キリスト教信仰の中心はイエス・キリストの十字架と復活です。マルコ福音書が書かれた頃には「イエスの受難物語」は固定化されていました。正午から午後三時ごろまで真っ暗になったということや(33節)、エルサレム神殿の幕が裂けたという超常現象は(38節)信仰の表れです。真っ暗となったということは救い主が来るとされた「世界の終わり」の表現であり、神殿の幕が裂けたということは分け隔てなく全ての人は救われるということの表現です。本日は固定化された古代の信仰表現よりも、むしろ史実と目される記事や著者マルコが強調していることを積極的に取り上げます。それは、現代を生きる私たちがイエスの「十字架のロゴス(言葉/理)」を福音として受け取るためです。
33 そして六番目の時となって、九番目の時まで闇が全ての地の上に生じた。 34 そしてその九番目の時に、イエスは大きな声で叫んだ。「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」そしてそれは「私の神よ、私の神よ、なぜあなたは私を棄てたのか」と翻訳され続けているのだが。
イエスが十字架上で神に向かって抗議の声を上げたことは史実です。なぜならそれはキリスト教信仰に不利な出来事、謎の発言だからです。「十字架の死に至るまで従順」(フィリピ2章8節)だったと信じられている神の子が、神を呪って死ぬことは信者の信仰を揺さぶります。イエスの従順は全ての人の罪を背負う身代わりの死であるとも信じられています(ローマ5章19節)。「なぜ棄てたのか」と神を呪うよりも、むしろ「自分を殺しつつある人々の罪を赦して欲しい」と神に祈る方がふさわしいはずです(ルカ23章34節)。「犠牲の死」を贖罪信仰といいます。神の意思に不従順な神の子の発言は、キリスト者であるわたしたちの贖罪信仰を揺さぶります。しかし正にそれだからこそ、キリスト信仰や教会とは無縁な人々の心に届く言葉なのだと思います。
マルコによればナザレのイエスはガリラヤ地方で活動をしました。イエスは神を「アッバ(お父ちゃん)」と親しく呼びかけました。この呼び掛けは、当時の宗教指導者たち・神殿貴族たちに嫌われました。「まるで自分を神の子だと思い込み思い上がっている。冒涜だ」というわけです。イエスは当時の旧約聖書解釈にも反対して、あえて「宗教的に汚れている」とされた人々に触れ、客となり、共に食卓を囲みました。女性、障がいのある人、子ども、非ユダヤ人、職業差別を受けている人の友でした。イエス自身は一度も「自分が神の子である」とは言いませんでした。むしろ「人の子」と自分を呼んでいました。その言葉は、「人間以下」とみなされ貶められている人には福音でした。自分もイエスと同じ人の子であり平等に人権を持つということを実感できたからです。それと同時に、その言葉は自分を「より上等な人間」と思い上がり力を濫用する人には危険思想でした。自分たちがただの人の子にしか過ぎないことをイエスによって暴露されるからです。
こうしてイエスは政教一致した権力者たちによって暴力的に逮捕され拷問を受け秘密裁判によって冤罪を被り処刑されます。イエスからすればとんでもない不正義であり不条理です。道半ばの無念の死です。宗教指導者・政治指導者が真摯に神に悔い改めて搾取を止め、貧しくさせられている人々と共に平たい食事を取るという社会(神の支配)が生きている間に実現しなかったからです。「神の支配は近づいた、しかし、神の支配は実現しなかった。神に従い神の支配樹立のために尽力した私を、私の神(アッバ)はなぜ棄てたのか。」
宗教的な救済経験というものは魂の奥底の救いです。人生で直面している、乗り越えられない壁に向かう嘆き、それによって沈殿していく言葉にならない呻き、不条理な苦しみが軽くなる体験です。もし自分の悪や罪がはっきりしている悩みならば先ほどの贖罪信仰が役に立ちます。キリストがわたしたちの罪を取り除くことによって魂は軽くなります。しかしもし自分の悪が見当たらない場合、つまり悪いことをしていないのに苦しめられる場合、贖罪信仰では救われません。さらに言えば、罪からの救いの前提条件である罪の自覚は、精神的な病で苦しむ人をより一層自責の念で苦しめる可能性すらあります。
イエスはあなたの魂の叫びを共に叫んでくれる、人の子・対等の友と信じてはどうでしょうか。イエスは葛藤し苦しむ人を見下ろして嘲ったり、「あなたにも落ち度があったのでは」と二次加害を起こしたりはしません。ただ黙ってあなたの人生の十字架を共に担い、同じ不条理の苦しみを経験してくれます。このイエスを救い主と心に迎え入れるならば、人生の苦難や悩みはそのままの状態で軽くなります。魂の奥底の絶叫と呻きが、共に叫ぶ友の存在によってすくい取られるからです。叫ぶイエスの同伴が魂を救います。
35 そして傍らに立っている者たちの幾人かは聞いて、彼らは言い続けた。「見よ、彼はエリヤを呼んでいる。」 36 さて一人が走って、そして海綿を酢で満たして、葦に巻きつけて、彼は彼に飲ませ続けた。曰く、「あなたたちはそのままにせよ。エリヤが彼を降ろすために来るかどうかを、私たちは見よう。」 37 さてイエスは大きな声をそのままにして、彼は息絶えた。 38 そして神殿の幕が上から下まで二つに裂かれた。 39 さて彼に対峙して立っている百人隊長はこのようにして彼が息絶えたということを見て、彼は言った。「本当にこの人は神の子で居続けた。」
「傍らに立っている者たち」(35節)、すなわち死刑執行人たちは植民地ユダヤを支配していたローマ帝国軍兵士でしょう。彼らはイエスをからかいながら、ユダヤ人全般が持っている「世の終わり」信仰をもからかっています。救い主が来て世界を完成させる直前に、「預言者エリヤ」が派遣されるという信仰です(マラキ3章23節)。もしもイエスが救い主ならば、エリヤがイエスを十字架から降ろすだろうというのです(35-36節)。非常に下品な態度です。支配者ローマ人のユダヤ人の文化習俗に対する軽蔑や差別が明示されています。一人のユダヤ人に茨の冠をかぶせ、罪状書きには「ユダヤ人の王」と記して徹底的に嘲笑い、「ユダヤ人の救い主など来るはずがない」とせせら笑って、虫けらのように殺していくのです。死刑執行人のローマ兵たちはイエスを同じ「人の子」として取り扱っていません。
36・37節に同じ動詞が鍵語として繰り返されています。「そのままにする」(アフィエミ)です。「出す/送る/許す/去る」などの翻訳も可能ですが、これも二度登場する「大きな声」(34・37節)との関係を重視して「そのままにする」としました。つまり、イエスは同じ言葉「私の神よ、私の神よ、なぜあなたは私を棄てたのか」という大声を上げて死んだという解釈です。死刑執行人が飲ませ続けた酢によって、イエスはずっと意識が明確にあり、ずっと同じ言葉でそのまま嘆いていたのです。一人のローマ兵はそれを面白がって拷問し続け、嘲笑し続けることを仲間に強要しています。そして最後にイエスは同じ叫びを上げて死んで行きました。ローマ兵たちは喜びます。人間はここまで下劣になれるのかと思わされる残虐な場面です。
ところがその同じ場にいたローマ兵たちの上官・百人隊長は異なりました。もちろん彼は部下の愚行を止めることや、死刑の中止を命じることはしませんでした。彼の上官であるローマ総督の命令に従わなければならなかったからです。けれども彼は最低限の人間の品位を保ちました。百人隊長だけはイエスと真正面に向き合い対峙していました。イエスのアラム語での叫び声をまともに正確に聞き取り、「エリヤを呼んでいるのではなく、神に抗議している」と認識し、このようにして死んだことがわかった直後に、百人隊長は驚くべき言葉を述べます。「本当にこの人は神の子で居続けた」(39節)。
未完了過去時制は過去の継続動作です。ガリラヤから始まって処刑場に至るまで、イエスが神の子であり続けていたとローマ人の百人隊長は独白します。ガリラヤにもローマ軍は駐留していました。彼はその時からイエスを知っていたのかもしれません。イエスが友としていた人々は、人の子以下の扱いを受けていたので、その人々の日常の叫びは「人にも神にも棄てられた」というものだったことでしょう。嘲笑される側に徹底して立ち尽くし、人を呪わず神にのみ抗議する高潔な姿に百人隊長は感動します。「もしも神が人となるのならば、この人物のように生きかつ死ぬはず。この人が神の子だ。」このローマ人は贖罪信仰なしに、人の子イエスを神の子キリストと言い抜きました。「ローマ皇帝が神の子である」と宣誓しなければならなかった職務にあったのに。
40 さて女性たちも遠くから見るために居続けた。そしてその彼女たちの中には、マグダラ人マリアも、小ヤコブとヨセの母マリアも、サロメも(いたのだが)。 41 そしてその彼女たちは、ガリラヤの中に彼が居続けた時に、彼に従い続け、また彼に仕え続けていたのだが。エルサレムの中へと彼と共に上った、ほかの多くの女性たちも(居続けた)。
マルコ福音書は男性弟子たちを批判しながら女性弟子たちを評価するという姿勢で一貫しています。「居続けた」という動詞に着目すれば、イエスがガリラヤ以来神の子であり続けた(41節)のと同様に、女性たちのみが十字架の虐殺時にも弟子であり続けたことが分かります(40節)。男性弟子たちは全員逃げたのだし(14章50節)、筆頭弟子ペトロはイエスの弟子であることを否定しています(同66節以下)。危険な十字架の周りに居続けた行為は、従い続け・仕え続けたこと、つまり弟子であり続けたことと同じです。
「マグダラ人マリア」はガリラヤの大きな漁港出身者。イエスからの癒しを経験しています(ルカ8章2節)。彼女の人生の叫びをイエスは共に叫ばれたのでしょう。マリアはイエスの復活を証言するキリスト信仰の創始者・教会指導者となりました(ヨハネ20章11節以下)。「小ヤコブとヨセの母マリア」はイエスの実母です。当初イエスの活動に反対していましたがいつの頃からか息子イエスの弟子となって教会の創立者の一人となり(使徒言行録1章14節)、イエスの弟ヤコブと共に指導者となりました。「サロメ」については不明ですが、その他多くの女性の弟子たちだけがイエスの十字架を目撃し、その人たちがキリスト教会を創始したということは史実でしょう。
贖罪信仰は男性弟子たちを救う効果を持っています。自分たちがイエスを殺したという自責の念、さらに保身から師匠の死に目にも会わなかったという後ろめたさを、そのイエスが赦しその罪の身代わりに死んだという信仰だからです。それに対してイエスの叫びを聞き取った女性弟子たちは復活信仰を志向します。義人イエスの虐殺に神は介入し義人をよみがえらせこの地上に正義を実現させるという信仰だからです。彼女たちは喜びの叫びへ歴史を動かします。
今日の小さな生き方の提案は、十字架の共同体をつくろうということです。教会は人の子として同じ叫びを発して一人ひとりを救ったイエスをキリストと信じる群れです。だからわたしたちは不条理の苦しみに叫ぶ友と互いに叫び合いたいと願います。教会は下品な集団心理から距離をとり神の子としての品位を保つ群れです。わたしたちは互いに嘲笑や冷笑から解放され、この世界で叫ぶ小さな一人をじっと目撃し復活を信じ祈り努力したいと願います。