待降節・アドベントの第二主日となりました。普段通りにヨハネ福音書を少しずつ、クリスマスの出来事という視点で読み進めていきます。今日の聖書箇所をクリスマスの視点で読むというのは、アブラハム・サラ・ロトたちは、東方の博士たち(マタイ2章)に似ているとみなして読むことです。今日は、この視点に立ってヨハネ福音書を読んでいきましょう。
まず翻訳/本文の問題です。39節「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ」には別の写本による異なる読みが存在します。それは「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をせよ」という読みです。細かい議論は省きますが、後者の命令の形が元来の本文である可能性が高いと言えます。イエスは単純に「アブラハムの子孫であると自慢するのなら、アブラハムと同じことをしてごらんなさい」と言います。神の子ならば神と同じことをしなさいという言い方と似ています。そこでアブラハムと同じ行いとは何かが問題となります。それがわたしたちの模範となるでしょう。
先週はいささか否定的にアブラハムの生涯を紹介しました。決して褒められた人ではなかったけれども、ただ神の恵みにより信仰により自由とされたのだと申し上げました。今日はもう少し肯定的にアブラハムのしたことについて考えてみましょう。
なお、わたしはアブラハムのみが常に名前を挙げて取り上げられ、彼の妻二人(サラとハガル)や甥のロトがしばしば省かれることに批判の目をもっています。「アブラハムの神・イサクの神・ヤコブの神」という言い方は決まり文句ではありますが、いかにも家父長制的(嫡出子重視)な紋切り型であって、その言い方だけを前面に出すことは現在の伝道・教会形成には好ましくないと考えています。神は、サラやリベカの神・ロトやその娘たちの神・ハガルやイシュマエルの神でもあります。そう考えることによって、家父長制や性差別、ユダヤ選民思想や民族差別などが乗り越えられると信じるからです。ちなみにイスラム教徒たちはアラブ民族の祖先をハガルとイシュマエル親子に求めています。彼らもアブラハムの子です。
創世記11:27から、アブラハム・サラ・ロトの物語が始まります(旧約15頁)。アブラハムの父親は彼らを引き連れてカルデアのウルから西に向かってハランというところまで旅をします。父親のテラがまだ生きている間に(11:26、12:4参照)アブラハム・サラ・ロトは、「父の家」を棄てて約束の地に向かって旅をします。神が命じたのは「生まれ故郷」ではない方角(つまり西へ)でした。アブラハムたちはカナン地方(現在のパレスチナ)に入り、南へ進みネゲブ地方に移住します(12:9)。そこで彼らは犠牲獣を捧げるための祭壇を築き、主の名を呼びます。それは礼拝をしたという意味です。
東の方から来た占星術の学者たち(マタ2:1-12。新約2頁)とアブラハム一行は似ています。まず出身地が同じ、道のり経路が同じです。パレスチナから東方にはメソポタミア地域が広がります。メソポタミアは人類文明の発祥地であり天文学が極めて盛んな場所でした。その中のウルは最古の四大都市の一つです。ハランには月の神シンがいて崇拝の対象となっていました。占星術の学者たちはメソポタミアから来たのです。
だから当然、彼らはパレスチナから見て外国人です。イエスをユダヤ人の王として認めた最初の人々は外国人でした。先週申し上げたとおり、アブラハムたちは決してユダヤ人ではありません。当時のパレスチナの定住者カナン人から見て東方から来た外国人です。
学者たちは星に導かれてイエスのもとに来ます。アブラハムたちは神の言葉に導かれて約束の地に入り、そこで約束の子どもが生まれるのを待ちます。この外国人たちは赤ん坊に会うために旅をしているという点で共通しています。
学者たちはイエスを礼拝するために旅しました。すでに名づけられているイエスの名前を呼び拝みます。黄金・乳香・没薬という捧げ物を贈ることは、犠牲を払うという礼拝の本質をふまえています。同じようにアブラハムたちも主の名を呼ぶ礼拝行為を、祭壇への捧げ物と同時に行なっています。
マタイ福音書は好意的に学者たちを描いています。外国人が最初の礼拝者であったということが模範的に描かれています。それはアブラハムたちの行いが模範的であることと重なります。それこそ、イエスが今日の箇所で、「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をなせ」と命令している模範なのです。クリスマスの視点で読むときに、アブラハムたちの何を模範にすべきかが明確となります。東方からの外国人礼拝者と似ている部分がわたしたちの模範です。
イエスは「あなたたちはアブラハム・サラ・ロトのように、生まれ故郷を棄てることができるか」と問うています。地縁というしがらみを相対化できるか、突き放して考えることができるかと問うています。ユダヤ地方に住むユダヤ人にはなかなかそれができません。ガリラヤ地方を差別するのは、その地縁重視の裏返しでしょう。エルサレム神殿のあるシオン山でもなく、サマリア地方のゲリジム山でもなく、ガリラヤを旅するイエスと共に歩くなら霊と真理の礼拝をいつでもできる、そのためには地縁なんぞというものにこだわるな、共に旅をしようとイエスは招いておられるのです。
住んでいる場所によって一票の価値が変わることは不平等です。土地と個人と比べれば大事なのは個人です。地域代表は地域利益誘導と結びつきやすいので問題です。国会議員は全体の奉仕者であるべきです。わたしたちは郷土愛という「プチ愛国心」を克服しなくてはいけません。
イエスは「あなたたちはアブラハム・サラ・ロトのように父の家を棄てることができるか」と問うています。この箇所で「父の家」は二重の意味を持ちます。一つはユダヤ選民思想に基づく民族主義を指す表現であり(41節)、もう一つは「虚つきという悪魔の父親」という意味です(44節)。
ユダヤ人たちは他の民族はすべて不正な性行為から生まれ、自分たちは正当な性行為から生まれたと考え、他民族を差別していました。そして性行為によらずに創られたアダムに遡るのだから、唯一の父として神がいると考えていました。ここに選民意識と民族主義が現れています。それらを、女性差別を前提にした家父長制度が強化しています。最初に生まれた男性を優遇することと、唯一の父は神という考え方は相性が良いのです。「天皇の赤子」と似た発想です。
アブラハム・サラ・ロトはそのような「父の家」=家父長制度から脱出したのです。長男のアブラハムはおそらく父テラと大喧嘩して勘当されたのでしょう。男子を産めないサラは「父の家」でひどい扱いを受けたことでしょう。最大の保護者である父親を早く亡くしたロトは「父の家」で苦労を重ねたことでしょう。アブラハムたちは血によって自由となったのではなく、血の縛りから自由となったのでした。これが「父の家」の持つ一つ目の意味です。
だからイエスは血縁というしがらみを相対化するようにと招いています。ユダヤ人というくくり、血族・親族・家族というくくり、これらは決して神ではありません。絶対的なものではありません。家族は大切ですが絶対的なものではないという理性が必要です。むしろ血縁によらずに、信頼による交わり・共同体を共につくろうとイエスは招いています。イエス自身も弟たちとの間に葛藤を抱えていました。
「父の家」のもう一つの意味は、「虚つきという悪魔の父親」の意味合いです。イエスは、ユダヤ人権力者たちに(31節は冠詞付きの「ユダヤ人」なので「ユダヤ人権力者」の意味)、「あなたたちの父」(41節)は、「悪魔である父」(44節)であって、「悪魔の父親も嘘つき」(44節)であると言います。イエスの言いたいことは、悪魔というものは人殺しを人にさせる誘惑者であり、あなたたちがわたしを殺そうとしている限り、それは悪魔から出ている陰謀である、アブラハムはそのようなことをしない人だから、あなたたちはアブラハムの子ではなく悪魔の子だということでしょう。
ここには神話的な言い方があふれています。擬人化された悪魔とは誰かなどと詮索してもあまり意味がありません。これは古代の表現なのです。当時の言い方として悪魔・悪霊としか言いようのない事柄があるということです。聖書の中には悪魔が登場人物として現れることがあります。その時には神話的な言い方を古代の人はするものだと思うだけで良いのです。
「人殺しを企む者は悪い」ということがイエスの言いたいことです。その人たちは「神に属していない」(47節)と言いたいのです。なぜなら聖書の神は、アブラハム・サラ夫婦にいのちを与え、いのちを祝福し、「生きよ」と命じる神だからです。個人であれ、国家であれ人殺しはしてはいけない悪です。神は生きているものの神であり、すべての生けるものを自由にする神です。
「嘘つきは泥棒の始まり」と言います。それと似たような言葉が44節の後半にあります。新共同訳は「悪魔が偽り者の父親」と解釈しますが、原文は逆です。「悪魔の父親もまた嘘つき」と書いてあります(田川建三訳)。イエスは悪魔という登場人物に新たに悪魔の父親として嘘つきという登場人物を加えています。嘘つき→悪魔→ユダヤ人権力者たちという系図を描き出しています。そうすることによって、「嘘が殺人の始まりだ」ということを教えているのです。
子どものつく可愛げのある嘘や、相手を思いやるためのwhite lieなどを罪と定めるのは酷です。しかしそれ以外の大方の嘘は原則的に卑怯な行為であり、相手をだます詐欺です。東方の学者たちがヘロデ王に嘘をつかれだまされたことを思いだします。そして平気で嘘をつく権力者がベツレヘム村の二歳以下の男の子をすべて虐殺したことを思い出します。嘘は殺人の始まりです。
イエスは「嘘つきという悪魔の父の家を棄てなさい」と招いています。それは罪の生き方を悔い改めることです。不誠実な生き方を変えて誠実な人生を始めなさいと教えておられるのです。ユダヤ人権力者たちはこの招きに応えずに、嘘で固めた裁判によって冤罪をかぶせてイエスを処刑したのでした(46節)。
わたしは特定秘密保護法を成立させた政治家一人ひとりにユダヤ人権力者の姿を重ね合わせています。そして、嘘で固められて強引に成立させられた、この法律は必ず「国家による殺人」へと導くことを暗い気持ちで確信しています。無数の義人が冤罪を被るだろうし、無数の民が米軍と一緒に世界中戦争して回るようになるでしょう。古代人ならば自公連立政権は悪魔・悪霊としか表現できません。衆議院の委員会審議や強行採決の様子、さらに悪質になった参議院の委員会審議や強行採決の様子を何度も見ました。まったく議論を深めようとしない傲慢な者たちに憤りを感じています。それは神の語る真理の言葉を聞こうとしない姿です(40・43・46-47節)。
アブラハム・サラ・ロトは神の言葉を聞いて、それに信頼し従いました。博士たちも、神の言葉を聞いてヘロデ王のところに寄らずに帰りました。ここにわたしたちの模範があります。信仰/信頼は聞くことから始まるのです。神の声・隣人の声を謙虚に聞きましょう。そして聞こうとしない人たちを裁きましょう。この季節、聞くということに努めて毎日を過ごしていきましょう。