今日の箇所は、いわゆる「自然奇跡」と呼ばれる分野の物語です。それは自然現象に働きかける奇跡行者としてのイエスを描くという文学です。今までいくつも登場していた「治癒奇跡」とは異なります(4章31-37節、同38-41節、5章12-16節、同17-26節、6章6-11節、7章1-10節、同11-17節)。イエスの伝記には、癒しの記事が圧倒的に多いのです。救い主イエスは医者にたとえられるという主張がそこにあります(4章23節、5章31節)。
それに対して、自然奇跡は数少ないものです。今までの物語の中では、かろうじてシモン・ペトロが弟子となるときの物語に自然奇跡が登場しています(5章1-11節)。漁の専門家である漁師が夜通しかけてもとることができなかった魚を、大工のイエスが指導すると瞬く間に大漁となったという奇跡です。これは、シモン・ペトロの不信仰を諭し、イエスの弟子の心構えを教えるための奇跡でした。つまりイエスへの全幅の信頼です。しかも、イエスが天地創造の神であることを信じるという信頼です。
旧約聖書にも不思議な嵐と凪の物語が記されています。ヨナ書1章(旧約1445頁)においては、神が「海と陸とを創造された天の神、主」と理解され、信じられ、告白されています(ヨナ書1章9節)。天地創造の神が被造物と多様な民族を愛し、自然現象・生態系も司るという信仰告白は、ヨナ書全編を貫く主題です(同2章1・11節、3章7-8節、4章6-11節)。今日の箇所はヨナ書を下敷きにしています。
イエスの弟子は、イエスが天地創造の神であることにも信頼を寄せなくてはいけないという教えが、ここから導き出されます。「あなたがたの信仰はどこにあるのか」(25節)というイエスの弟子たちへの質問は、「天地創造の神への信仰という範囲まで、わたしたちの信仰が広がらなくてはいけない」と教えています。「この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」(25節)。イエスとは誰か。天地創造の神です。そのことを畏敬の念をもって信じることが必要です。
悪く言えば「虚仮威し的な意味」しか汲み取りにくい自然奇跡という分野の重要性はここにあります。神が天地の造り主であり、同じ神が生態系を含む自然環境を保っている方であるという信仰は、現代社会において重要な意味を持っています。現代は創造主への畏れを忘れた時代と言えます。人間は神の位置に自分を据え、自然を強引に従わせています。勝手に「資源」などと名づけ、自分たちのために生態系を壊しています。また、プルトニウムのような自然界に存在しなかった放射性物質まで製造し、それを撒き散らして世界全体に迷惑をかけつづけています。遺伝子組み換え、クローンなどの問題も「神の領域」を侵しているように思えます。一言で言えば「倫理なき科学技術に基づく豊かな生活」が問われています。人間に謙虚さが求められる所以です。
以上のことを頭に置きながら、今日の箇所の内容に入っていきます。この物語もマルコ福音書からの写しです(マルコ4章35-41節)。粗筋は同じです。イエスが弟子に呼びかけて、一行はガリラヤ湖の向こう岸に船で渡ろうとします(22節)。その航海の途中で、嵐に遭遇します(23節)。嵐の中、舟の中でただ一人眠っているイエスを、弟子たちが起こして助けを求めます。するとイエスは起き上がって風と波を叱りつけ、黙らせます(24節)。イエスは弟子をたしなめ、弟子は一連の出来事に驚くという結末(25節)。
マルコ福音書では7節分あった物語を、ルカは適宜修正しながら4節分に短縮しています。ルカ独特の表現に注目しながら、この物語が何を現代に語りかけているかを考えていきます。
一つ目は、イエスは嵐が起こる前に眠っていることです(23節)。マルコ福音書では嵐が起こった後に眠っているように読めます(マルコ4章38節)。ルカは不自然さを感じたのか、イエスの態度が弟子たちに冷たいことを案じたのか、先にイエスが眠っていたと理解できるように書き改めています。このようにマルコ福音書が持っている「無理解な弟子たちとイエスの葛藤」という主題をルカは避けます。マルコでは弟子はイエスを咎めますが(「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」同38節)、ルカはその発言を穏やかに丸めています(24節)。また、マルコにおいては、イエスも弟子をより強い口調で責めます。「まだ信じないのか」(同40節)。この言葉は、弟子に信仰がないことを前提にしていますが、ルカは弟子には信仰があることを前提にしています(25節)。ルカが非常に調和的であることに気づきます。イエスと弟子たちは一つの舟に乗る同志の結束を持っています。
二つ目に、「先生」(エピスタタ)という言葉です(24節)。ルカだけが、弟子からイエスへの呼びかけに、この特別な単語を用います。ヘブライ語の「ラビ(わたしの師)」を翻訳するときには、しばしばギリシャ語「ディダスカロス(教師)」が用いられます。ルカだけは、弟子からイエスに語りかけるときに「エピスタタ」を用います。この言葉の直訳は「親分」「親方」「師匠」です。背中で教える職人のような師弟関係です。この言葉遣いにも、ルカが描こうとしている「神の国運動(旅をしながら食卓を囲んでいくイエス一行の活動)」が現れています。彼ら彼女たちは、苦楽を共にする同志たちです。イエスの教えは言葉を聞くだけでは体得できず、寝食を共にする中で、次第に身についていく類のものです。
この一つ目と二つ目の特徴は、教会とは何かを教えています。教会は古代以来、現在のエキュメニカル運動に至るまで、舟に例えられてきました。ノアの箱舟(多様な生き物が共存する社会)や、イエスが共に乗る弟子たちの舟、この二つの舟を重ね合わせた舟のイメージが大切です。世界の荒海の中に浮かんでいる運命共同体こそが教会の姿です。舟は揺れます。今にも沈没しそうです。外からの危機が教会にはいつもあります。しかし、イエスが中に居るので安心です。イエスは外からの危機を黙らせることができる教会の救い主です。
舟の中も人間社会の常として、いつも分裂の誘惑と危機に遭いがちです。多様な仲間がいるからです。しかし頼れる親分・師匠イエスがいるから大丈夫です。共に過ごすイエスの背中から、生活態度を学びます。無口な親方は、一々事細かに教えません。「ちゃんこは仲良く食え」ぐらいの、ぶっきらぼうな教えです。その中で熱心党とヘロデ党や、ファリサイ派とエッセネ派、ユダヤ人とサマリア人、エルサレム住民とガリラヤ民衆など相対立している者同士が食卓を囲みます。主の晩餐はこの食卓を継承しています。無口な食卓の主の仕草を真似する中で、キリストの徒弟はキリスト者となっていくのです。
三つ目のルカ独特な表現は、「彼らは水にかぶり」(23節)です。この言葉の直訳は、「一杯になる」「満たされる」です。その言葉を、「(水で)満たされる」と考えて、「水にかぶり」と訳したのです。動詞に含まれる主語は複数形なので、単数の名詞「舟」は主語になることができません。どうしても「彼ら(弟子たち)は」と考えざるをえません。「彼らは一杯になる」では、何を言いたいのかが良く分かりません。「彼らは水にかぶり」は苦心の翻訳です。
ルカはこの謎の表現で何を言いたかったのでしょうか。彼らは一杯になり、危機におちいるとはどのような意味でしょうか。マルコを書き写した際に、単に「水で」という単語を書き忘れたのかもしれません。舟を一艘に変えたことを忘れたのでしょうか。あるいは、「危機に陥った時にこそ仲間が近くに寄って気持ちが一杯に満たされた」ということを言いたかったのでしょうか。
「一杯になる」という表現は、ルカの意図を超えて現代日本語と対応しています。それは「イッパイイッパイになる」という表現です。「心がいっぱいになる」は感無量の表現ですが、それとは異なる「イッパイイッパイ」という言い方が最近生まれました。負いきれない困難や負担があり、自分で課題を把握することも処理することもできなくなり、「手や頭がまわらない状態」のことを指します。偶然の一致でしょうけれども、正に弟子たちはイッパイイッパイになっていました。自分たちでは嵐に対処できない、しかもそんな時に頼みのイエスは眠っているからです。よく考えてみたら、イエスが促したので舟に乗り込み、向こう岸への航海は始まりました。それがなければ嵐に出くわすこともなかったのです。そうしてみると、居眠りをしているイエスが憎たらしく見えてきます。怒りの感情は、イッパイイッパイを増幅させます。「親方、親方、(あなたも含む)わたしたちが滅びつつあります」(24節)。弟子たちの言葉に慌てぶりがよく表されています。
これらの舟の中の事態は、慌ただしいわたしたちの日常生活のあたふたぶりと、非常によく似ています。イエスの言葉や聖書の教えを少しでも実践しようとか、他人の助言に従って日常を変えてみようと考え、実行してみたらかえってパニックが生じて、日常が余計に荒んでしまうことがありえます。そのために余計にイッパイイッパイになってしまうことがあるのです。
子育てや、仕事・学業においても嵐は容赦なくわたしたちを襲います。その場合、家庭は嵐にもまれる舟、職場・学校は嵐にもまれる舟です。また市民生活においても、今や過去三回も廃案に追い込まれた「共謀罪」が現代の治安維持法として上程されるという嵐が吹いています。テロ等の準備に合意したとみなされれば御用となるということは、思想信条の自由を脅かす危険があります。信仰をもっているからこその苦労、戦時下のように教会は嵐にもまれる舟になりつつあります。これらはすべて複合し、担いきれないほどの人生の重荷となる可能性があります。
どうすれば良いのか。本日の聖書箇所によれば、極めて逆説的な言い方ですが、嵐に遭った根本原因である世界の創り主であるイエスに泣きつくようにすがることです。しかも創造主への信頼だけではなく、加えて復活の主として信頼することです。眠りから起こされたイエスは、十字架で殺されたけれども神によって復活させられたイエスと重ね合わさります。わたしたちは嵐の中、木の葉のように揺れる舟の中で、ただ一人しっかりと立つことができる方を、自分は土台ごと揺さぶられながらも仰ぐことが求められています。
わたしたちの信仰はどこにあるのでしょうか。キリスト教信仰は、復活への信仰です。イエスを起こした神への信仰は、泥船のような自分の人生を立て直す方が必ず居るということへの信仰です。復活した神の子への信仰は、イッパイイッパイになって心騒がしく過ごすわたしたちを静める方への信仰です。世界の嵐を叱りつけ、わたしの心の内の嵐に命じて、凪に変える方がいることへの信仰です。人生には十字架が多くあります。自分に原因がある苦しみと、自分には責任がない苦しみがあります。しかし、それらの十字架を復活に変える方がいらっしゃいます。この方はどなたなのだろう。ナザレのイエス。わたしたちはナザレのイエスが神の子、救い主であることを信じています。
今日の小さな生き方の提案は、復活への希望で心を一杯にすることです。人生の十字架を復活に変える方への信仰を持つことをお勧めいたします。