1 これらの事々の後、アテネから離れて彼はコリントの中へと来た。
パウロはアテネの教会をディオニシオとダマリスに任せて、コリントの町へと向かいます。巻末の聖書地図8に、アテネとコリントの位置関係が示されています。道のりにして西へ100kmほどでしょうか。ローマは前146年にコリントの町を徹底的に破壊した後、ローマ風に新たに建て直し、ローマの植民市にして、アカイア地方の政治経済の中心地・首都にしました(前27年)。フィリピと同じように、ローマ市民である退役軍人が多く住む、ローマ風の町です。後44年以降はローマ総督が駐屯しています。
後51年コリントに来た当初の様子をパウロは自分で次のように記しています。「私もまた、弱さと、そして多くのおののきの中にあって、あなたがたのところに行ったのである」(コリント人への第一の手紙2章3節。青野太潮訳)。パウロは元々体の弱い人であったと推測されます。隣人の助け無しには伝道活動はできません。そして彼は弱い時にこそ強いという不思議な魅力を持っていました。テモテとシラスという同労者たちがいない状況で、正にその切羽詰まった状況で新しい同労者が与えられます。ピンチはチャンスです。
2 そして生まれにおいてポントスの、最近イタリアから入って来たアキラという名前のとあるユダヤ人と、彼の妻プリスキラとを見つけて――クラウディウスがすべてのユダヤ人をローマから離すことを命じたことによる――、彼は彼らに向かって来た。 3 そして同業であることにより彼は彼らのもとに留まり続けた。そして彼は働き続けた。というのも彼らはその業において天幕製作者であり続けていたからだ。 4 さて彼はすべての安息日に会堂において論争し続けた。彼はユダヤ人もギリシャ人も説得し続けた。
パウロはコリントの町で、自分を泊まらせてくれるユダヤ人を探します。徒歩100kmは二日がかりの旅です。へとへとになった体で、ユダヤ教正統の会堂を探します。会堂の周りにユダヤ人が多く住んでいるからです。コリントの町の中に会堂があったことは考古学的に確認されています。フィリピほどローマ帝国直轄ではなかったので、「境壁法(外来宗教の施設は市外に建てられなくてはならない)」が厳格に適用されなかったのでしょう。それほどにユダヤ人が多く住んでいたとも考えられます。パウロはコリントの町の中にあるユダヤ人街で、プリスキラとアキラというユダヤ人夫婦を見つけ出しました。
アキラは元々ポントスで生まれたと言われています(2節)。ポントス地方は小アジア半島の黒海沿岸地域で、ユダヤ人が多く住んでいた地方です。そこでパウロと同じように親の代から主にローマ軍相手に天幕づくりをしていたのでしょう(3節)。アキラもパウロ同様生まれながらにローマ市民であったと思います。パウロは律法学者を目指してエルサレムに行きますが、アキラはローマで一旗揚げようと引越をします。首都で軍用テントを作り売る、その方が儲かると考えたためです。ローマにもユダヤ人は多く住んでいました。ローマでプリスキラと結婚したのかもしれません。
おそらく二人はローマでユダヤ教ナザレ派(キリスト教)に転向しています。本日の箇所でパウロが二人にバプテスマをしていないのですから(一コリント1章14節以降参照)、この夫妻はすでにキリスト者であったと考えられます。ローマにはパウロ無しに教会がありました。わたしたちはパウロが歩いたところにだけ教会が創設されていったという思い込みから解放されるべきです。パウロが後に自身行ったことのないローマ教会に手紙を書いている通りです。夫妻は、ローマで「家の教会」を主宰していたのでしょう。
ローマの歴史家スエトニウスは「クラウディウスがすべてのユダヤ人をローマから離すことを命じた」(2節)の裏付けとなる出来事を記しています。「(クラウディウス帝は)ユダヤ人どもを、クレストゥスの扇動のもと絶えず騒乱を起こしていたため、ローマから追放した」。ここでクレストゥスとあるのが、キリストのことです。ナザレ派が主張する「キリストはイエスだ」ということを巡って、ユダヤ教正統との対立が絶えないことにうんざりして、ローマ皇帝がユダヤ人を首都ローマから追放したというのです(後49年)。
アキラとプリスキラ夫妻は、おそらく後50年頃コリントに移住してきたばかりなので、まだコリントではナザレ派と公言し、家の教会を主宰するまでに至っていなかったのかもしれません。二人だけで「イエスが主である」と告白する礼拝をしていたのでしょう。そこにパウロとの出会いが与えられます。同じような人生経路を辿ったパウロとアキラは意気投合したことでしょう。直後にはステファナ一家(一コリント16章15節)も合流したかもしれません。こうしてパウロ系列コリント教会がプリスキラとアキラの自宅で始まります。
夫妻とパウロは平日天幕づくりに勤しみます。皮をなめして、切って、縫い合わせるという重労働です。パウロという人は、現代流に言えば「兼職牧師」です。手に職を持っていてローマ帝国内ならば自活できるのです。パウロはコリント教会から生活の資を得なかったことを自慢してもいます(二コリント12章9節)。特に夫妻の家は遠慮なく昼夜を分かたず仕事ができます(一テサロニケ2章9節)。同業者だから、天幕を作る作業場が自宅にあります。かなり仕事が捗り、営業利益も悪くなかったと思います。プリスキラとアキラが同業者であり同信の友であるということがパウロを助け(食・住)、パウロを助けることがコリント教会をも助けました。説教者が常にいるからです。
毎週土曜日の朝は、ユダヤ教正統会堂に行き、論争をしかけます。そこにはユダヤ人と、ユダヤ教に好意的なギリシャ語圏の人々がいます。ギリシャ語を使うローマの退役軍人もいます。パウロの聖書解釈に興味をもった人が、アキラとプリスキラの家の教会に日曜日の夕方仕事が終わった後に訪れます。天幕づくりの仕事を日曜日だけは早めに終えて、三人は新来者・求道者を迎え入れます。そのような忙しく楽しい毎日を過ごしていた時のことです。
5 さてマケドニアからシラスもテモテも下って来た時に、パウロはその理に専念し続けた。ユダヤ人たちにキリストはイエスであると証言し続けながら。 6 さて彼らが反対したので、また冒涜したので、(彼は)衣服を払い続けて、彼は彼らに向かって言った。あなたたちの血はあなたたちの頭の上に(あれ)。わたしは清い。今からわたしは諸民族の中へと行く。 7 そしてそこから離れて彼はティティオ・ユストという名前の人の家の中へと入って来た。(彼は)神を敬っている、(そして)彼に属する家はその会堂に隣接し続けているのだが。
テサロニケ教会に手紙を運んでいたテモテと、シラス(アテネからフィリピ教会/ベレア教会に戻っていたか)がコリントに来ます。二人はテサロニケ教会・フィリピ教会・ベレア教会といったマケドニア地方の諸教会の献金を携えていました(二コリント11章9節)。それはパウロたちの伝道の旅を支えるために捧げられた寄付です。ここでパウロは天幕づくりを休みます。福音の宣教、聖書解釈に没頭し、ユダヤ人たちの説得に力を傾けます。毎週の安息日のために特別に準備をするわけです。「ユダヤ人が今も待望しているキリスト(救い主)は、実はすでに来られたナザレのイエスなのだ」(5節)ということを、いかに説得的に論証できるか。ここに力を込めるのです。
しかし、どうでしょうか。肩の力を入れて準備すればするほど空回りすることもあります。反応は今一つ、いや今一つどころか、さらに相手の態度を固くさせただけでした。ユダヤ人たちは反対し冒涜したとあります。「キリストはイエスではない」と言われたのでしょう(6節)。パウロは逆上し、今からは非ユダヤ人だけに伝道すると宣言していますが、この後にも会堂で伝道しています(19章8節)。この激越で反ユダヤ主義に悪用されるようなパウロの言葉は、「売り言葉に買い言葉」的な一過性の瞬間沸騰でした。ユダヤ人への論証はパウロのライフワークですからパウロは冷静になって考え直します。
プリスキラとアキラ夫妻に主導されているコリント教会は、改めて新たな伝道方法を講じます。プリスキラたちの自宅から、家の教会の場所をティティオ・ユストという非ユダヤ人信徒の自宅に変えたのです。ユストは神を敬う/畏れる人(7節)で、ユダヤ教に好意的でしたから会堂に出入りしていました。そしてパウロの「説得」(4節)に応じてナザレ派に入信していたのでしょう。ユストの自宅は会堂の隣にありました。すでに近所の会堂長クリスポと仲良しです。コリント教会は、教会が丸ごと会堂の隣に移るという伝道手法を発案しました。喧嘩っ早いパウロは安息日礼拝から離れます。ただユストとクリスポの信頼関係neighborhoodに期待して「日曜日の夕方は隣の教会(ナザレ派礼拝)へ」とユダヤ人たちに働きかけました。誰がキリストかという論争ではなく、自ら隣人になるという道に賭けたのです。
8 さて会堂長クリスポは主を信じた、彼の家の全てと共に。そしてコリント人の多くは聞いて、彼らは(続々と)信じた。そして彼らは(続々と)バプテスマを受けた。
すると正統ユダヤ教会堂の管理者であるクリスポと、その家に属する全ての者(家族、労働者)が、ユストの家に通い始め「キリストはイエスである」と信じ、バプテスマを受けました(一コリント1章14節参照)。クリスポの決断は、思想信条の転向というだけではなく、ユダヤ人街における自分の名誉や影響力が減少することを伴うものでした。ナザレ派の一員になった以上、正統ユダヤ教の名誉職、会堂長であり続けることは困難でしょう。彼はソステネ(17節)という人物に会堂長の地位を譲っています。
クリスポの入信はコリントの人々にとって衝撃的でした。会堂長は名望家です。ユダヤ人社会の第一人者が、その地位を投げうってまでもナザレ派になるということは、ナザレ派こそユダヤ教正統なのではないかという考えすら浮かんできます。「パウロの言葉」(新共同訳)ではなく、クリスポの入信の出来事を「聞いて」多くのコリント住民は続々と信じ、バプテスマを受けていったのでしょう。ここにはユダヤ人もギリシャ人もローマ人もいたはずです。「信じた」「バプテスマを受けた」の時制は未完了過去。過去の一定期間の継続的動作ですが複数人によってなされる場合もあります。切れ目なく続々と、一生に一回のバプテスマが行われ続けたのです。隣人になるという、キリストに倣う愛の行為が、キリスト信徒を増やしていきました。
今日の小さな生き方の提案は、型を持ちながら型を崩すこと、絶え間のない柔軟な改善努力です。コリント教会はパウロから精神的に独立していたように思います。伝道初期からパウロという「一つの権威」に従わないで、柔軟にいろいろなことに挑戦する気風が見えます。兼職牧師、専業牧師、礼拝場所の移転、目まぐるしい展開です。当時のギリシャ最大の都市でもあり、さまざまな人が行き交う土地柄も作用しているのでしょう。クリスポらユダヤ人もコリント化しています。権威主義の衣を脱ぎ捨てて課題を克服していくのです。ここにわたしたちの模範があります。軽やかに翻りながら行きましょう。