イエスは一つのたとえをもって自分と弟子たち、自分と神との関係を示されました。それはぶどうの木とその枝のたとえです。このたとえは非常に有名なものです。今回改めて読み直して気づいたことは、このたとえの排他的主張です。イエスのうちに留まる者だけが救われ、それ以外の人が取り除かれるということは、「教会の外に救いはない」(キプリアヌス。3世紀の教父)という主張と重なります。
今日、このような主張をしながら伝道をすることが、キリストの教会にできるのでしょうか。というのも「教会の内に救いがある」ということすら、わたしたちにとってはハードルが高いからです。互いに愛し合うという掟を守っている時にのみ、教会の内に救いはあります(10節「わたしの掟」。13:34、14:21)。この掟を守ることはただ恵みによってのみ可能です。神業・聖霊の働きです。内側でさえ危ういのに、外側の世界にまで傲慢に「救いはない」などと言えるはずはありません。このような「上から目線」の発言をするならば多くの人々からそっぽを向かれるのは当然です。また無視されるばかりでなく、過去にキリスト教世界≒西洋が、教会の外でなした悪事(十字軍、ユダヤ人虐殺、アジア・アフリカに対する植民地支配)を指摘され批判されることにもなるでしょう。
しかも、このたとえで語られる農夫(神)は、きわめて酷な農夫です。たとえば、農夫は「実を結ばない枝」を予め取り除きます(2節)。さらに、取り除かれた枝は「木につながっていない枝」とみなされて、「実を結ぶことができない」と断罪されます(4節)。そして、外に投げ捨てられ、集められ、火に入れられて焼かれてしまうというのです(6節)。あまりにも酷な論法です。最初に取り除かれたら実を結ぶはずがないのですから、実を結ぶか結ばないかの判断が拙速のように見えます。自分で切り落としておいて、「つながっておれ」と言われるのは、枝としては心外でしょう。この農夫は蒔かない所から刈り取ろうとするきわめて酷な農夫です(マタ25:24)。この残酷な神を、わたしたちは信頼することができるのか、信頼する必要があるのかという疑問が湧きます。
わたしたちはこの聖句を今日意味あるものとして読むために、①「うちに留まる」という言葉と、②三位一体の神という教えに注目していきます。わたしたちの身の回りには排他的な主張、短絡的かつ残酷な主張があふれています。そのような世間に対して、教会が「共感」と「寛容」を主張するために、①と②を軸にして解釈していきます。
①うちに留まる
新共同訳聖書において「つながる」と訳されている言葉は、ギリシャ語のメノーという動詞です(4・5・6・7節)。このメノーは9節と10節で「とどまる」と翻訳されてもいます。両者は同単語です。同じ文脈にあるのだから、「留まる」と一貫したほうが良いでしょう(RSVはabideで統一)。というのも、「つながる」という意味はかなりの意訳だからです。メノーの原意は「留まる/残る」です。そこから転じて「滞在する/宿泊する」という意味を持ちます。ヨハネ福音書では、すでに1:39で「宿泊する」という意味で登場している単語です。
こうして4節は理解困難な聖句となります。直訳すれば「わたしのうちに留まりなさい。そうすればわたしもあなたたちのうちに(留まる)」となります。これは、もはやぶどうの木とその枝ではありません。枝の中にある幹という植物はありえないからです。困難を除くために、新共同訳は前半を「つながる」、後半を「留まる」と訳したのでしょう。しかし、この理解困難な言い方に独特の味があり真理があります。お互いがお互いを内側に含むという不思議な状態こそ救いであると、ヨハネ福音書のイエスは言いたいのです。イエスの中に弟子たちはすっぽりと包まれています。それと同時にイエスは弟子たちの間に、また個々の弟子の中に宿泊しています。キリスト信仰というのはそういうものです。これを霊である神と人間との神秘的一体とも呼びます。
信仰とは神のうちに宿ることであり、「主の家」とも呼ばれる教会に宿を借りることです。主の食卓を囲んで共に食べ、共に泊まることです。興味深いことにイエスは自分のからだをエルサレム神殿(「主の家」)にたとえました(2:19-22)。三日目によみがえられたからだは、神殿の再建と同じだと言うのです。この復活のからだに教会がたとえられています。教会はキリストのからだです。ここで復活者を礼拝することは、主の家の中に宿ることです。霊のからだとなったイエスが、わたしたちをすっぽりと包んでいるのです。その霊は不思議な風となり、わたしたちを持ち運びます(3:8)。意外な作用が働いて、教会という船は思いがけない方向に向かうものなのです。
それと同時に霊である神はわたしたちのうちに宿ります。20:22に「(イエスは)彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』」とあります。この記事はヨハネ福音書のペンテコステ物語と呼ばれます。イエスの霊が息として吹きかけられ、弟子たちはそれを吸い込み、自分の内に宿します。Ⅰコリント6:19にも、「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」とあります。弟子たちの体が「主の家」となり、霊である主がそこに住んでいるのです。復活の主の体にすっぽりと包まれると同時に、わたしたちの内に復活の主が生きておられる、聖霊によってこの理解困難な事態が起こります。この事態を、神秘的一体とも言い、さらに言えば相互内在とも言います。
ぶどうの木とその枝のたとえは、有名な箇所ではありますが、木と枝の関係を超えたもっと深い内容を語っています。それはつまり、イエスとわたしたちの関係を切ることは不可能だということです。キリストの愛からわたしたちを切り離すものは何もありません(ロマ8:35)。キリストから愛されていることを受け入れる人生は、豊かに実を結ぶ人生です。何があっても神が共にいるという平和をいただいているからです。
②三位一体の神
あえて言えば、イエスとわたしたちとの関係を切ることができる方は、唯一イエスを遣わした神(農夫)だけです。この神をどう考えるかが、最大の「解釈上の十字架」です。先ほども申し上げた通り農夫は枝にとっては残酷です。このことが示していることは、すべての枝は切り落とされる可能性があるということです。実をつける前に実を結ぶか結ばないかの判断をしているからです。また切り落とした後で実をつけない枝を批判しているからです。
これは正義の神の前で、すべての人は罪びとであるということのたとえでもあります。特に、植物を火に投げ入れる神という言い方は、世の終わりの「最後の審判」の場面を想定しています(マタ3:7-12)。すべての人は逆立ちして生きているようなものです。支配したがる欲から自由ではありません。また、支配されたがる怠慢からも自由ではありません。この倒錯を罪と呼びます。神は正義を貫かなければなりません。正義の無いところに愛の実現がありえないからです。だから愛を行えない罪びとたちを神は裁かなくてはなりません。ここに唯一神教の教理上の弱点があります。
キリスト教は三一神教です。裁判官としての神と、弁護士としてのイエス・キリスト、また「(イエスとは)別の弁護者」(14:16)である聖霊の三者を一つの神と信じます。この言い方はイエスが弁護者であることを前提しています。正義を貫く神と、罪びとを丸ごとかばうイエスと、弟子と一体化する聖霊とが、一つの神であるということです。さきほどの弟子と神秘的に一体化する復活のからだを持つ神というのは、聖霊についての説明だったのです。このぶどうの木と枝、また農夫のたとえも、三位一体の神の視点で読み直す必要があります。
農夫は自由な判断で「清い/汚れている」と言い、枝を払い落していこうとします。それに対して、ぶどうの木は「もう少し待ってください。もしかするとその枝も実を結ぶかもしれません」と、枝の弁護をします。明らかに汚れていると見える枝を切り落とそうとする時も、ぶどうの木は「止めてください。わたしが声掛けをしましたから、その枝は清いのです」と弁護します(3節)。
しかし農夫の我慢と、ぶどうの木の弁護にも限界があります。いよいよすべての枝を切り落とす判断に農夫は傾きました。その時、ぶどうの木は「もし、枝を切るならば、どうぞ幹ごとわたしを切り倒してください。わたしは枝と離れることができません(5節)。どんなに出来が悪く、実をつけない枝であっても、わたしの枝ですから」と、農夫に言いました。農夫は、泣く泣くぶどうの木を斧で根元から切り倒しました。
今わたしがふくらませた部分は、イエス・キリストの十字架刑のことを指すたとえ話です。十字架は弁護士が死刑囚の代わりに、死刑囚と共に殺された事件だからです。すべての罪びとの罪がイエスと共に殺されました。木と枝の一体はそのまま、ぶどうの木全体が切り倒されました。もし枝が、「自分たち枝を弁護するために木が倒された」と信じるなら、その枝は新しい木に接木され永遠に生きることとなります。
新しい木は、切り倒されたその切り口から生まれ出ました。切り株からのひこばえ。これがキリストの復活であり、教会の誕生です。罪が赦された罪びととして、すべての人はこの新しいぶどうの木に接木されるようにと招かれています。イエスを主と告白しバプテスマを受けることに招かれています。
三一神教は、こうして裁判官として正義と真実を貫く神と、本人がだめになるほどに赦し続け弁護活動をするイエスとの役割を明確にすることで、正義と愛を同時に教えることができます。聖霊は神の霊として正義を、イエスの霊として愛を、わたしたちの内外に働きかけ教えます。ぶどうの木のたとえも、残酷な農夫だけではなく、枝を弁護し続ける幹・イエスを行間に読んでいく必要があります。それによってわたしたちは、三位一体の神への信頼や、教会のうちに留まることの意義を受け取り直すことができるからです。
今日の小さな生き方の提案は、キリストの弁護を信じるということです。別の言い方で言えば、自分が愛されていることを知るということです。「わたしはあなたを愛している。わたしの愛のうちに留まりなさい」というイエスからの呼びかけを素直に受け入れ(9節)、その言葉を自分のうちに留めることです(7節)。愛されていると知っている者は力みもなく隣人を愛することができます。
わたしたちは危うい存在です。すぐに支配したがったり、また逆に支配されたがったりします。そこには豊かな実りある人生はありません。ありのままの姿を肯定されていないから、傲慢になったり卑下したりするわけです。ありのままのあなたの存在が丸ごと赦され愛されているということ。仮に過ちを犯しても弁護士が常についているということ。このことを信じる人生は豊かな実を結ぶ生き方なのです。等身大で生き、隣人を偏見なく見て、隣人に仕えることができるからです。それがキリストの弟子となるということです(8節)。