イエスのバプテスマ マタイによる福音書3章13-17節 2025年3月9日礼拝説教

はじめに

前回は浸礼者ヨハネの説教の内容を紹介しました。今回は、ヨハネの宗教実践にイエスが応えたという場面です。イエスはヨハネからバプテスマを受けました。この出来事はどの立場の学者からも100%史実であると考えられています。神の子イエスが、なぜ人の子ヨハネからバプテスマを受ける必要があるのかという教理的な問題を引き起こしているからです。イエスのバプテスマは、イエスをキリストと信じるキリスト教から見ると不利な情報です。抜きたくても抜きがたいほどに、当時の読者たちはイエスのバプテスマという出来事を知っていたのでしょう。

なぜイエスはヨハネからバプテスマを受けたのか。キリスト信徒にとってそのことの肯定的な意義は何か。代々のキリスト者たちが葛藤してきたこの難問に、わたしたちもまた取り組みたいと思います。この不可思議な出来事の中にある福音は何でしょうか。

 

13 それからそのイエスは、そのガリラヤからそのヨルダンに面してそのヨハネに向かって彼によって浸されるために、傍らに生じた。 

 

【ガリラヤから】

イエスはガリラヤ地方のナザレに定住していました。なぜ彼は突然、あるいはヨハネが活動を始めた直後に、自らの活動を開始したのでしょうか。弟子たちと共に放浪の旅をするという「神の支配運動」。このことを思い立った理由は何なのでしょうか。

クリスマス物語以降、イエスの父ヨセフは登場していません。イエスの活動(「公生涯」とも言います)開始以前に死んでいたのではないかと推測されています。その一方母マリアは後に息子イエスの弟子となり、初代教会の指導者になったことが記されています。イエスには多くの弟や妹がいます(マルコ6章3節)。すぐ下の弟ヤコブも母と同じ道をたどります。ただし、この母親と弟妹もイエスの活動の中止を求めているところから、十字架・復活以前のイエスの言動について無理解です。イエスはナザレの会堂で毎週礼拝を捧げていたようです。しかしイエスがどのように聖書を読み、何をしていたのかについては、父親の職業が大工だったということ以外は不明です。

イエスはファリサイ派に属していたのではないかと推測する人もいます。ファリサイ派の多くは別に職業を持っていました。大工をしながら律法学者になることも可能です。イエスの語った聖書解釈や譬え話の中には、ファリサイ派のラビの言葉に近いものも存在しています。またイエスの行った強烈なファリサイ派批判も、内部に身を置いたからこそのものかもしれません。

イエスと熱心党(ゼロタイ派)の親近性を見る人もいます。弟子の一人シモンが「熱心党のシモン」と呼ばれているからです。イエスの弟子でありながら同時にゼロタイ派に籍を置くことが可能だったのかもしれません。カトリック教会では「熱心党のシモン」を、イエスの四番目の弟シモンと同一人物とみなしています。イエスの持つユダヤ自治政府批判やローマ帝国批判は、武力革命を目指す熱心党の問題意識と重なるところもあります。

イエスはナザレに在住する厭世的エッセネ派と接触していた可能性があります。エッセネ派が神殿の権威を認めないからです(反サドカイ派)。建物よりも共同生活を重視しています。この態度はイエスと似ています。そして何よりも、イエスがヨハネからバプテスマを受けているので、エッセネ派との近さが推測されます。ヨハネはエッセネ派を飛び出して独自の教団を創設したと思われます。彼はサドカイ派、エッセネ派という経路でヨハネ派を創りました。イエスは、ファリサイ派・ゼロタイ派・エッセネ派の一部を肯定し一部を否定しながら宗教思想(聖書の読み方と生活の仕方)を形成しました。これらはナザレでできることです。その延長線にヨハネのもとに行ったのだと思います。

イエスは思想のうちに「サドカイ派以外の諸派の主張を同時に含むことができる」という信念を持っていたのだと推測します。イエスにとってバプテスマはヨハネ派の一部を肯定し一部を否定し、自らの宗教思想を組み立て上げる行為です。神の前にすべての人が平等であるということと、言論によって公に社会批判をすることを、イエスはヨハネ派から吸収しました。これはナザレではできません。彼はユダヤ地方のヨルダン川流域で活動するヨハネのもとに、一人で旅をします。

 

14 さて彼は彼を妨げ続けた。曰く、わたし、わたしがあなたから浸されるという必要を持っている。そしてあなた、あなたがわたしに向かって来ている。 15 さて答えた後、そのイエスは言った。あなたは今許せ。というのも、このようにすべての正義を満たすことはわたしたちに適切であるからだ。その時彼は彼を許した。 

 

【二人のやりとり】

マタイ版の「イエスのバプテスマ」には、マルコ版に無い、興味深い二人のやりとりが報告されています。ヨハネはイエスのバプテスマ志願を思いとどまらせようとしたけれども、イエスが浸礼執行許可を命じたというのです。またヨハネはイエスに向かって、わたしがあなたからバプテスマを受けたいと志願したというのです。このやりとりの中に、わたしたちにとって有意義な教えが含まれています。

15節「許す」(アフィエミ)は人間同士の許可の際にも、神から被造物への無条件の「赦し」の際にも使われます。また、「そのままにする」「放置する」「棄てる」というように翻訳もできます。英語のleaveのような守備範囲です。この場面は用語面においても、イエスが罪を告白し、ヨハネがその罪を赦すバプテスマを施したかのように見えます。罪のない神の子がなぜそのようなことをと、キリスト信仰を持つ者にこそ理解困難な箇所です。教理から考えるとそうです。しかし聖書は固定化された教理や信条よりも柔軟な本です。時に教理を超えた箇所があるのです。あるいは現代人の目からは人権侵害・法令違反にあたるような箇所もあります。そのような時わたしたちも柔軟に構える必要があります。バプテストは固定的な信条を持たないから、今・ここで、自由に読むことができます。

わたしたちの行っているバプテスマという儀式を思い浮かべましょう。泉バプテスト教会は、信仰告白をして入会を教会から承認された志願者に対して、三位一体の神の名前でバプテスマをし、キリスト信仰への入信と教会への入会を確認・確定します。執行を委託された教会員は(主には牧師ですが必ずしも教役者に限りません)、浸礼者ヨハネの役回りです。本日の箇所に照らすならば執行者は常に「わたしこそがあなたから浸されるべきだ」と、へりくだって相手を自分よりも優れた者とみなす必要があると思います。志願者がこの場面のイエスの役回りでもあるからです。立ち会う教会員もそうです。信仰告白に感動し感銘を受けて入会に賛成した者たちすべてが、「ヨハネによるイエスに対するバプテスマ」という逆転を経験するはずなのです。執行者の謙虚と躊躇に対して志願者が「あなたは今許せ」(15節)と命令する。この不思議な逆転劇の「」という瞬間を喜ぶことがバプテスマの一つの意義だと思います。この自由を喜ぶことが「すべての正義を満たすこと」(15節)です。

 

16 さて浸された後、そのイエスはすぐにその水から上がった。そしてあなたは見よ。その諸々の天が開かれた。そして彼は鳩のような降下し続けている、彼の上に来続けている神の霊を見た。 17 そしてあなたは見よ。その諸々の天から声が言い続けている。この男性は愛すべきわたしの息子である。その彼をわたしは好ましく思ったのだが。

 

【バプテスマ前後】

マタイ版「イエスのバプテスマ」とマルコ版との違いは、構文の整い方にあります。「~し続けている」という現在進行形の動詞が三つ、「そしてあなたは見よ」(新共同訳は「そのとき」)という読者への呼びかけが二つ、きれいに配置されています。バプテスマを受けたイエスの上にいつも神の霊が臨み続けていることに読者は注目し続けなくてはいけません。また、「この男性」(17節。マルコ版では「あなた」)が神の子であると、天からの神の声もまた告げられ続けています。マルコ版ではイエスだけが聞き取りえた神の声を、そこに居合わせた全員が聞こえる公の通知となっています。

マタイによる福音書はクリスマス物語を備えています。イエスが聖霊によって生まれた神の子であることを丁寧に物語っています。だから読者にとって、イエスがバプテスマを受けたことによって初めて聖霊を受けたのでも、またその時点から神の子となったわけでもないということは、明らかです。バプテスマの前にも、イエスの上に聖霊は臨み続けていたし、イエスに向かって神は「愛するわが子」と呼びかけ続けていました。ではイエスのバプテスマにはどのような意味があったのでしょう。

イエスが聖霊と共にいることと、イエスが神の無条件の「然り」を受けていることを、バプテスマは公に周知します。それをわたしたちに引き寄せて考えると、バプテスマを受ける前も後も、聖霊はその人と常に共におられ、神はその人に常に「あなたはわたしの愛する子」と呼びかけ続けているということです。このインマヌエルという救いが、バプテスマの時に公開され公表され周知されるのです。

 

今日の小さな生き方の提案

わたしたちはイエスのバプテスマを真似して、これからもバプテスマをし続けて教会形成をしていきたいと思います。執行者としての教会は常に謙虚で、新しい人が加わる/含まれる度に新しい体になる用意が必要です。教会は救いを与えるのではありません。インマヌエルの神だけが個人に救いを与えることができます。教会はバプテスマを通してインマヌエルの神を公に宣べ伝えます。ではバプテスマを受ける者はどうでしょうか。バプテスマ者は、イエスを真似してバプテスマを受け、そこからインマヌエルを目指して歩き始めます。それはできる限り多くの他人を自分の心に含む営みです。イエスは様々な宗教思想を含もうとする営みをバプテスマで完成しました。わたしたちはバプテスマから開始します。教会の内外の他者を新たに心の中に加え続ける歩みに幸いがあります。