アロンの杖 民数記17 章16-26節 2024年5月12日礼拝説教

 コラとダタンとアビラムとオンの反乱物語は続いています。コラはレビ部族出身、ミリアム・アロン・モーセ姉弟の従兄弟にあたる人物です。コラは特に大祭司アロンに対して嫉妬を感じていたと思われます。ダタンとアビラムとオンはルベン部族出身です。おそらくはレビ部族の姉弟が指導者であることに、直系長男の部族である三人は反感を持っていたと推測できます。反乱者たちはヤハウェ神によって処罰されました(16章)。このヤハウェの処罰に批判をした者たちもヤハウェに処罰されました。ただし、大祭司アロンはこの処罰を途中で差し止めました(17章1-15節)。一連の物語は、なぜレビ部族が指導者なのか、なぜレビ部族の氏族中傍系であるアムラムの家系の長男アロンがイスラエルの大祭司なのかという問いを発しています。本日の物語は、今までの続きであり、これらの問いに対する答えです。

16 そしてヤハウェはモーセに向かって語った。曰く、 17 「貴男はイスラエルの息子たちに向かって語れ。そして貴男は彼らと共なるところから杖(を)取れ。彼らの指導者たち全員から父の家ごとに杖(を)、彼らの父たちの家ごとに十二の杖(を)。各々彼の名前を彼の杖の上に貴男は書け。 18 そしてアロンの名前を貴男はレビの杖の上に書け。なぜなら一つの杖が彼らの父たちの家の頭に属するからだ。 19 そして貴男は会見の天幕においてそれらを置く。私が貴男らとそこで相見える証(の箱)の面前で。 20 そして私が選んだその男性(に)起こるのだ。彼の杖が芽吹く(ということが)。そして私はイスラエルの息子たちの諸々の不平を私の上から和らげる。それは彼らが貴男らの上に置いた不平なのだが。」 

 今回はヤハウェ神からの提案です。モーセのみに語っているようにも読めますが、一歩下がったところにはアロンが陪席しているように読めます。「貴男ら」とあるからです(19・20節)。民の「不平」によってひどく傷つけられたアロンの名誉を、神は回復しようとしています。奇跡的な超常現象を起こすことによって神がアロンを大祭司として選んだということを確認しようというのです。神の選びが問いに対する答えです。もちろん籤を引いても同じことですが、籤よりもユーモラスな出来事によって、神はアロンの大祭司職を正当化します。それが「」の奇跡です。アロンの杖だけが「芽吹く」(20節)のです。死んだ木である杖が命を宿す奇跡は神にとってニッコリ笑えるユーモラスな現象なので、「不平」に対する怒りが宥められるということです。

 「」(マッテー)という言葉には「部族」という意味もあります。杖が象徴することはイスラエルの諸部族です。「イスラエル」には世俗の部族として「十二」(17節)の部族がありました。荒野の旅におけるグループごとに並べれば、①ユダ・イサカル・ゼブルン、②ルベン・シメオン・ガド、③エフライム・マナセ・ベニヤミン、④ダン・アシェル・ナフタリです(10章13-28節)。世俗の十二部族のほかに、「聖なる部族」・宗教祭儀を司る部族として一部族ありました。「レビ」(18節)です。荒野の旅の順番では、①グループの一番後ろにレビ部族の長男氏族ゲルション・三男氏族メラリが歩き(10章17節)、②グループの一番後ろにレビ部族の次男氏族ケハトが歩いていました(同21節)。②グループにはルベン部族もいます。ちなみに、ミリアム・アロン・モーセも、コラもケハト氏族の出身です。ということは、コラ・ダタン・アビラム・オンと、ミリアム・アロン・モーセは近くを共に歩き、隣接した天幕で寝泊まりをしていたということです。

 世俗の十二部族の「指導者」(17節)または「父たちの家の頭」(18節)の「名前」(17節)は、おそらく1章5-15節に挙げられている人々でしょう。その十二人は自分の持っている杖をモーセに提出させて、モーセに各人の名前を書けというのです。「杖の上に書く」(17・18節)ということは、実際は木製の杖に自分の名前を彫り刻んだということです(ギリシャ語訳参照)。

聖なる部族である「レビ」の場合は、なぜか次男氏族であるケハト氏族のアムラム家の「アロン」の名前を刻むように、特別な指示が出されています(18節)。長男氏族ではないのですから、神がアロンを特別に選んだということが示されています(20節「私が選んだその男性」)。

杖の一番太くなっている部分が刻み易いことでしょう。アロンと十二人の指導者は丁寧に刻んでいきます。線文字アルファベットであるフェニキア文字の発明前ですから、原シナイ文字と呼ばれる象形文字だったのでしょうか。彫るのは大変です。世界に一本しかない彫刻が施された杖を、モーセは集めて「会見の天幕」の中にある「証(の箱)」の前に置きます(19節)。 

21 そしてモーセはイスラエルの息子たちに向かって語った。そして彼らの指導者たち全員は彼に向かって、一人の指導者に属する杖(を)与えた。一人の指導者に属する杖(は)彼らの父祖たちの家ごとの十二の杖。そしてアロンの杖(は)彼らの杖の真ん中に。 22 そしてモーセはその諸々の杖を証の天幕においてヤハウェの面前に置いた。 23 そして翌日以降となった。そしてモーセは証の天幕に向かって来た。そして見よ、レビの家に属するアロンの杖が芽吹いた。そして芽が出た。そして花が花咲いた。そしてアーモンドが実った。 24 そしてモーセはヤハウェの面前から諸々の杖の全てをイスラエルの息子たち全員に向かって出させた。そして彼らは見た。そして各男性は彼の杖を取った。

 モーセは六本の世俗部族指導者の杖を並べ(①②グループ)、アロンの杖を並べ(ケハト氏族)、さらに六本の世俗部族指導者の杖を並べます(③④グループ)。「アロンの杖」を「真ん中に」した合計十三本の杖が証の箱(ヤハウェの箱)の前に並べられました(21節)。本文は杖の合計数が十二本か十三本か曖昧ですが、アロンの杖が真ん中になるためには合計が奇数でなくてはなりません。「置く」(19・22節)は「休む」という意味合いですから、杖は立っていたのではなく寝かせられた状態で並べられたと考えられます。そうであれば余計に奇数でなくては真ん中にならないのです。この並べ方により、イスラエル全体のいつもの歩き方と泊まり方が意識されます。

 モーセは証の箱が置かれている会見の天幕を離れて、自分の天幕でその夜を過ごします。次の日の朝モーセは会見の天幕に入り、ヤハウェの箱の前にある十三本の杖を見ます。真ん中にある七本目の杖にだけ異変がありました。「アロンの杖が芽吹いた。そして芽が出た。そして花が花咲いた。そしてアーモンドが実った(23節)」。それぞれに名前が彫り込まれているので、間違えることはありません。同じ「芽⇒花⇒アーモンド」とは考えにくい叙述です。そんなに長い時間をモーセは観察できないでしょう。そうではなく、一つの杖から、別の芽や花やアーモンドがニョキニョキと出ていたのだと思います。不思議な奇跡であり何とも明るい兆しです。

 さらにこの奇跡は神自身の予告以上の結果です。神は「杖が芽吹く」(20節)とだけ予告していました。しかしその結果は、一夜にして杖から芽や花や実が出てきたのです。「地は自ずから実を結ばせる」(マルコ4章28節)というべきでしょうか。種を蒔いた農夫でさえ、実るまでの過程をよく知らず成果について驚くという類の出来事が、「神の支配」というものなのです。つまりアロンの杖を見たモーセも、またヤハウェの神も、「おお、すごい」と唸り、満面の笑みで拍手を送ったに違いありません。

 喜ぶモーセはイスラエルの民全員に、十三本の杖を見せます。民は驚きます。アロンの杖だけが華やかに装飾され、まるで生の木の枝のようです。『こどもさんびか』85番の1節を思い出します。「イエスのになった十字架は 命の木となり よい実をむすぶ」。世俗の十二部族の指導者たちは、自分の名前入りの杖を持ち帰り、それぞれの部族を率いて自分の天幕へと帰っていきます。帰り道、特にルベン部族の者たちは、レビ部族との競合を止めることを心に期します。レビ部族の中の長男氏族ゲルションの者たちも、次男氏族ケハトの者たちへの競合を止めることを、さらにケハト氏族の中の他の家の者たちもアロンの家系に対する競合を止めることを心に期します。彼らの心の中にも、何かが芽吹き、花咲き、実ったのでした。それは悔い改めの実です。

25 そしてヤハウェはモーセに向かって言った。「貴男はアロンの杖を、反乱の息子たちのための象徴として守るために、証(の箱)の面前に戻せ。そうすれば私に接するところからの彼らの不平は止む。そうすれば彼らは死なない。」 26 そしてモーセは、ヤハウェが彼に命じたと同様に行った。彼はそのように行った。

 こうしてアロンの杖は「不平」というものを止める「象徴」、民が「死なない」ための「象徴」となります(25節)。「不平」は、非難・悪口・誹謗・中傷・罵詈雑言・憎悪表現とも言い換えられます。それが死に至らせるというのですから、不平もまた罪の一形態です。一連の物語は、権威主義(威張ること)と嫉妬からくる競合を罪として批判し、読者に警告しています。そこにもう一つ付け加わっています。無責任で身勝手な不平もまた罪です。

 不平が罪であるということには現代的な意味があります。SNSという連絡/表現手段は攻撃的な言語を用いる時に罪深いと思います。匿名性をもって無限に増幅し、忘れられない言葉を活字で残し、読者の心を切り刻むからです。不平の逆の行為こそが求められています。アロンは自分に向かって身勝手な不平を言う民のために、自分の責任感から体を張って死者と生者の間に立って、その民を贖ったのでした。その時アロンの手には杖があったのではないでしょうか。ファラオの前にも持参していたのですから(出7章8節以下)。

 さて、ヘブライ人の手紙9章4節に「アロンの杖」が登場します。ヤハウェの箱の中に入れられ安置されていたものが三つあり、アロンの杖と、マナの入った金の壺、十戒の石板だというのです。すべては神の救いの象徴です。十戒は神の意思の啓示、マナは神の養い。礼拝でいえば、十戒は聖書や説教、マナは主の晩餐です。ではアロンの杖は何でしょう。「不平が止む」という救いは、賛美によって実現します。同じ口から呪いと賛美は出てこないからです。礼拝でいえば祈りや会衆賛美です。SNSにおいても良い言葉が満ちれば何も問題は生じません。役に立つ/ユーモラスな諸情報もあるのですから。

 今日の小さな生き方の提案は、不平というものに示される罪から救われることです。責任のある批判は共同体を立て上げます。健全な組織には適度に異なる意見が存在し、互いに尊重し、刺激し合っているものです。それは自分の名前を刻んだ杖をもって行うことに譬えられます。問題となるのは匿名性をもった(または他の誰かの名前を借りた)無責任な非難です。これは共同体を崩してしまいます。「わたしは」という主語を立てて語る時に、責任が自然に重なります。そのような責任ある個人によってなされる賛美と祈りが共鳴し合う時に、ユーモラスな礼拝共同体は荒れ野をも歩きぬくことができます。