この方が世の救い主である ヨハネによる福音書4章27-42節 2013年7月14日礼拝説教

火曜日から水曜日にかけて年中組のお泊まり保育があります。一泊二日を幼稚園で過ごすことが、子どもたちの成長に役立つようにと祈っています。このお泊まり保育が、年長組の名栗キャンプの二泊三日につながり「雪の保育」の一泊二日につながっていきます。こうしてみると、少しずつ子どもたちが親元を離れる訓練がなされていくことが分かります。

今日の聖書の箇所から、お泊まり保育のもう一つの大きな意味を考えさせられます。それは泊まるということと信頼ということが、関連を持っているということです。泊まる人から見れば、信頼のおける場所にしか泊まろうと思いません。泊まらせる人から見れば、信頼できる人しか泊まらせようと思わないのです。また、複数の人で泊まる場合には、お互いに信頼のおける人々で泊まり合わせるものです。

そのことは結果として、お互いの信頼を深めていくことになります。泊まる人・泊まらせる人・相部屋の人、お互いがお互いを人格的によく知り合うようになるからです。いわゆる「同じ釜の飯を食う仲」となるのです。お泊まり保育は親離れだけが教育目標ではありません。もちろん親離れと密接に関係しますが、信頼できる場・信頼できる人・信頼される自分を発掘し成長させることに、もう一つの目標があるはずです。より丁寧に言えば、自宅以外に信頼できる場・親以外に信頼できる人々・よく知られていない人から信頼される自分を発掘し成長させるということです。

同じことが今日の聖句で起こっています。39-42節です。多くのサマリア人がイエスに信頼を寄せます。そこでイエスに「泊まってください」と頼みます。イエスとその一行は二日間宿泊します。するとさらに多くの人が信頼のネットワークの中に入ります。サマリア人たちは、自分の目で見、自分の耳で聞き、同じ釜の飯を食いながら、自分の頭で考えてイエスとその仲間たちがどのような人々であるかを人格的に知ったのです。ここに泊まる人・泊まらせる人・相部屋の人のお互いの信頼が深まり広がっている様子が伺えます。宿泊や一宿一飯の持っている大きな力です。

サマリア人は最初どきどきしたと思います。ユダヤ人に差別されていたからです。まさかサマリア地方を通るユダヤ人がいるとは思っていなかったわけです。確かに良い人かも知れない、メシアかもしれない、救い主かもしれない、しかしもし宿泊を断られたらどうしようと、はらはらしていたかもしれません。

以前紹介した映画で、もう一つ思い出す場面があります。それは被差別部落の家に家庭訪問として小学校の教師が来る際の場面です。被差別部落の家では教員に出すお菓子がない、それほどに貧しかったのです。それで家にあったなけなしの砂糖を出すのですね。それを教師が喜んで舐めるという場面があります。親も子もはらはらしているのです。本当に担任の先生が家に来てくれるのか、この家を見てどう思うのか、この砂糖を喜んでくれるのか。そして結果はとても良かったのです。教員は心から喜んでおもてなしに感謝します。こうして信頼関係が深まり広がります。

サマリア人はイエス一行が快く宿泊してくれたことに感謝したと思います。「世の救い主が我が家に来た」という言葉はお世辞でも何でもありません。「次は我が家に泊まって欲しい」と引っ張りだこになった結果が、二日間の寄り道滞在となったのではと推測します。

実はイエスは同じ行いをすでにしていました。1:38-39(164頁)をお開きください。最初の二人の弟子はイエスの宿泊場所に共に泊まることによって弟子となりました。別の日本語に翻訳されていますが、この「泊まる」は4:40「とどまる」「滞在する」と同じ単語です(ギリシャ語メノー)。ですから、二人の弟子と同じように、多くのサマリア人が4章という極めて早い段階でイエスの弟子となったとヨハネ福音書は記録しています。この後、イエス一行にはサマリア人の弟子たちが加わっていると考えて構わないでしょう。このようにして最も早い段階から共に食べ共に飲み共に泊まりながら、イエスは弟子集団を形作っていったからです。こうして信頼のネットワークを広げていった、これを「神の国運動」と呼ぶ学者もいます。この行為を布教ないしは伝道と呼びます。

イエス流の布教・伝道には二つの特徴があります。一つは、泊めてくれる相手への信頼です。イエスの弟子たちは、今日で言う「ホームレス」です。この人たちは失業者です。そして放浪の旅を続け、多くの場合は野宿をしていました。枕をするところが無い状態が普通でした。だから泊めてくれる人の信頼をあてにして旅をしていたのです。

おそらくイエス一行はこざっぱりした格好の小ぎれいな集団ではないでしょう。何日もお風呂に入っていないで旅をしている集団です。やっと親切な宿泊先を見つけたら、すぐさまお互いに足を洗い合う人々の集まりです。街中ではあまり良い顔をされない集団です。だからこそサマリア人と分かり合える部分があったのです。だからこそ、罪人と呼ばれ蔑まれている人・徴税人・娼婦から信頼される集団だったのです。

こうして共に放浪する仲間が増え、そして同時に宿泊場所を提供する仲間が増えます。この後何回もサマリア地方を通るイエス一行は今回泊まらせてもらった家々を信頼して、次も泊まるでしょう。そしてさらに新しい宿泊先、信頼のネットワークを広げていくのです。

もう一つの布教・伝道の特徴は、神を信頼しているということです。今日の箇所は、布教される相手・伝道される人々を収穫物にたとえています(35-38節)。これ自体は人間を物扱いしているという点で失礼です。自分は刈り入れる人であり、相手は刈り入れられる物であるというたとえは、およそ平等ではありません。また、相手を自分の目的の対象としているという点でも失礼です。隣人は自分の目的のために存在するのではありません。他人の人生は、自分に布教されるための人生ではありません。本来自由であるはずの他人の人生を、勝手に枠づけている点で失礼です。

これらの失礼は他の聖書の箇所にもいくつかあります。古代の文書の限界として批判されるべきです。今も成長し発達しつつある「人権」(平等や自由)という考え方から批判をすべきです。つまり、現代に生きるわたしたちは、上からの目線で隣人を捉えること(非キリスト者=救われていない劣った人、救われるべき対象)、そしてそれを基本にして布教・伝道することは不可能なのです。だから上記のようではない解釈をする必要があります。

「種を蒔く人」・「麦を刈る人」とは、一体誰なのでしょうか。もしどちらもイエスの弟子であるとすればどうでしょうか。「蒔く」ということはキリスト教教理という「種」を伝えること、「刈る」ということは「麦」である信者を増やすことということになります。これは先程の失礼を助長させるだけであり、了見の狭い解釈です。ここではそれを採りません。

そうではない解釈がありえます。「種を蒔く人」を神と考え、「麦を刈る人」をイエスの弟子と考えることです。その場合には、「種」を神の子イエス・キリストと考えるということにもなります(12:24参照)。さらに言えば、「麦」を神の子である隣人と考えるのです。

38節に「あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした」とあります。ここで弟子たちは種蒔きを一切手伝っていないことが分かります。労苦したのは複数でありかつ一人である他者です(37節「一人」、38節「他の人々」)。それを神と聖霊と考えます。

霊である神は、すべての人にイエス・キリストという永遠のいのちの種を与えています。ユダヤ人にだけではなく、サマリア人にもギリシャ人にも、この世界のすべての人に、永遠のいのちの種は与えられています。そのために神の独り子がこの世界に宿泊したのです(1:14「宿られた」ギリシャ語メノー)。言い方を換えれば、すべての人には人権が与えられています。神から「神の似像」というお墨付きが与えられ、神の子とされています。その人の人種・性・国籍・個性・しょうがいの有無・病気の有無・職業・住所・出身・能力などに一切関わりなく、すべての人は平等な人の子(人類)であり神の子です。

少し抽象的な話ですが、キリスト信徒はイエス・キリストの十字架刑死を神が麦の種を蒔いたことにたとえます。その時、すべての人に種が蒔かれたと考えます。すべての人の中で種が割れ、芽が出たと考えます。二千年前の十字架と復活を、過去の人にも将来の人にも当てはまる形で、全世界分の麦の種が死に麦の芽が出たことと考えます。神が種を蒔いたと信じているわけです。

では布教・伝道とは何をすることになるのでしょうか。それは神が隣人に蒔き、すでに芽が出ているイエス・キリストに出会うことです。その人の中にすでに宿っている神の子性を教えてもらうことです。尊厳を持つ人間として歩んできた人生を教えてもらい、信者がその中からイエス・キリストに出会うこと、そして信頼関係を築くこと、それが布教であり伝道です。非キリスト者の多くが、すでに永遠のいのちを生きています。自由であって、非暴力であって、寛容であるような生き方を既にしている人はたくさんいます。その人たちの永遠のいのちに触れること、それが刈り入れであり永遠のいのちへの実を集めることです。伝道は人間の努力ではありません。神の労苦への信頼です。

イエスの弟子たちはサマリア人の家に泊めてもらいました。泊めてもらう人が上から目線で相手を収穫物扱いできるわけがありません。むしろ逆に、サマリア人たちから差別の実態を学び、にもかかわらず尊厳を保っている各人の人生に、良い意味の衝撃をいただくのです。この人も同じ人間だと知るのです。決して貶められてはいけません。それならば十字架で貶められたイエスの死が無駄になってしまいます。またこの人も同じ神の子だと知るのです。むしろ尊重されなくてはいけません。そうでなければよみがえらされたイエスのいのちが活かされなくなってしまいます。

先程の映画の家庭訪問の場面をもう一度思い浮かべましょう。実は訪問した教師こそがもっとも多くの恵みをいただいたのではないでしょうか。これが伝道です。「共に福音にあずかる」という出来事です(Ⅰコリ9:23)。

こうしてお互いの信頼が深まります。こうしてお互いに永遠のいのちを生かし合おうとする交わりが生まれます。こうしてイエス・キリストを中心とした交わりに、一人ずつ人が加わっていきます。その人たちは、キリストのおかげでこの世界で生き抜く力をいただいたのです。自分が人の子であり神の子であることに気づいた人なのです。そして生き方を変えて、ある人は放浪の旅に加わり、ある人は放浪の旅人たちをもてなすようになったのです。泊まり・泊まられる信頼のネットワークをつくっていきました。

泉バプテスト教会・いづみ幼稚園が下馬の地でこのような信頼のネットワークをこれからも深め広めていけるようにと願います。それがわたしたちのなすべき布教・伝道です。祈ります。