しかしわたしは言う マタイによる福音書5章21-26節 2025年7月13日礼拝説教

【はじめに】

本日の箇所は「反対命題」と呼ばれるシリーズの第一のものです。反対命題とは、「しかしわたしは言う」(私訳:さてわたし、わたしこそはあなたたちに言う)という定型句で(22・28・32・34・39・44節)、伝統的な聖書の読み方をひっくり返す、イエス独特の聖書解釈を示したものです。イエスは当時の常識に挑戦しました。そのガッツが弟子たちを惹きつけ、ユダヤ教から分派するキリスト教会を生み出す力となりました。聖書に何が書いてあり、あなたは今ここでどのように読むのか。バプテスト教会も継承しているガッツです。

 

21 あなたたちは、昔の人たちに以下のことが述べられたということを聞いた。あなたは殺さないだろう。さて殺す者は誰でもその裁きに定められるだろう。 22 さてわたし、わたしこそはあなたたちに言う。彼の兄弟に怒り続けている者は皆その裁きに定められるだろうということを。さて彼の兄弟に「間抜け」という者は、その議会に定められるだろう。さて「ばか」と言う者はその火のゲヘナの中へと定められるであろう。 

 

【第六戒】

あなたは殺さないだろう」(21節)は、有名な「十戒」の第六の言葉です(出エジプト記20章13節)。ギリシャ語の未来時制で書かれているので、禁止命令とは翻訳できません。そしてヘブル語に遡っても、「殺さないだろう/殺すはずがない」とも訳しえます。十戒はすべて「~だろう/~するはずがない」を採っているので、十の戒め=禁令というよりも、「十の言葉」と呼ぶ方が正確です。

殺す者は誰でもその裁きに定められるだろう」(21節)は、そのままの形では聖書に登場しません。おそらく民数記35章30-31節の、「殺す者は死刑に処される」という趣旨をまとめた言葉だと推測します。「裁きに定められる」(21-22節)は、有罪判決を受けるという意味だからです。いわゆる同害復讐法に従うならば、目には目で、歯には歯で、命には命で報いるべきです(38節参照)。死刑制度を存置したい人には納得のいく解決です。しかしそれで本当に正義が全うされるのかは別の問題です。

モーセの時代からイエスの生きている時代に至るまで、ユダヤ人たちは十戒の第六の言葉と民数記35章とを次の世代に伝え、次の世代はそれを聞いてさらに次の世代に伝えてきました。殺害者カインが処刑されず追放された出来事を読んでも(創世記4章)、なお、第六の言葉は同害復讐法を肯定するように読まれていたのです。イエスはそこに挑戦します。

さてわたし、わたしこそはあなたたちに言う」(22節)。誰かに怒りを抱き続けることは、殺すことと本質的には同じ行為。それだから同害復讐法に従うならば処刑されても文句は言えまいと、イエスは踏み込みます。強烈な皮肉を込めて、イエスは怒ることを禁じています。

さてこの怒りは言葉や態度に出ている怒りなのでしょうか。それとも心の中の怒りも含まれるのでしょうか。ハラスメントは態度だけでもできるのですから、上下関係を利用して怒り続けることを特定の人に表し続けるならば、イエスの言う通り有罪判決を受けます。イエスの言葉は現代に通じています。

では心の中の怒りはどうでしょうか。28節の「心の中で強姦する」行為が問題になっていることとの関連では、この怒りも心の中であっても殺人と同じと解するべきでしょう。心の中の怒りも殺人とみなされるという倫理は、現代の刑法を超えています。憲法19条は内心の自由を保障しているので、心の中で何を考えてもそれは犯罪とはなりません。イエスの言葉はわたしたちの時代よりも先を行く倫理です。「ばれなければ良い」という倫理観ではいけないということでしょう。

言葉において誰かを嘲り侮ることも(「間抜け」「ばか」)、殺すことと同じ。それだから有罪判決に定められるのだと、イエスは言います。「議会」も「火のゲヘナ」も「裁きの場」を等しく意味していると考えます。これは心の中の怒りよりも比較的分かりやすいものです。いわゆる名誉棄損です。「間抜け」はアラム語由来の言葉、「ばか」はギリシャ語表現です。あらゆる言語・文化において、相手を侮る言葉の使用をイエスは禁じています。今日的には、「微細な攻撃」(マイクロ・アグレッション micro-aggression)と呼ばれる、些細な嫌味の集積もまた問われています。隣人を貶める言葉は罪です。イエスが侮られ嘲られ十字架で処刑されたことによってわたしたちは自分の罪を教えられました。尊重言語を使いましょう。

 

23 それだから、もしあなたの供え物をその祭壇の上に供えるならば、そしてそこであなたが、その兄弟があなたに対して何かを持っているということを、思い出したならば、 24 あなたはそこにその供え物をその祭壇の前でそのままにせよ。そしてあなたは行け。まずあなたの兄弟と仲直りせよ。そしてそれから来た後、あなたはあなたの供え物をささげよ。 

 

【供え物をささげる前に】

仲直りせよ」(24節。ディアラッソー)の原意は「交換する」というものです。「その兄弟があなたに対して何かを持っている」(23節)ことを思い出したならば、その立場を交換してみることです。もしも自分がその人だったらと想像して、「自分でも同じことをされたら怒る/悲しむ」と思い至るように努力するのです。

供え物を供える/ささげる」とは礼拝を行うという意味です。聖書においては犠牲祭儀が礼拝そのものだからです。神への礼拝よりも、隣人との仲直りが優先されているのでしょうか。先後関係については置いておいても、交換するという意味において、礼拝も仲直りも同じです。主の晩餐に象徴されるイエスの犠牲と、献金に象徴されるわたしたちの犠牲が、礼拝において交換されます。イエスの復活の生命が、わたしたちのくたびれ果てた人生と礼拝において交換されます。隣人との仲直りを、食卓の主はにこにこ喜んで待っていてくださるでしょう。礼拝の務めを理由に倒れている人の前を通り過ぎたレビ人・祭司のようにではなく、自分の仕事をいったん中断して助けたサマリア人の態度が褒められているからです。

礼拝という命の交換をしている最中に、わたしたちは隣人のことを思い出しやすいものです。礼拝においてイエスの十字架と復活を想起しているからです。隣人との仲直りが優先されていると考えるよりも、仲直りが終わらないうちは神礼拝も終わらない・中断したままだということを、イエスは言いたいのでしょう。誰かに怒っていたり、誰かから怒られていたりする間、食卓の主の前にわたしたちの供え物はそのまま放置されます。命は交換されないまま、もやもやし続け、輝かないままにくすぶります。塩味が「ばかになり」、灯火が升の下に隠されます。月曜日から土曜日までの生き方と、日曜日の礼拝はつながっているのです。イエスがわたしという罪人の立場に交換した恵みを主日礼拝で経験した者は、平日の間隣人の立場に自分を交換して置くことができます。その想像力と行動を愛と呼ぶのです。

 

25 あなたが彼と一緒にいるまでの間に、その道において、あなたはあなたの訴え手に素早く好意的であれ。そうでなければ、その訴え手がその裁判官に、またその裁判官がその行政官に、あなたを渡すかもしれない。そして牢獄の中へとあなたは放られるだろう。 26 アーメン、わたしはあなたに言う。そこからあなたは決して出て来ることはない。あなたがその最後のクァドランスを払うまでは。

 

【処世術】

21-24節までの高い倫理を教える箇所に比べて、25-26節はいわゆる処世術を教える箇所です。この個所と同じ内容は、ルカ福音書12章58-59節にもあります。単語レベルでかなり一致しているので、マタイとルカがそれぞれ保存していた「共通の言い伝え」があったことは確実です。たとえば浸礼者ヨハネの説教や、荒野での誘惑物語などもそうです。マタイ教会は、ルカが12章にはめ込んだ言い伝えを、24節の直後に貼り付けました。「仲直りせよ」(24節)と、「好意的であれ」(25節)とが似ていると感じたからでしょう。

マタイ教会の編集は興味深いものです。殺人行為を心の中まで問うこと(21-22節)→礼拝中思い出したら隣人と仲直りすること(23-24節)→裁判前に示談すること(25-26節)という順番は、実行困難な教えから実行が容易に可能な教えへと並んでいます。わたしたちに最も簡単な行為は、自分の保身のために生きることです。心の中を厳しく修練しなくても、隣人の立場を常に考えなくても、自分のことだけを考えて生きるだけでも良いと、イエスは語ります。卑劣な部分を持つわたしたちには、ハードルを下げてもらえる分、ありがたい教えです。

好意的であれ」(25節)という言葉は、訴え手に対して「良い思いを持つ者であれ」というような意味です。全体は逮捕拘留を避けるための処世術ですが、好意的であるとは中々に難しい技術です。訴える者に良い思いを持つことはありえないからです。しかし、砂を噛む思いで、あるいは鉛を飲む思いで、接さない限り相手方が訴えを取り下げるなどということは、およそ考えにくいとイエスは言っています。つまり、25-26節は「敵を愛せ」(44節)という最も有名で最も高邁な反対命題と、似ている面があります。

自己保身のためという小さな一歩から「敵を愛するということ」を始めてみても良いかもしれません。

 

【今日の小さな生き方の提案】

他人の心の中は見えません。覗き込むのは悪趣味です。自分の心の中も誰にも見られない自由・権利があります。見せびらかす必要もありません。心の中というのは、神のみが知りうる領域なのだと思います。人間社会はわたしたちの内側から外側に出た言動を問います。社会規範を超えないように規制します。神は、わたしたちの言動だけを問うているのではなく、神は、実に神のみが、わたしたちの心の中に怒りがあり続けているか、心の中にどれほど多くの隣人が交換可能な者として存在しているか、心の中で敵対者にどれほどの良い思いを持っているかを問うています。他人は関係ありません。神との関係において、微細であっても愛の行いを心の中で始める思いが大切です。