わたしはヤハウェ 民数記15章32-41節 2024年2月18日礼拝説教

 本日の箇所は新約聖書の視点から問い直されるべき内容です。安息日における労働禁止命令(32-36節)と、衣服に房をつける習慣(37-41節)は、それぞれナザレのイエスによって批判されています。旧約聖書の内容は、まず新約聖書によって濾過されるべきです。それはキリスト教会の基本的な立ち位置です。ナザレのイエスが旧約聖書を批判的に読んだことにわたしたちも従うものです。ただし、ファリサイ派の人々やパウロなどキリスト信徒たちが旧約聖書の良質の部分を「曲解」したり、現代の視点から採るべきでない解釈をしたりする場合には、逆に旧約聖書の視点から新約聖書を問い直すこともありえます。このようにして二つの正典は循環します。わたしたちが旧新約聖書を交互に読むことは、好循環を期してのことです。すべてを自明にしない教育的な考えに基づきます。

32 そしてイスラエルの息子たちはその荒野の中に居た。そして彼らはその安息日において薪を集め続けている男性(を)見つけた。 33 そして薪を集め続けている彼を見つけ続けている人々は、彼をモーセに向かって、またアロンに向かって、また全会衆に向かって近寄せた。 34 そして彼らは彼を守りの中に休ませた。なぜなら彼のために何がなされるべきかが判別されなかったからである。 35 そしてヤハウェはモーセに向かって言った。「その男性は必ず死なされなければならない。宿営の外で、彼を諸々の石で全会衆は石打つこと。」 36 そして全会衆は彼を宿営の外に向かって連れ出した。そして彼らは彼をその諸々の石で石打った。そして彼は死んだ。ヤハウェがモーセに命じた通りに。

 この物語はレビ記24章10-23節の物語と、内容的にも用語的にもよく似ています。ヤハウェの名前を冒涜する男性(母親イスラエル人シェロミト、父親エジプト人名前不詳)を、イスラエル人は神の判決を待つために留置し、死刑判決を受けて宿営の外で石打にするという物語です。十戒には、ヤハウェの名前をむなしく上げないことが禁じられています。同じ十戒は、本日の箇所に関係するのですが、安息日を守ること/覚えることを命じています。

 二つの物語は元々同じ言い伝えであったかもしれません。両者に共通するところで、意義深い部分を取り上げます。それは律法には隙間があるということです。何がヤハウェの名前をむなしく上げることなのか、何が禁じられた労働にあたるのか、一律の線引きが難しいのです。レビ記24章のシェロミトの息子は、イスラエル人男性と言い争いをしています。その中で、あえて相手方の名誉と人格的尊厳を傷つける目的で、ヤハウェの名前を冒涜しているようです。「薪を集め続けている男性」(32節)も、常習の行為のように読めます。動詞に-ing進行形をあらわす分詞が使われているからです。彼は「集め続け」、イスラエルの息子たちは「見つけ続け」ています(32-33節)。「その安息日」は、安息日全般を指すかもしれません。つまり安息日になるとあえて彼はこれ見よがしに薪を集めていたのかもしれないということです。それによって、宗教的理由で薪集めを抑制している仲間を嘲るためです。

 直前の箇所は、過失と故意の違いを語る場面でした(22-31節)。そしてイスラエル人も寄留者も同じ法で裁かれるとしていました(26・29・30節)。父親がエジプト人であろうと、イスラエル人であろうと、あえてこれ見よがしに故意に律法を破ることは、ヤハウェの言葉を軽んじています。つまり律法違反に当たるか当たらないかの判断は、個別具体的な事案ごとに判断されるべきです。その際には、行為者の動機や意図・目的が大きな判断材料になります。神を軽んじ、隣人の宗教行為を軽んじ、それによって自分の支配欲(愉快犯的な感情)を満たす行為は、強く批判されなくてはいけません。

 ナザレのイエスはなぜ安息日の労働禁止命令を破ったのでしょうか。彼は目の前に飢えている人がいた場合に、安息日でも麦の穂を摘んで良いし、他人の畑の収穫物も盗んで食べて良いとしました。また目の前に即座の癒しを必要とする人がいた場合に、安息日でも医療行為を行いました(マルコ2章23節-3章6節)。彼の安息日規程違反は、隣人に仕えるという目的を持っていました。「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」(マルコ2章27節)。これはイエスによる人権宣言です。十戒の「安息日を守ること/覚えること」は、イエスのこの言葉から解釈されるべきであり、それは本来の律法の趣旨にのっとってもいます。

 安息日は相手の宗教行為を嘲るためにもなく、相手の宗教行為の不備を指摘するためにもないのです。あなた自身が休むために、癒されるために安息日はある。礼拝だけをしてその他のことから暇になる、癒される、休むことが安息日の目的です。わたしたちが日本一暇な教会を目指すゆえんです。

 この意味で全会衆が「彼を守りの中に休ませた」(34節)ことは示唆に富みます。逮捕・拘束・拘留・監禁という厳しい処置というだけではなく、安息日規程の趣旨「休むこと」がこの男性に義務付けられているとも言えるからです。また、全会衆が謙虚に「自分たちには判断できないことがある」ということを認めていることも重要です。荒野においてはヤハウェ神のみが王、ヤハウェ神のみが裁判官・統治者です。

 その一方で神の死刑判決と、それに基づく全会衆の行動は不可解です(35-36節)。というのもナザレのイエスが冤罪をかぶせられ死刑囚として殺された救い主キリストだからです。受難節に入っていますが、わたしたちは十字架を記念するたびに、死刑制度というものの危うさを覚えるものです。「あなたがたのうちの罪の無い者が最初に彼女の上に石を(一回)投げよ」(ヨハネ8章7節、私訳)という言葉が、死刑制度に対するわたしたちの解釈原理です。死刑囚にも人権があり、手続適正な裁判の判決にさえも誤りがありうるのです。

 「宿営の外」(36節)での石打刑にこだわる姿勢は、死体が宗教的に穢れているという観念と、次の話題「聖なる者たち」(40節)と関わります。浄不浄は一対のものだからです。

37 そしてヤハウェはモーセに向かって言った。曰く、 38 「貴男はイスラエルの息子たちに向かって語れ。そして貴男は彼らに向かって言え。そして彼らの代々にわたって彼らは彼らのために彼らの衣服の隅に房を作らねばならない。そして彼らは隅の房の上に青い紐(を)与えなければならない。 39 そしてそれが貴男らのための房にならなければならない。そして貴男らはそれを見なければならない。そして貴男らはヤハウェの全命令を思い出さなければならない。そして貴男らはそれらをなさなければならない。そうすれば貴男らは貴男らの心の後ろを、また貴男らの眼の後ろを探求しないだろう。そしてそれは貴男らがそれらの後ろを慕っているものなのだが。 40 貴男らが思い出すために、貴男らは私の全命令をなす。そして貴男らは貴男らの神のための聖なる者たちになる。 41 私はヤハウェ、貴男らの神。貴男らのための神になるために、私が貴男らをエジプトの地から導き出した。私はヤハウェ、貴男らの神

 」(38節)は大祭司の服の色です(出28章31節)。またヤハウェの箱の上にかける布の色です(民4章6節)。正確には青紫色ですが、神聖な色とされています。この神聖な「青い紐」が「衣服の隅の房」に授けられます。これは「見なければならない」(39節)全会衆のための目印です。目印は、「ヤハウェの全命令を思い出」すため、「それらをな」すためにあります(39節)。「そして貴男らは貴男らの神のための聖なる者たちになる」のです(40節)。聖なる者たちの意味は、特別な民、「神の民」といったものです。ここにイスラエルの悪い意味の選民意識や、民族主義が醸成される苗床があります。宗教がそれらに一役買うという課題が見えます。

 ナザレのイエスは、律法学者たちやファリサイ派の「衣服の房を長くする行為」を公然と批判しました(マタイ23章5節)。自分たちが、他の人よりも神聖な者・宗教的な意味でより優れた特別な存在であることを、見せびらかすことを批判しました。宗教的な権威主義です。バプテスト教会には平服を用いる教役者が多いのはイエスの批判精神と関わります。外観で威張るのではなくむしろ仕える人となれとイエスは続けています(同11節)。神の民が特別なのは、ただ一点、世の中と異なる倫理で生きているということにあります。神に仕え、隣人に仕えるということを第一に生きるという価値観です。礼拝をして神に仕え、礼拝の中で互いに給仕をして隣人に仕えるという実践です。

 神に仕え・隣人に仕えるために何が必要なのでしょうか。41節が鍵です。繰り返される「私はヤハウェ」は神の自署捺印のような表現です(レビ記17-26章)。この神のサインに挟まれている部分に神の最も伝えたいことが示されています。「貴男らのための神になるために、私が貴男らをエジプトの地から導き出した」という事実です。この言葉も十戒の前文と響き合っています(出20章2節)。神聖とか特別とかという言葉は、民のものではありません。民が律法を守ることで神聖さが増え、特別待遇感を増してよいというものではないのです。神が民を救ったという出来事、神が「あなたの神になる」と決めてくださったこと、この神聖な決断と特別な行為が先にあるのです。救い主と救いを思い出すならば、威張ろうと思う人はいなくなります。

 衣服の隅の房と青い紐は、この救い主の神聖さと、救いの特別さを思い出すための目印です。だから、自分につける房として考えるのではなく、イエス・キリストにつけられている目印と考えた方が良いでしょう。つまり、出血が止まらないという病気に12年間も苦しんでいた女性が、イエスに触るために目印にした服の房のように考えた方が良いと思います(マタイ9章20節)。イエスは服の房を自分の権威のために見せびらかせません。むしろ救いと癒しの目印として人ごみに紛れさせていました。そして苦しむ人々の中へと飛び込み、ガリラヤ中を歩き回ったのです。「神の国は近づいた。あなたの信があなたを救った」と福音を語りながら、全ての人を神の民になるように招かれました。その人々の神となるためです。

 今日の小さな生き方の提案は、礼拝で休み、礼拝で仕えることです。神が喜ぶ「犠牲」というものは、わたしたちが重荷をおろして休んでいる姿を見せることです。賛美・祈り・聖書によって癒されていく顔です。そして、礼拝の中でわたしたちは仕え合い、晩餐のパンとぶどう酒を分かち合います。平和の挨拶を交わし合い、相手の尊厳を回復し、祝福し合います。安息日は人のために制定されたからです。人が安息日のためにあるのではないからです。

 「わたしはヤハウェ」と自己紹介する神に向かって、「イエスは主。イエス・キリスト、神の子、救い主」と共に信仰の告白をし、共に賛美を捧げましょう。この一点を常に思い出すことで、わたしたちは威張ること・見下すこと・支配しようとすることから解放されます。そして「あなたの信があなたを救った。平和のうちに帰りなさい」という言葉を聞き取りましょう。