はじめに
前回は浸礼者ヨハネの説教と、彼の行うバプテスマの大まかな特徴でした。「あなたたちは悔い改めよ。なぜならその諸々の天の支配が近づいたままだからだ」という説教を語りながら、彼は人々に一生に一度の悔い改めの手段として公開バプテスマを行っていました(2・6節)。その場所はユダヤ地方よりヨルダン川下流流域です。
本日の箇所はヨハネの説教の詳細です。
7 さて彼の浸礼に関して来続けているファリサイ人たちとサドカイ人たちの多くを見た後、彼は彼らに言った。毒蛇たちの子孫たちよ。迫り続けているその怒りから逃げることを誰があなたたちに教示したのか。
ファリサイ派とサドカイ派
紀元後1世紀のユダヤ教の分派については、分からないことが多いものです。ファリサイ派とサドカイ派がある程度反発し合いながらも、「正統」と目され、最高法院の議席を全て占めていたことは知られています。それ以外のグループは政治権力からは切り離されていました。熱心党(ゼロタイ)、エッセネ派、ヨハネ教団などは、議会に自分たちの代表が存在しません。そこで、熱心党は武力革命を志向し、エッセネ派は完全に政治的発言を控え、ヨハネは荒野で声を上げざるを得なかったのです。
ヨハネは遠くからファリサイ派とサドカイ派の男性たちが歩いてくることに気づきました。サドカイ派は立派な祭服を身にまとっています。かつてヨハネ自身も来ていた服です。ファリサイ派は聖句の入った小箱を大きくし、衣服の房を長くしています。これらの人々は服装によって権威を見せびらかし自己肥大しています。「正統」であることを自認している人々に向かって、またユダヤ社会の政治に自分たちの意思を反映できる人々に向かって、彼らの良心に働きかけます。この姿勢は、ガリラヤ地方の領主ヘロデに対しても同じです。ヨハネはエッセネ派のように政治から目を逸らすことをしません。ヨハネは熱心党のように暴力的に政治に働きかけようともしません。彼は政治を動かすことができる人々の着飾った心を丸裸にし、その良心を動かそうとします。
ヨハネはファリサイ派とサドカイ派の人々の胸に刺さる言葉を用います。「毒蛇たちの子孫たちよ」(7節)という呼びかけの言葉は意味深です。毒蛇を意味するギリシャ語エキドナは、ヘブル語ツェファアの翻訳と推測します。ツェファアはイザヤ書11章8節後半に用いられている言葉です。「毒蛇たちの諸々の巣の上に、乳離れされている者は彼の手を置く」(私訳)。世の終わりに救い主によってもたらされる平和を描く場面です。イザヤは相対立する動物が共存しているユートピアを希望しています。毒蛇は乳離れしているぐらいの子どもの天敵です。好奇心に基づき何でも手を突っ込んで探るから、毒蛇に噛まれて死ぬ場合があったからです。
ヨハネは、毒蛇たちの子孫たちに、イザヤ書11章8節後半に示されている毒蛇たちになるようにと勧めています。神の怒りから逃げることは誰もできません。「自分が毒蛇である」という自覚から始めれば、罪を告白しなければならない理由が分かるはずです。
8 それだから悔い改めの適切な実をあなたたちは作れ。 9 そしてあなたたち自身の中で言うことを思うな。わたしたちは父をそのアブラハムを持っている、と。というのもわたしはあなたたちに以下のことを言うからだ。その神はこれらの諸々の石からアブラハムのために子どもたちを起こすことができる。10 さて、すでにその斧がその諸々の木の根に向かって置かれている。それだから、良い実を作らない全ての木は切り倒される。そしてそれは火の中へと投げられる。
【神・諸々の石・アブラハム・子どもたち】
正統的なユダヤ教徒の男性たちの誇りは、アブラハムの子孫であるということにありました。その象徴は割礼です。アブラハムから始まった選民・男性のみに許された通過儀礼です。ヨハネは、これらの無駄な誇りを剝ぎ取ります。無駄な誇りこそが悔い改めにとって邪魔だからです。祭司の服や、衣服に付ける長い房といった権威主義だけが無駄な誇りではありません。ユダヤ民族主義も無駄な誇りです。高いところを削り平らにする必要があります。
「アブラハムが偉いのではない。アブラハムを選びたてた神が偉大なのだ。アブラハムの子孫がより優れた民族なのではない。神はいつでもアブラハムの子孫を起こすことができる。神がすべての民を創ったからだ。そしてすべての民と同様にアブラハムの息子たちも神の裁きの前に立っている。全ての人は罪人として平等だ。」
ヨハネは預言者です。語呂合わせをしながら聴衆の記憶に留める言葉を発します。聴衆の胸に刺し胸に残すためです。四つの単語をヘブル語にまで遡らせれば、ラップのように韻を踏んでいることが分かります。「神(’LHYM:エロヒーム)」・「諸々の石(’BNYM:アバニーム)」・「アブラハム(’BRHM:アブラハーム)」・「子どもたち(BNYM:バニーム)」。旧約聖書の預言者たちの伝統に則って、ヨハネは軽快に説教を語り、聴衆を唸らせます。
ヨハネは血筋・家柄・民族の誇りや宗教的権威によって罪は薄まらないことを指摘しました。むしろそれらの無駄な誇りこそが罪そのものであり、自分自身の罪を深め、悪い実を作ることとなるのです。この点でヨハネの説教は、イエスの説教と重なります。
自分が悔い改め罪から解放されたことを証明するために必要な行為は、ただ「適切な実」(8節)・「良い実」(10節)を作ることだけです。ヨハネは徹底的な成果主義に立っています。「実」とは実行した結果のことです。ただしかし、マタイ版のヨハネはその具体を語りません。何が適切な実を作ることか、良い実を作ることかを細かく示しません。それは個人に委ねられています。この点がイエスと異なります。イエスは、福音を信じること・神を愛すること・隣人となること・互いに仕え合うことを、適切な実・良い実として示しています。
ヨハネの説教を聞いたファリサイ派の者、サドカイ派の者は、いったん宗教的権威を示す諸々の服を脱ぎヨルダン川で心身ともに裸になって、自分に思い当たる罪を神に告白しました。そうして、そのような悪い実を作ることから方向転換をなし、良い実を作る生活を目指して日常生活へと帰っていきました。彼らを動かしたのは切迫感です。
なぜならば、ヨハネによれば諸々の天の支配が近づいたままだからです。「すでにその斧がその諸々の木の根に向かって置かれている」(10節)。ヨハネは終末思想で人々を強迫しました。サドカイ派とファリサイ派の人々さえも、動かされました。彼らはヨハネを殺そうとしません。この点がイエスと異なる点です。正統・政治権力が、ヨハネよりもイエスを危険人物とみなした理由は何だったのでしょうか。そしてわたしたちがヨハネではなくイエスを自分たちの救い主キリストと信じている理由は何なのでしょうか。
11 わたしは、実際あなたたちを、わたしが水において悔い改めの中へと浸す。さてわたしの後に来つつある男性はわたしよりも強い。その彼の諸々の草履を運ぶためにわたしは相応しくないのだが。彼は、あなたたちを、彼が聖い霊において、また火において浸す。 12 その彼の箕が彼の手の中に。そして彼は彼の脱穀場を掃除するだろう。そして彼は彼の麦をその倉の中へと集めるだろう。さてその殻を彼は消えない火で焼却するだろう。
【イエスとは誰か】
ヨハネは、イエスのことを紹介しています。ただしかし、12節に描かれているイエス像は、あまり的中していません。ヨハネは、自分自身の脱穀場・倉と、イエスの脱穀場・倉の二つが併存するように考えていたようです。それぞれの脱穀場で、良い麦と悪い麦の選別がなされ、悪い実を作る麦は殻と共に燃やされ、良い実を作る麦は倉に収められるというような図式です。二人のカリスマ宗教家による信徒の取り合いと信徒に対する厳しい強化育成のような妙な競合図です。ここにヨハネの誤解があります。人間は自分の器以上の器を測ることはできません。イエスは人が人を囲う支配と被支配の図を打ち壊し、寛容な神に基づく相互の仕え合いを「神の支配」と呼んだのでした。
11節には、ほぼ同じ強調構文によって、ヨハネの浸礼とイエスの浸礼の比較対照がなされています。ヨハネの浸礼は「悔い改め」目的であり、イエスの浸礼はそうではありません。これは正しい認識です。「火において浸す」ことは、火の輪くぐりや火渡りをすることではないでしょう。むしろ、ペンテコステの時に、人々に火のようなものが降ったこと、それが聖霊を内に宿すことだったということを示していると考えます(使徒言行録2章参照)。
ペンテコステの時、老若男女百二十人の弟子たちはイエスに対する喪失感を抱えて共に祈っていました。終末の裁きに怖がっていたのではありません。復活者は寛容にも弟子たちの卑劣な裏切り行為一切を一方的に赦しました。しかしその復活者もまた昇天しいなくなりました。彼ら彼女たちの直面する人生の危機は、自分たちが見捨てられたという思い込みでした。
そこに聖霊という火における浸礼がありました。弟子たちは内側から「イエスは主」と告白し、共に礼拝共同体をつくる勇気を得ました。聖霊の実は、愛・喜び・平安・寛容・親切・善意・誠実・柔和・自制です。教会でこれらを行い、それを世界にあふれさせることが良い実を作ることです。ここにヨハネを預言者としてのみ理解し、イエスをキリストと告白する理由があります。この愛の共同体の方が、この世に対して根本的な批判を投げかけています。
今日の小さな生き方の提案
全ての個人は神の似姿、神の像、神の子として平等です。教会は、この大いなる肯定を受け取る交わりです。確かにわたしたちには罪があります。権威主義や民族主義、差別する心や言動を持ち合わせています。それを個人として神の前で告白することも重要でしょう。しかし、基本的原則的に教会は、誰もが尊厳を保証され、相互に尊重することを実践し、それをもって神の愛(アッバ・イエス・霊の交わり)を作る場です。荒野ではなく町の中で神の支配を形作りましょう。聖霊の神はいつも共におられます。礼拝共同体の中で愛を稽古して身に着け、日常生活の中で愛を応用しましょう。