み子を信じるということ ヨハネによる福音書3章16-21節 2013年6月16日礼拝説教

とある教会のとある信徒と牧師の会話です。

 「先生、聖書の教えは同性愛を禁じていますか」。「そのように読める箇所もありますがわたしはそれを採りません。生物学的には1-2割の性的少数者がいることが当たり前だからです」。「先生、うちの息子は同性愛者です。同性愛の人は地獄に行きますか」。「わたしはそのようには考えません。そのような考え方は性的少数者への差別だと思います」。「それで少し安心しました。ただ先生、もし息子が地獄に行くとするならば、わたしも一緒に地獄に行くつもりでいました。その覚悟をもって尋ねたのです」。「なるほど、息子さんを思う愛の深さに感銘を受けました。その愛のほうが、天国と地獄という教理よりも重要でしょう。」

この会話の同性愛者というところに「非信者」と入れても、同じ課題があぶり出されると思います。それは、あの世における天国と地獄という考え方です。バプテスマを受けると天国に行ける、バプテスマを受けないと地獄に行くという考え方です。信仰というものは天国行きの切符を得ることなのでしょうか。もしそうだとすれば、「愛する人が天国にいない」と推測される場合(妻が信者ではないまま先に亡くなっている場合)、バプテスマを受けたくないかもしれません。先程の話のように、一緒に地獄に行くほうがましということになります。

イエスを救い主と信じることというのはあの世の行き先を決めることなのでしょうか。実はしばしば今日の箇所、ヨハネ3:16はそのような趣旨で伝道の手段として用いられてきました。信じるなら天国に行ける・信じないなら地獄で裁かれるという迫りに用いられてきたわけです。

しかし聖書本文は本当にそのようなあの世の話を語っているのでしょうか。そしてイエスを救い主・神の子と信じるということは天国行きを保証することなのでしょうか。少なくともこの文脈においては異なります。先週申し上げたとおり、新たに生まれるということを毎日繰り返し、風のように自由に神と共に生きることが永遠に続くというイメージが救いだからです。今日は改めて、イエスを信じるということとは何か、永遠の命を得るということは何かについて考えたいと思います。それは同時に、信じないということは何か、裁かれるとは何かということについて考えることでもあります。

 

本日の聖句に照らすと、キリスト教信仰はあの世についての教えではありません。なぜなら、神はこの世を愛しておられ、この世にみ子のいのちを与え、この世にみ子が来て、そしてみ子はこの世を救ったからです。今日の聖句は徹底的にこの世にこだわっています。今自分が生きているあいだに救いがないならば、今信じる意味がないでしょう。

「信じない者は既に裁かれている」(18節)とあります。「既に」とあるのですから、これは将来のあの世における地獄行きの話ではありません。信じること・信じないこと、それぞれの効果はすでに現れているのです。信じている人は永遠の命を得ており、信じていない人は裁かれているというのです。

 

ではみ子を信じるということは何なのでしょうか。二つのことが言われています。

一つは「困ったときの神頼み」です。「イエスさま、助けてください」と祈ることです。福音書の中でも、素直にイエスに自分や家族、友人の病気のことで頼んできた人が何人も登場します。「わたしの病気を治してください」「わたしの娘が死にそうなのです」「わたしの息子が重い病気にかかっています」・・・。するとイエスは、「あなたの信があなたを救った」と言って、助けてあげるのです。この人たちは、難しいキリスト教教理を信じたわけではありません。たとえば、全人類は罪人だとか、十字架は全世界の罪を贖う犠牲であるとか、十字架のイエスは三日目によみがえらされたとか、40日後に天に昇って、その後聖霊を派遣したなどの教理を信じていたのではありません。ただ、「この人なら何とかしてくれる、この方だけが最後の希望だ」と思って、必死にお願いをしたのです。良い意味の「困ったときの神頼み」です。こういう信頼を、全人格的な信頼とも言います。

今日の箇所の直前には、そのような信頼が良いものだということを裏付ける物語が引用されています(14節)。荒野の40年の放浪の際に、イスラエルの人々が病気でばたばたと倒れました。すると、指導者モーセは青銅で蛇をつくって、高く掲げます。「蛇を見た人は癒される」と大声で告げながら、竿に蛇を掲げたのです。すると、病気の人はみな蛇を見ようとします。近くの人は本当に蛇が見えたことでしょう。しかし、遠くの人にとっては本当に見えたかどうか分かりません。それでも、蛇の方向を仰いだだけで良いのです。最後の希望として、蛇を見ようとするその信頼がその人を救うのです。

この蛇と十字架は似ていると聖書は言っています(14-16節)。み子を信じるということは、蛇が自分を治すと信じてその方角を仰ぐことと似ています。本当に困ったときに、「助けて」と言うこと、その際に、「イエスさま、助けて」と言うこと、これがイエスへの全人格的な信頼です。そうすれば永遠の命が得られると言うのです。

このことが今日の小さな提案です。自分の丸ごとをさらけ出せるような信頼の置ける存在を持ちませんかというお勧めです。最後の希望にもなる方を持つ、祈る相手を持つ、そうすると人生は豊かになります。

具体的には信頼のネットワークを作りあげ広げることができるようになります。それが永遠の命です。自分の小さなひとつしかないいのちが無数のいのちと網の目のように重なり広がるのです。目に見えない神を信頼する人は、目に見える人を信頼する人になりやすいものです。逆もそうです。人を信じることができる人は、神を信じることも容易にできます。ひとりきりなりがちな人や、孤立させられている人は信頼関係のネットワークがつくりにくいものです。まず、神への信頼から始めたらどうかというお勧めです。神信仰は最後のセーフティネットなのです。聖霊という目に見えない神が、いのちを結び合わせてくださいます。

この意味で信じない者は既に裁かれてしまいます。人間社会の豊かな生き方は信頼に足りるネットワークの中に生きることです。教会や地域共同体、会社、家庭、サークルなどがそれにあたります。その道を自ら閉ざすことはいかにももったいないことなのです。

むしろ、積極的に信頼のネットワークに参加することをお勧めします。このことはあの世のことではありません。神との信頼関係を持ち、そして同じような信頼関係を隣人ひとりひとりに徐々につくっていく、ここにいのちがあります。教会とはそのような団体なのです。

 

二つ目にみ子を信じるということは、真理を行うこと・悪を行わないことです(19-21節)。本多哲郎神父は、「信じる」(ピステウオー)という言葉を必ず、「信じてあゆみを起こす」と訳します。良い解釈・翻訳だと思います。行いを伴わない信仰なるものは、この地上には存在しないからです。イエスへの信は、「困ったときの神頼み」だけで終わりません。キリストに従う・真似する歩みを起こすことに必ずつながります。

悪を行わない生き方・真理を行う生き方に変えられて行くのです。その具体例は何でしょうか。一つだけ小さな提案をいたします。それは威圧的にならないということ、暴力を捨てるということです。

先ほどの本多哲郎神父は、これまた必ずと言って良いほど、「悪い」という単語を「威圧的」と翻訳します。おそらくそれは本田神父がいつも釜ヶ崎の日雇い労働者の目線で聖書を翻訳し解釈しているからだと思います。労働者たちを安く買い叩く手配師たちの威圧的な態度に対して、常に批判があるからだと推測します。

この解釈・翻訳は、今日「悪」とは何かというものを考えるときのヒントになります。わたしたちが主の祈りにおいても毎週祈る「悪から救い出したまえ」の「悪」とは何なのでしょうか。それは威圧的な態度全部が含まれると本田神父は言うわけです。わたしはそれは優れた解釈だと思います。さきほど申し上げた、信頼関係というものは正に威圧的な態度によって壊されることが多いからです。また、威圧的な態度では決して真の信頼関係はつくられることはないからです。

暴力というものには三種類あります。実際の腕力など形ある力を用いる場合、二つ目には言葉による暴力(誹謗中傷、名誉毀損、差別発言)の場合、そして三つ目には態度による暴力の場合です。三つ目のものは、「モラルハラスメント」などと呼ばれることもあります。それは威圧的な態度で相手を支配することです。

たとえば睨むことや腕組み一つでも、相手との関係性においては十分に威圧的でありうるし、暴力となりえます。上司と部下の関係があり、怒鳴る前に必ず腕組みをすることを知っているなら、部下は恐怖をおぼえ、萎縮してしまうでしょう。上司はそのことを知っているならば、力を濫用することができます。部下の行動を支配することができます。上下関係と暴力とはこのように切っても切れない仲です。上下関係と暴力は信頼関係を作れないという意味で、すでにそれ自体が裁きになっています(19節)。

新聞に「ネット右翼」についての記事が載っていました。朝鮮半島の人々に対する差別発言を繰り返すデモに賛同して積極的に関わってきた人がその行動から足を洗ったという記事です。最初は自分の人生の不満を外国人攻撃というかたちの鬱憤晴らしで満足をしていたそうです。彼はデモでもネット上でも差別発言を仲間たちとしていました。ところが、ネット上で知り合った仲間と実際に出会って飲み食いするようになると、その人々が些細な異論にも猛攻撃することに気づき始めます。そして彼が「ネット右翼の活動を止める」と発言したとたん、かつての民族差別発言と同様の暴力的言動をネット上で浴びることになったというのです。

第三者を攻撃するという暴力を手段としては信頼関係のネットワークは作れません。いつでもお互いの暴力合戦になりうるからです。そして彼が本当に欲していたのは、信頼関係に基づく顔と顔とを合わせる交わりだったのだと思います。教会とはそのような交わりを地域に提供するものなのでしょう。そのためには教会もまたよく自己吟味をして、威圧的でないかを点検し、悪を行わずに真理を行う集まりとなりたいものです。

あらゆる暴力を追い出す努力を一つお勧めします。形ある力による暴力の場合、言葉による暴力の場合、そしてさらに徹底して態度による暴力まで含めて、威圧的な行いを止めましょう。それが真理を行うための小さな一歩です。