3月5日から「レント(受難節/四旬節)」に入りました。イースター前の40日(ただし六回の日曜日を除く)を、教会暦ではこのように呼び習わします。4月20日のイースター(復活祭)まで、キリストの十字架の虐殺刑死を覚えて、断食をしたり好きな物を断ったりする習慣が今もキリスト教圏に残っています。ただし伝統的にバプテストは教会暦を重んじません。アドベント(待降節)だけが大いなる例外/不徹底な実践です。そういった意味では教会暦とは関係なく講解説教の聖書箇所を淡々と行うことにも意義があります。
今日の箇所はイエス虐殺が最高法院(行政府、国会および最高裁の機能を併せ持つ)の決議になったということを報じています(47-50節、53節)。53節は「たくらんだ」ではなく、直訳して「決議した」とすべきでしょう(本田訳・田川訳)。イエス殺害のたくらみそのものは、すでに5:18の時点で存在しています。そのたくらみがもう一歩踏み込んで公式な決議となったと考えるべきでしょう。この決議に基づいて密告が奨励され、イエス逮捕・処刑が国家の政策となりました(56-57節)。今日は、この決議の背後にあった歴史的な事情・ユダヤ人社会の状況について紹介いたします。その上で、現代のわたしたちの人生について何を教えているのかを探り、小さな生き方の提案をいたします。それは「犠牲」とは何かということです。
当時のパレスチナはローマ帝国の一部でした。ローマ帝国は地中海を内海とする大帝国です。強大な軍事力と狡猾な政策によって、侵略した土地を「属州」として組み入れていました。ユダヤ地方には当時、「属州ユダヤ」として最高法院による自治が許されていましたが、しかしローマ総督がエルサレム神殿の隣にローマ軍と共に常駐していました。ユダヤ人が反乱を起こしやすい民であることをローマ帝国はよく知っていて、それを警戒していたのです。そして、最高法院は外交と死刑執行以外の権力を振るうことができました。それは「大祭司」を含めて71名からなる合議体です。①サドカイ派、②ファリサイ派、③名家の代表者らによって構成されていました。最高法院のユダヤ人権力者たちは全体に親ローマ帝国でした。ローマに税金を納め、ローマに反乱しない限りにおいて、自分たちは自治が許され、その中で立身出世をし、金儲けもできたからです。
①最高法院を構成する人々はサドカイ派と呼ばれる神殿貴族が当初多数を占めていました。モーセ五書だけを聖書として認めているグループです。47節の「祭司長たち」と言われている人々です。サドカイ派は世俗権力に関心の強い集団です。神殿税などの取立てや、神殿にまつわる商売によって利益を得ていました。この意味で、イエスが「神殿を壊してみよ」と公言し、神殿での商売を批判したことを、非常に問題視していました(2章)。サドカイ派の大祭司カイアファは、19年間も大祭司職にありました。最高権力者です。
②サドカイ派に加えて、ファリサイ派がこの時代には最高法院の中での多数派であったと言われています(46-47節)。ファリサイ派の最高法院議員の中には、ニコデモという人がいたことを3章ですでに学びました(7:50以下も参照)。この人はイエスの弟子です。ファリサイ派は民衆に人気がありました。律法の解釈をよく行い、しかもその解釈通りに日常生活において敬虔な行為を行っていたからです。ある意味、親ローマでも反ローマでもありません。宗教の生活化に興味があったのです。ただし、それは結果として、敬虔な行為を行えない人々を差別・抑圧していきます。イエスの独自の律法解釈といやしが人々を解放していくことを彼らは問題視していました。
③名家の代表者は保守的です。家父長制の中の家長であり、土地の名士たちです。自分たちの財産が守られるならばローマ帝国の傘の下にも入ります。アリマタヤ出身(サマリアに近い町)のヨセフという議員が後に登場します。この人もイエスの弟子です。この人はおそらくアリマタヤという町の名家の代表者として最高法院議員に選出されていると思われます。おそらく金持ちの不在地主です。イエスの弟子たちが失業者たちであり放浪の旅を続けていることを、名家の代表者らは問題視していました。
以上が最高法院の構成員の特徴です。ここには当時のユダヤ教の一大派閥である熱心党(ゼロタイ派)や、修道生活をしていたエッセネ派が入りません。ガリラヤ地方が発祥の熱心党は反ローマ帝国を主張し、武力による独立戦争を標榜していたからです。もしも最高法院議員に熱心党がいたならばローマ帝国からの自治は認められなかったことでしょう。
エッセネ派は、政治を含む世俗にまったく興味がありません。バプテスマのヨハネはエッセネ派の一支流ですが、決して最高法院にもローマ帝国にも警戒されませんでした。それは、彼の主張が荒野の叫び=世俗生活に影響を及ぼさない声だったからです。いかにサドカイ派やファリサイ派の神学的問題を指摘したとしても、ヨハネは決してエルサレムに乗り込まないので、彼らにとっては安全な人物でした。
最高法院は親米右派である戦後の自民党政権によく似ています。アメリカの言いなりになりながら国内で権力をふるい利権をにぎっているからです。原子力ムラはその典型例です。およそ外国の軍隊が首都にあるというのも、横田基地か当時のエルサレムぐらいではなかろうかと思います。
最高法院は緊急議会を招集します(47節)。議題はナザレのイエスとその弟子たちについてです。これ以上イエスの仲間が増えることはローマ帝国を刺激してしまう、早期にイエスの「神の国運動」を阻止しなくてはいけないと彼らは考えたのです。イエスはガリラヤ出身者です。熱心党員も仲間にしている、サマリア人も仲間にしていると噂されています。バプテスマのヨハネの弟子でありながら、街中に出没し、首都エルサレムにも何度も訪れています。実際ベタニアのラザロ治癒で多くの者たちが弟子となっています(45節)。イエスの弟子たちが最高法院の自治政府を転覆させようとし、ローマ帝国に絶望的な独立戦争を企てたらどうなるのか、これが彼らの心配事です。
48節に最高法院の議員たちの本音があります。このままではローマ帝国が軍事介入し、自治政府が認められなくなり、自分たちの権力・利権が奪われてしまうということに彼らの危機感があります。「国民全体が滅びないで」(50節)などといわゆる「国益」を守るためのような言葉を用いていますが、本音は「ローマ人が我々の場所も民族も取り上げてしまう」(田川訳)ということが本当の関心事です。「我々の民」という収奪の対象としてしか、最高法院の人々は捉えていません。
このような人々は極めて卑劣な方法を考えつくものです。国益のために犠牲になる少数者がいても構わないという結論です。カイアファの発言は政治家の本質をよく示しています。「議員諸君にとって好都合なのは、イエスにすべてを負いかぶせて死刑に処して、彼個人を犠牲に国益=諸君らの私益を守るということだ」(50節)。71人の中には2人だけイエスの弟子がいました。彼らはこの決議の時に沈黙/棄権しました。実に残念です。権力を持っている人は権力を正しく用いるべきだからです。ただし2人はイエス一行に逮捕の危険を密かに告げた可能性があります。それを受けてイエスはエフライムというサマリア寄りの町に逃げます。ヨセフとニコデモは議員でありながらイエスのいのちを守りきれなかったことに対する謝罪と賠償の意味を込めて、イエスの葬りを誠実に行うことになります(19:38-42)。
カイアファの言葉はもちろん神学的・キリスト教的には、著者が説明しているようにイエスの贖罪死の預言です(51-52節)。最高法院の権力者たちの悪巧みをも神が救いの計画に用いた、それと同じように悪人の言葉も神の意志を示すことがあります。しかしそうだとしても、カイアファの発言そのものの問題性は今日的に吟味して考え続けるべきことでしょう。なぜなら現在もおごり高ぶる権力者たちが似たような言葉を発し続けているからです。だからこそ、国家権力を縛り一人の人の人権を守るために憲法が必要なのです。立憲主義の重要性を訴えるわたしたちは、同時にキリストの教会も内部において、同じような課題を持っていないか吟味しなくてはいけません。
靖国神社と沖縄の基地とフクシマの原発、この三者は一つの言葉でつながります。「犠牲のシステム」です。国家のための犠牲が美化され、権力者の利権が守られるという仕組みです。靖国神社は戦争遂行のための施設でした。国家のために犠牲となった兵士が英霊として祀られ、そして現人神天皇がお参りし頭を下げるのです。その時、国家を恨んでいた遺族たちの感情が逆に国家への感謝と変わり、戦争反対の意志が生まれる芽を摘んでいったのです。そうして国家への犠牲度で、国民に序列化がなされたのでした。犠牲のシステムです。沖縄の人に米軍基地の負担をおしつけることは、東京より遠方の少数者の犠牲を肯定することです。日米安全保障条約の継続のために沖縄が犠牲になるのは不公平ですが、ここでも国策のための犠牲のシステムが生きています。フクシマ事故は、東京の「地域エゴ」を露わにしました。東京で使う電気のためにフクシマを中心に多くの人々が被ばくを強いられたからです。そして東京で行われるオリンピックのために、フクシマの復興のための資材が不足することがすでに懸念されています。ここにも国策のための犠牲のシステムが生きています。
国家のために個人が犠牲になるということが肯定されてはいけません。わたしたちはキリストの十字架を通して、犠牲のシステムが不正義であることを言い抜くことができます。イエス・キリストの十字架を地上で最後の犠牲とするように勧められているからです。誰かの犠牲によって成り立つ平和は、平和とは言えないのです。そして国策・国益などと言いながら、本当のところは権力者たちの私利私欲にしか過ぎないということをも見抜かなくてはいけません。
このように考えると、実は教会という集団も「犠牲のシステム」という問題を抱え持っていることに気づきます。なぜなら、「奉仕」という言葉で犠牲を美化して、時に隣人に犠牲を強いることがあるからです。たとえば牧師に「ありがとう」と言われたら、今までの奉仕の疲れからくる不満が和らいだとしたら、ヤスクニと似た構図になるでしょう。たとえば「良い奉仕者像」みたいなものをいつも研修して、教会という組織を守る優等生、効率よく奉仕できる人が褒められるようになったらどうでしょう。「犠牲度」で教会員の序列ができはしないでしょうか。また、「教会全体の益のためには、一部の人には犠牲になってもらう」などという世間並の現象も起こりかねないと、わたしは常に思っています。バプテストの教会は奉仕者による自治を強調するために忙しい教会が多い、そのために犠牲が美化されがちです。それで伝道が進むのかと疑っています。
今日の生き方の提案は犠牲を美化しないというものです。礼拝を誠実に捧げる、これだけで十分な犠牲です。誰かのために仕え一肌脱ぐことは良いことですが、自分がきついと思う程度までしなくて良いでしょう。ましてや他人にまで犠牲を強要してはいけないでしょう。会議もプログラムも最低限で十分です。実はその方が伝道になると思うからです。その方が、新来者も求道者も個人として大切にされたという温かい気持ちを持って教会に通えるからです。