はじめに
民数記20章は出エジプトの指導者ミリアムの死に始まり、同じくアロンの死で終わります。二人は年の離れた姉弟です。この二人の死と葬儀を比較するようにと聖書は促しています。死と葬儀の比較は、二人の生き方の比較です。死に様が生き様を表すからです。このことが最も明らかに示されているのは、イエス・キリストの死と葬儀、そして彼の生き様です。彼は十字架で殺され、ヨセフによって葬られ、神によってよみがえらされ、マリアによって復活が証言され、弟子たちよりも先にガリラヤに行かれ、生前と同じくガリラヤで弟子たちと共に朝食を取りました。
旧約聖書の読み方の一つは、メシア的人物を探ることにあります。「メシアが何であるのかは旧約聖書を読めばよい。メシアが誰であるのかは新約聖書を読めばよい」と言われます。メシア、救い主、その諸々の働きについては、膨大な旧約聖書の諸証言に照らして考えるべきです。さまざまな登場人物によって様々な角度で、救い主や救いが証されています。そしてそれらの膨大な証言は、ナザレのイエスによって集中的に示されているのです。
ミリアムもアロンもメシア的人物。キリストをはるかに指さす人々です。
22 そして彼らはカデシュから杭を抜いた。そしてイスラエルの息子たち・全会衆はホル、その山(に)来た。 23 そしてヤハウェはモーセに向かって、またアロンに向かってホル、その山において、エドムの地の境界に接して言った。曰く、 24 アロンが彼の民々に向かって集められるように。なぜなら彼は、私がイスラエルの息子たちのために与えた地に向かって来ないからだ。メリバの水に属する私の口に貴男らが抗ったがために。 25 貴男はアロンを、また彼の息子エルアザルを取れ。そして貴男は彼らをホル、その山(に)登らせよ。 26 そして貴男はアロンを彼の服を脱がせよ。そして貴男はそれらを彼の息子エルアザルに着させよ。そしてアロンは集められる。そして彼はそこで死ぬのだ。
ホル、その山
「ホル、その山」という珍しい表現が三回繰り返されます(22・23・25)。「その山のくぼみ」とも訳しえます。しかしここでは明確に地名です。ホル山の位置はいまだに不明ですが、いずれにせよ、ここにはアロンが死んだ場所への強調があります。26節の「死ぬのだ」は預言の完了という言い切り断定の表現です。直前の「集められる」(未完了)というあいまいな表現から無理に転じています。また同じ26節にある「そこで」は28節にも繰り返されています。これも鍵語です。しかも、28節の「そこで」は文法的には不必要な冗語です。あえて用いて強調しています。まとめると「ホル、その山で、正にそこでアロンは死んだ」と、本文は繰り返し力説しています。
この力みは、ミリアムとの対比を促しています。「そしてその民はカデシュの中に住んだ。そしてミリアムはそこで死んだ。」(1節私訳)。「そこで」がミリアムの死でも用いられています。ミリアムはカデシュという平地に住む民の間で、そこで、死にました。それに対してアロンは、山の頂で弟モーセと息子エルアザルにだけ看取られながら死にました。カデシュは良く知られた場所ですが、ホルは良く知られていない場所です。
人の生死は神の領域です。いつどこで誰のもとに生まれるか、また、死ぬかは神のみが決定しており、わたしたちの意のままにはなりません。神はツァラアト罹患者の預言者ミリアムを隔離せずに民の間で死なせ、預言者アロンを隔離したった二人の近親者の前で死なせます。礼拝指導者ミリアムは衣服を脱がされることなく普段着で死に、大祭司アロンは仕事着である祭司服を脱がされて死にます。
アロンの死に方は神の裁きという側面を持ちます。わざわざ神が「メリバの水事件」(2ー13節)を引き合いに出し、モーセとアロンを批判しているからです(24節)。このように考えていくと、わたしたちバプテストは、この大祭司の服というものを批判的に考えなくてはいけないでしょう。
第一に、ミリアムは女性であるから大祭司になることができないという明確な女性差別を、わたしたちは克服しなくてはいけないでしょう。今もって日本バプテスト連盟において女性が牧師になることが当たり前ではないのですから、これは大きな課題です。第二に、権威を求め、権威主義を身にまとい、威張りたがること、支配欲の頂を目指して競うことが災いであるということです。祭服は権威の象徴ですが、死んだ後に天国に持っていけるものではありません。シナイ山のふもとで金の子牛を担いだアロンは、山の頂/てっぺんを目指してモーセと競合し祭服を得たのだと思います。第三に、垂直ではなく水平の関係が重要だということです。孤高の山の死ではなく種々雑多な民の間の死。山の神ではなく荒野の神への信仰。世襲の大祭司ではなく個人として生きる礼拝者。やはりバプテストとしては、水平の民の交わり、その民の間に宿って旅をし続ける神への信仰、あらゆる権威と距離をおく個人、こちらの方に重心をおく信仰生活が求められています。
27 そしてモーセは、ヤハウェが命じた通りに為した。そして彼らはホル山に向かって全会衆の目のために登った。 28 そしてモーセはアロンを彼の服を脱がせた。そして彼はそれらを彼の息子エルアザルに着せた。そしてアロンはそこでホルの頂において死んだ。そしてモーセとエルアザルはホルから下りた。 29 そして全会衆はアロンが亡くなったということをみとめた。そしてイスラエルの全家はアロンを三十日嘆いた。
アロンの葬儀
モーセは神の命令どおりに行います。エルアザルを呼びつけ、アロンが死ぬ場所まで連れて行くように指示します。27節「彼らは・・・登った」を、サマリア五書は「彼ら(モーセとエルアザル)は・・・彼(アロン)を登らせた」とし、ギリシャ語訳は「彼(モーセ)は・・・彼ら(アロンとエルアザル)を登らせた」としています。アロンを対象語にしていることが重要です。ホル山で死ぬことはアロンの意思ではないのです。ちなみに、アロンはこの時123歳だったそうです(33章39節)。三歳下のモーセは120歳です。
この場面から「イサク奉献物語」を連想します(創世記22章)。エルアザルは高齢の老父アロンの肩を担いでホル山を登り、山の頂で気力も体力も衰えた父の衣服をはぎ取り、そこに放置して、あえて言えば「神に捧げる」のです。そのように甥エルアザルが兄アロンに行うかどうかを、高齢のモーセが見張ります。これは恐ろしい光景です。
ミリアムは葬られました(1節)。しかし、アロンは葬られていません。生きながら置き去りにされたからです。エルアザルは自分の脱いだ服を父親にかけてあげたかもしれませんが、アロンに着せたとは報じられていません。基本的に全裸でアロンは山の頂に放置され、そこで死ぬことを指示されたのです。アロンには逃げる体力もなかったのでしょう。イサクのように縛られる必要も燃やされる必要もありません。神はイサクの時のように介入しません。アロンの代わりに殺される雄羊は登場しません。神もアロンを埋葬しません。
さてアロンと似たような仕方で、モーセもネボ山で死にます(申命記34章)。しかしモーセには約束の地を見渡すという特権も与えられ、まったく一人で山を登る体の自由もあり、気力活力にもあふれ、衣服も脱がされておらず、最終的にはヤハウェ自身が彼をモアブの地の谷に埋葬しています。モーセの死や葬りに比べてもアロンは悲惨です。衣服をはぎ取られていることや葬られていないことは人間の尊厳が奪われていることを象徴しているのです。
どんなに美しく、「大祭司の代替わりの儀式」のように飾り立てても、アロンの死は「処刑」の意味合いを持っています。彼が山に連れて行かれるのも、彼が山に下りて来ないでエルアザルが彼の服を着て山から下りてくるのも、全会衆が目撃し証人となっているからです(27・29節)。また29節だけは「亡くなった(息絶えたの意)」という別の言葉を使っていますから、民はアロンの死が単なる死ではないことを認識しています。この意味で、横死を遂げるアロンは、十字架の主イエスの姿と重なり合います。わが神わが神どうしてわたしを見捨てたのか。十字架で殺されたメシアを「大祭司」と呼ぶことがあります(ヘブライ人への手紙7章28節等)。大祭司アロンの死を考え合わせると、納得できる表現です。
モーセが死んだ際と同じ日数にあたる「三十日」(29節)、民はアロンの死を悼みます。実に儀式的な嘆きです。ミリアムの葬儀には嘆きがありません。慰められることを拒否するほどの悲しみが民の間にあったのでしょうか。それともミリアムの生前のふるまいを人々が思い出して、泣いたり笑ったりしていたからでしょうか。彼女は普段着のまま死に、愛する人々の手によって地面に穴が掘られ、抱き上げられ埋葬されました。人々は死者ミリアムに触れて、七日間「汚れた者」とされました。多くの友人が七日間隔離されることを知っていて彼女を真心こめて葬ったと思います。生前のミリアムは宗教的に汚れた女性たちや、ツァラアト患者たちに、触れ合っていたのですから。彼女が生前愛用した小太鼓が副葬品として、一緒に埋められたことでしょう。彼女は人間らしい死を経験し、個人として尊重されながら葬られています。
モーセとエルアザルは死者に触れていないので、次の日から「聖なる者」として仕事を行うことができます。死ぬ前に脱がされたアロンの祭服は宗教的に汚れていません。エルアザルはアロンから譲り受けた大祭司の衣服を着て仕事を黙々とこなします。この合理性に、やや身震いいたします。ただ、この合理性は生前のアロンの気質そのものなのかもしれません。彼は偏屈な仕事人間だったのかと推測します。「自分が死んでも気にするな。ひたすら前に向かえ。祭司の仕事を停滞させるな。葬儀など面倒なことだ。必要最低限の世話で良い。姉とは違う。誰にも死にざまを見せたくない。」悲惨な死に方というよりも、むしろ神はアロンらしい死に方を用意したのではないでしょうか。
今日の小さな生き方の提案
死に方と葬儀に、その人の生き方が現れます。ひっそりと死ぬ自由、忘れられる自由も人にはあります。アロンは、自分の死を通して言っています。「私を記念するな。私についてあれこれ論じるな。私は自分の力を尽くして神に尽くして生き死んだだけだ。」人付き合いの悪い偏屈、変人でも良いかもしれません。自分らしくありさえすれば神はその人生を良しとしています。豊かな生き方とは自己決定をする生き方だと思います。その延長に死に方があります。誰にも理解されなくても自分だけの聖なるものに拘って生きていきましょう。