもって山を下りる途中モーセは民の背信を見て激怒します。ヤハウェが神という第一・第二の言葉に反して、イスラエルは金の子牛を拝んでいました。モーセは板を割り、背信者を粛清し、もう一度板をつくり直しました。エリヤの気持ちも似ています。北王国の民は国策である金の子牛をバアルの神として拝んでいます。最初は王権に対して勇ましく対決し、背信者たちを粛清しました。しかし今や臆病になって逃げ回るエリヤ。モーセになれなかったのです。
召しを棄てかけたエリヤを生かし、モーセの召命の場所に連れ、ヤハウェは問います。「ここはあなたにとって何か、エリヤよ」(9節)。「ここで何をしているのか」(新共同訳)、「なぜここにあなたはいるのか」(JPS)など翻訳は揺れています。含蓄のある言葉です。「あなたはどこに」(創世記3章9節)や「あなたの兄弟アベルはどこに」(同4章9節)と並ぶ、神からの根源的な質問です。エリヤにとって「ここ」は何であるのか。殺害する者から逃げてきた場所であるのか、命を生かす神に出会う場所であるのか。仮の宿であるのか、永住する場所なのか。召しを棄てる場所であるのか、新たに召しを受ける場所であるのか。神はエリヤのために問います。
10 そして彼は言った。「私はヤハウェ万軍の神に熱心であり熱心であった。というのもイスラエルの息子たちはあなたの契約を棄てたからだ。彼らはあなたの諸祭壇を切り倒した。また彼らはあなたの預言者たちを剣で殺し、私、私だけが残され、彼らは私の全存在を取るために求めた。」
エリヤは神の質問にうろたえます。そしてある種の言い訳をし始めます。自分がいかに熱心であったかを述べます。そして背信者たちを咎めて、「あの人たちが悪いのだ」と言い募ります。アダムが、神の創ったエバのせいで「実」を食べてしまったと言い訳している姿に似ています。エバのせい、神のせいだと。「神との契約を棄てたのは彼らであって、私ではない。しかも彼らはあなたの預言者を私以外全員殺す恐るべき不届き者だ。ここに逃げて来て何が悪い。あなたに熱心であった結果なのだからあなたが何とかしろ」。この言い分は不正確です。実はオバドヤという良心的官僚が、ヤハウェの預言者たちを百人も洞穴に匿って食料を与えて救っていたからです(18章4節)。エリヤだけが残されたのでもなく、全てのイスラエル人が不届きな背信者なのでもありません。全体に高飛車な発言です。そして自らの虐殺行為には一切触れていないという点で、不正直な発言でもあります。
人は図星を衝かれるとうろたえ本心が暴露されます。カルメル山の英雄エリヤは、ホレブ山で丸裸にされます。みっともない言い訳しか出てこない成人男性、ただの人です。それが神の前に立つということです。全存在がばらばらに腑分けされ、腹の中まで暴露されます。
11 そして彼は言った。「あなたは出て行け。そしてあなたは山の中にヤハウェの前に立て。」そして見よ、ヤハウェは渡り続ける。そして大きくかつ強い風が山々を切り裂き続け、またヤハウェの前に砕き続ける。風の中にヤハウェはいない。そしてその風の後に地震。その地震の中にヤハウェはいない。 12 そしてその地震の後に火。その火の中にヤハウェはいない。そしてその火の後に小さな沈黙の声。
エリヤの醜い部分がすべてあからさまになった後、神は命令しました。「洞穴から出て行き、ヤハウェの前に立て」。この言葉は、洞穴の中に神がいなかったことを暗示しています。エリヤが聞いていた神の声は、洞穴の外からの呼びかけだったのです。復活のイエスの物語を思い起こさせます。墓穴の中へと入り主イエスを探すマリアに対し、墓穴の外からイエスは呼びかけ、マリアは振り向いて(墓穴の外へと向かって)イエスにすがりつきます。「イエスはここにはいない。彼はよみがえられたのだから」。
洞穴は神との出会いの着手の場所ですが、しかし本格的な神との出会いは洞穴の外です。洞穴は生命の一時避難所ではありますが、しかし、本格的な生命の復活は洞穴の外で起こります。このことは「教会とはどのような場所なのか」という問いに対する答えです。教会は洞穴・墓穴のようなものです。教会で一週間の疲れが癒されますが、月曜日からの生活へと出て行かなくてはいけません。教会でイエスの殺害が記念されますが、そこにイエスはいません。
だから洞穴・墓穴としての教会という事柄は、「わたしたちの日常生活において神はどこにいるのか」という問いに直結します。派手な出来事の中に神はいません。大きく強い風(ルアハ)が、山を切り裂き、岩を砕き、轟音を立てています。これは神が渡り続ける行為を指すのですから、そこに神がいるという表現です。こういった表現で「そこに神がいる」ということを婉曲に表現するものなのです。シナイ山における光景がまさにそうです(19章16-19節)。
ところが本日の箇所はそのイスラエルの常識を裏返します。そこに神がいると思われるような派手な出来事の中に、神はいないと言うのです。風の中、地震の中、火の中に神はいない。これはシナイ契約をひっくり返すような言葉です。シナイ山で地震や雷鳴、密雲の中、モーセたちは神を見て食べて飲んで契約を結んだのですから。また火の中に神はいないという証言は、モーセの召命すらひっくり返すような言葉です。モーセは火の中に神を見たからです。
火の後に、小さな沈黙の声がありました。この声こそが神の声です。実に示唆深い描写です。翻ってわたしたちの日常生活を考えてみましょう。ほとんどの日々は平凡です。驚天動地の出来事がそんなに起こるわけではありません。神はどこにいるのでしょうか。正に小さなわたしたちの日常の中に、沈黙の声として神はおられます。
エリヤという人は英雄的行為をするがゆえにかえって日常の信仰を見失っていたのでしょう。「奇跡の中に神がいる。奇跡を行うわたしが神」という具合に自己肥大を犯していたのでしょう。空から雷を落として火起こしをするという派手な行為の陰で、彼の内部が破裂していました。神はエリヤを再教育しています。「何事もない毎日の中にこそ、神はあなたと共にいる。共に居ることが分からないほど密接に、神のルアハ(霊/息)はあなたの中に住んでいる。神のルアハ(風)は洞穴の外に音も立てないそよ風のようにいつも気持ちよく吹いている。その風にあたって毎日を生きよ。洞穴から出て行け。」
13 エリヤが聞いた時に彼は彼の顔を彼の外套で覆うということが起こり、彼は出て行き、その洞穴の入口(に)立った。そして見よ、彼に向かって声。そして彼は言った。「ここはあなたにとって何か、エリヤよ。」
エリヤは自然に釣られて洞穴の外に出ます。モーセのように顔を覆って神の前に立ちます。神はあの根源的な問いをもう一度発します。「ここはあなたにとって何か、エリヤよ」。もう一往復のやりとりを経て、ヤハウェ神はエリヤに新しい使命を与え、弟子エリシャを与えます。ここからエリヤの活動の質が変わります。一匹狼の風来坊が、弟子を指導し、預言者たちの仲間を持つようになります。生活臭のするものへと、隣人のための活動へと転換していきます(21章)。地味ではあるけれども神と隣人と共にある日常生活こそが大切であり、その中で呻き苦しむ隣人が発する「沈黙の声」こそが神の声である。自分の大声が神の代弁なのではない。洞穴での自己弁明ではなく、洞穴の外で声を聞くことに新しい生き方がある。「ヤハウェのみ」を声高に訴える奇跡行者エリヤは、奇跡の起こらない現実生活の中で「ヤハウェのみ」を実践する信仰者へと変えられて行きます。
今日の小さな生き方の提案は、エリヤを再教育した神に従うということです。実はエリヤには召命記事がありません。ある日突然預言者を自称して王の前に立って「これが神の声」と王を批判したのでした(17章)。神はそのような暴発的なエリヤを後ろから支えてきました。エリヤ自身が限界を感じるまで。「もう無理だ」と自暴自棄になったエリヤをホレブ山まで導き、人生をあきらめないで立ち上がるように神は救い出します。「今までの生活が無茶だったのだから、もっと地に足をつけて生きなさい。洞穴から出て隣人となりなさい。大きな声を出さずに小さな声を聞きなさい。それがあなたの復活となる。」
今私たちは洞穴の中にいて、外から聞こえる神の声に耳を澄ませています。神は私たちに問うています。「ここはあなたにとって何か」。神のそよ風が吹く日常生活へと出て行きましょう。地味かつ素晴らしい、神のいる毎日へと。