すべてが預言者 民数記11章24-30節 2023年7月9日礼拝説教

モーセとヤハウェの対話は終わり、民の代表である七十人の長老たちに対してヤハウェが霊を与えるという場面になります。16-17節でヤハウェが提案した通りのことが起こります(24-25節)。しかし実は思わぬことも起こっています(26-30節)。この不規則な出来事はバプテストの教会について示唆深い教えを残していると思います。

24 そしてモーセは出て行った。そして彼はその民に向かって、ヤハウェの諸言葉を語った。そして彼は七十(人の)男性(を)その民の長老たちから集めた。そして彼らをその天幕の周りに彼は立たせた。 25 そしてヤハウェがその雲の中に降った。そして彼に向かって彼は語った。そして彼の上にある霊から(の一部を)彼は引き出した。そして彼は七十(人)・その長老たちの男性の上に与えた。その霊が彼らの上に休んだ時に次のようなことが起こった。すなわち彼らは預言した。そして彼らは集まろうとしない。 

 モーセは神と出会って語り合う「その天幕」から民のいる「宿営」に出て行きます。この位置関係は出エジプト記33章7-11節にあるように、宿営から離れた場所に「会見の幕屋」はあったと考えます。モーセは宿営に帰って、信頼しうる七十人を集めます。そしてもう一度、外へ出て行き「彼らをその天幕(ヤハウェと出会える幕屋)の周りに彼は立たせ」ます。ヤハウェも降りてきます。ヤハウェはモーセにだけ語りかけます。なぜならモーセが預言者だからです。預言者は、予言者とは異なります。将来の予知・予告をする者ではありません。神と面と向かって語り合い、神の意志を世界に伝言する人を、預言者と呼びます。

 神の霊がなければ誰も預言できなかったようです。モーセの中にヤハウェの霊がありました。ヤハウェはその霊を引き抜き、長老たちに分配します。非常に神話的な表現です。具体的にはモーセが長老たちに触れてその霊を伝承させたという儀式が行われたようです(申命記34章9節)。儀式の詳細はともかく言わんとすることは、モーセの権力と責任を分配し、一人当たりの権力集中を避け、一人に過重な負担がのしかかることを避けようとしたということです。モーセに与えられていた霊が長老たちの上に休みます。鳥が羽を休めるように、ヤハウェの霊が長老たちに宿ります。すると彼らは神と面と向かい合い、神の意志を知り、神の言葉を語り出します。ペンテコステの時に様々な人に霊が降り、様々な言葉で「イエスは主」と告白したこととよく似ています。仲介者モーセを通して神の霊が直接各人の上に降り中に宿り共に居ます。

 ところが彼らは「集まろうとしない」というのです。この箇所で二か所だけ過去の物語形式ではない表現があります。その二か所だけは動作主体の強い意志を読み込んで翻訳しました。また、ユダヤ教正統の本文は「二度としない」ですが、サマリア教団の本文は「集まらない」です。サマリア人に好意的なイエスが持っていた本文かもしれないので尊重したいと思います。「集まろうとしない」の方が分かりやすいからです。ここでの「集まる」は、「集まって宿営に帰る」という意味です(30節参照)。ヤハウェの霊が分与され、各人が預言者とされたにもかかわらず、長老たちは誰も宿営に帰ろうとしません。彼らには、それぞれの部族・氏族・家族ごとに、神の意志を伝えることが求められていました。しかしその任務を担いたくないというのです。

なぜでしょうか。おそらくモーセに依存していたいからです。勘違いもあったことでしょう。神の降るその天幕の周りだから起こった出来事なのだという勘違い。預言者モーセが行う儀式によって霊が分与されたに違いないという勘違い。「所詮自分たちには預言などできない」という諦めと決め込みもありました。神の伝言、それによる荒野の旅の舵取りなどという重い荷物をモーセなしにモーセの代わりに担いたくないという思いもあったことでしょう。「ここに我々がいることは素晴らしいことです。民の世話から逃避してここにいつまでも居ましょう」という具合です(マルコ9章5節参照)。

教会にも起こりうる支配・被支配の関係。二人の人物の登場がそのような独裁制や依存体質、権威主義や儀式中心主義を批判します。エルダドとメダドという男性たちです。この二人は、モーセの姉ミリアムと兄アロンという二人の預言者の代わりに登場しているようにも思えます。

26 そして男性たち二人がその宿営の中に残された。その一人の名前はエルダド、そしてその二人目の名前はメダド。そしてその霊は彼らの上に休んだ。そして彼らはその諸書の中に(いた)。そしてその天幕へと彼らは出て行こうとしない。そして彼らはその宿営の中で預言した。 27 そしてその若者は走った。そして彼はモーセのために告げた。そして彼は言った。「エルダドとメダドはその宿営の中で預言し続けている。」 28 そしてヌンの子ヨシュア・モーセの従者・彼の選んだ者たちの中からの者は答えた。そして彼は言った。「私の主人モーセ、貴男は彼らを禁ぜよ。」 29 そして彼のためにモーセは言った。「貴男は私のために嫉妬し続けているのか。そして誰が与えるのか。ヤハウェの民全ては預言者(ということを)。というのもヤハウェが彼の霊を彼らの上に与えるのだから。」 30 そしてモーセはその宿営に向かって集められた。彼とイスラエルの長老たちとは(集められた)。

エルダドは34章12節に登場する「エリダド」と同じ人物と推測されます。ベニヤミン部族の代表者です。メダド(またはモダド)はここにしか出ない人物です。エルダドと同じベニヤミン部族のうちで二番目に重要な人物だったと思われます。彼らは強い意志をもって他の六十八人と一緒に「出て行こうとしない」のです。彼らには自由な意思、つまり批判精神があります。モーセの権威に対する批判です。モーセは二人をも深く信頼し、七十人の中に入れています。それはこの二人が歯に衣を着せずにモーセをも批判できる人たちだったからでしょう。モーセから頼まれればできる範囲で分担しようとも思っています。しかしなぜ妙な儀式が会見の幕屋で必要なのか。老若男女がそろっている全宿営ですれば良いではないか。男性ばかりが集まる秘密の場所でモーセから霊を引き抜いて、それが分与されるなどという権威付けは不要だと二人は考えています。ミリアムの好影響でしょうか。

すると不思議なことに、エルダドとメダドにヤハウェの霊が降ります。自由の霊は自由な人物の上に休まるものです。二人は自分の宿営の中で、ベニヤミン部族の人々に対して、ヤハウェの意志を伝言し始めます。おそらく31節以降にある「うずらの奇跡」について語り始め、ベニヤミン部族としてどのように行動すべきかを部族の「宿営」の中で、つまり天幕のずらりと並んでいる間で、公に示したのです。これは部族指導者としての公式発言です。二人は自宅の天幕の中でひそかに預言したのではありません。

それだからベニヤミン部族の「その若者」が気づきます。そして宿営から走り出して会見の天幕にいるモーセのところまで行きます。「モーセのために」ベニヤミン部族の宿営における二人のリーダーシップについて報告します。モーセとミリアムとアロンだけに許されている預言を、エルダドとメダドがしているけれども、二人の指図に従って良いのかどうかを尋ねるのです。

そこには「ヨシュア」も居合わせていました。後にモーセの後継者に指名される人物。モーセの最側近です。「若いころからの彼の」(新共同訳)ではなく、「彼の選んだ者たちの中からの者」というサマリア教団の本文を採ります。選ばれた七十人の長老たちの中にヨシュアも居たということが明確になる読みです。若者はモーセに直接報告しましたが、モーセではなくヨシュアが「答え」ます。モーセが答える前に、答えの内容を誘導しようとして、わざと口を挟んだのです。ヨシュアは自分の意見として、自分のために、「エルダドとメダドの預言を止めさせるように言ってほしい」とモーセに言います。その理由はいろいろあります。会見の幕屋における神の臨在とモーセの仲介儀式なしに預言をすべきではないでしょう。神とモーセの権威がゆるがせになるからです。これを許せば組織はがたがたになります。これらは建前の理由です。ヨシュアの本音にはエルダドへの「嫉妬」があります。エルダドが傑出するとモーセの後継者になるかもしれません。優等生ヨシュアはそれを恐れています。若者の発言には「モーセのために」がありますが、ヨシュアの発言にはそれが抜けています。ヨシュアは自分のためにエルダドの預言を阻止したいのです。

モーセはヨシュアの本音まで見抜いて「ヨシュアのために」たしなめます。「嫉妬しているのはあなただろう。誰がヤハウェの霊を与えるのか。儀式を司ったとしても私モーセではない。ヤハウェご自身だ。ヤハウェは民全てが預言者になるという事態すら与えてくださる。誰もが私のようにヤハウェと顔と顔とを合わせて対話する礼拝ができる時が来るかもしれない。ヤハウェは会見の幕屋にいる六十八人の長老たちには儀式を通して間接的に霊を与えた。また宿営にいる二人の長老たちには直接的に霊を与えた。風は思うままに吹く。どのように授けるかは神の自由だ。あなたが預言できることにだけ感謝すべきであって、隣人も預言できることに嫉妬すべきではない。」ヨシュアは黙ります。

そしてモーセもヨシュアも他六十七人の長老たちも「集められ」、エルダドとメダドに合流します。合計七十一人の預言者、ミリアムとアロンを合わせれば七十三人の預言者が立てられました。

ヨハネ福音書4章、スカルの井戸でとあるサマリア人女性とユダヤ人男性イエスが顔と顔とを合わせて話し合った時、モーセの言葉が実現しました。シナイ山でもゲリジム山でもなく、会見の幕屋でもなく神殿でもなく、神と全ての人が面と向かって礼拝する時が来たのです。神を仲介する権威、霊を授ける儀式は不要です。権威ある場所、権威ある人、権威ある儀式は不要です。これらは嫉妬と競合を引き起こすので有害でさえあります。

さて現代の「按手礼」という手を置いて祈る儀式を見たらモーセやエルダドやイエスは何と言うでしょうか。その儀式を正しい仕方(授按牧師による諮問会議含む)で行わなければ、誰も(その教会の牧師であっても)バプテスマや主の晩餐や祝祷が行えないという慣行の継続は批判されるべきです。万人祭司、全員が預言者ということを標榜しているバプテスト教会なのですから、その教会が誰に何を委託し奉仕させるかは何であれ決めることができます。

今日の小さな生き方の提案はエルダドとメダドに倣うことです。68:2という比率の少数者、そこから来る緊張感に耐えながら、二人は「モーセの権威」に抵抗しました。エルダドにとってこの反抗はベニヤミン部族の代表であることを辞めさせられる行為となったかもしれません。しかし神はそのエルダドとメダドを直接預言者として立て、モーセの職務の一部を分担させます。少数者になることを恐れる必要はありません。神はあなたの義をご存じだからです。神が求める人間社会とは、少なくとも3%ぐらいの少数意見を持つ者が共存している群れです。そして誰もが自分の意見を自由に言える交わりです。教会の内外を問わず、そのような社会を形づくっていきましょう。