イエスの埋葬 ヨハネによる福音書19章38-42節 2014年10月26日礼拝説教

今日は、まずヨセフとニコデモという二人の人から学ぶことを申し上げます。そして、次に「イエスのよみ下り」と呼ばれること(十字架と復活の間の期間、イエスが何をしていたのか)について申し上げます。

アリマタヤのヨセフとニコデモという二人の最高法院議員は、ヨハネ福音書によれば、イエスを死刑とする裁判に出席していなかった可能性が高いと言えます。共観福音書は、大祭司カイアファの自宅で正式に最高法院が開かれたとします。この場合、議員全員71名の出席が想定されます。ヨハネ福音書は、カイアファの舅である黒幕のアンナスが秘密裁判を仕切っています。この場合、少数の側近だけでも事実上の死刑判決を出せます。そしてカイアファの自宅に移送し、形ばかりの正式の死刑判決を下したかもしれません。ひょっとすると死刑判決そのものが無いままにピラトのもとに引き渡した可能性すらあるのです。アンナスにとって煙たい存在の「イエスの弟子であるかもしれない議員たち」は、決議から排除されていたことでしょう。

つまり二人は、一般の人々と同じタイミングで、イエスの公開処刑を知ったということです。そしてなす術なく師匠は虐殺されます。あの四人ほどではないとしても(三人のマリアとヨハネ)、かなり近くで二人の弟子が十字架を目撃し、そこに立ち尽くしていたのです。無念の思いです。師匠をむざむざと殺されたからです。こういう時残された者は、死者のために何かをすべきと思うものです。最後の手向けは何か、誠実に哀悼の意思を表す行為は何か、二人共に考えていました。

二人は同じタイミングで、大祭司たちがローマ兵たちにイエスの遺体を十字架から取り除けようとしたのを知りました(31節)。「しめた」と思ったことでしょう。彼らは大祭司たちや下役のユダヤ人たちが過越祭の食事を食べるために、死体に触りたくないことを知っていました。自分たちが死体を十字架から取り除ける役をかってでて、そのままイエスを丁重に埋葬することができるのではないかと考えたわけです。ここで打ち合わせがなされたのだと思います。ピラトへの依頼をし、墓を提供する係(アリマタヤのヨセフ)と、亜麻布・没薬・沈香(アロエ)を調達する係(ニコデモ)です。二人の手際の良さは、打ち合わせがあったことをうかがわせます。ヨハネ福音書では十字架刑の時間そのものが短いので、かなり手際が良くないと日没前に埋葬はできません。

彼らはローマ兵がイエスの遺体をぞんざいに扱い、それをもって師匠イエスを侮辱したことを見ています。そのようなローマ兵にイエスの遺体の処理をさせることは、弟子としての良心に反することだったのです。せめて、丁重に埋葬したい、ユダヤ人の習慣にならって弔いたいと願うことは、わたしたちにも理解できる心情です。

アリマタヤ出身のヨセフはここにしか登場しない弟子です。12:42で、ある程度の人数の最高法院議員がイエスを信じる弟子だったことが記されています。彼もその中の一人だったのでしょう。アリマタヤはサマリア地方に隣接する町です。ヨセフがサマリア人と親しいイエスに好感を持ったことも推測できます。ヨセフはイエスの弟子であることを公言できませんでした。それによって地位を失うことを恐れたのでした。71人しかいない自治政府の最高権力者たちの一人です。しかし、この最後の手向けの場面で、彼に勇気が与えられます。

ヨセフは一人でピラトと直接交渉いたします。ピラトからすれば遺体の処分についての命令はすでに発せられていますから(31節)、命令の変更を改めてしなくてはいけません。面倒です。しかしここでピラトはあまり面倒がらずにヨセフの願いを聞きます。熱意が人を動かすのだし、死の場面というものが人を動かすものです(38節)。ヨセフは誰も葬られたことのない新しい墓を買い上げます。イエスの埋葬のために彼は自分の権力と資産を用いたのでした。ここでもヨハネ福音書は細かい事実に強く、刑場と墓の場所が近かったから埋葬が日没前にできたのだと説明しています(42節)。

ヨセフはたった一人で釘を抜き、イエスの遺体を処刑台から抱き抱えました。大人の重さです。ずっしりと重い遺体を大切に扱うのです。血まみれの遺体なのですから、ヨセフの衣服にも血がべっとり付いたはずです。ここには例の四人の弟子もいました。総がかりで遺体を丁寧に拭いたのかもしれません。そこへもう一人の議員ニコデモが登場します。

ニコデモについてはすでに二回登場していました(3:1-15、7:45-52)。彼はエルサレムに来ていたイエスを夜訪問し(39節)、おそらくその時に弟子となっています。だからこそ、イエスが逮捕されそうになった時に、「本人からの事情聴取なしに逮捕し判決を下すのは律法違反・刑事訴訟手続違反だ」と言って、師匠イエスの不当逮捕と冤罪を防いだのです。ニコデモは、おそらく首都エルサレムを地元としている議員です(7:52参照)。イエスの弟子であることを彼も隠していたと推測できます。

師匠イエスの死を前にして、ニコデモは精一杯の勇気をふるって、精一杯の誠意をもってイエスの死を弔います。それが「没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って」くることでした(39節)。「没薬」は、香料となる植物の葉もしくは樹脂です。遺体の臭いを緩和させるものです。また、「沈香」はアロエという綴りの植物です。多分現在のアロエのようなものです。これも植物です。この若干乾燥した葉っぱの類を百リトラです。リトラはリットルの語源ですが、現在のリットルの三分の一から四分の一ぐらいの重さを指します。それを遺体に添えて、その上から亜麻布をかぶせるのです。大人一人の遺体のために、25から33リットルぐらいの葉っぱが必要だったのでしょう。

五人の弟子が遺体をきれいにしているころ、没薬と沈香を混ぜた植物を一抱え持ったニコデモが十字架のもとに戻ってきます。先に亜麻布を広げて地面に敷きます。その上に没薬・アロエを人の大きさに敷きます。その上にイエスの遺体を安置します。その上にまた没薬・アロエをかぶせていきます。最後に亜麻布を巻くようにして、遺体を包み込みます。十字架の捨て札には「ユダヤ人の王」とあります。ユダヤ人の王らしい葬り方をしたいというのが、六人の弟子たちの共有する思いでした。

六人の弟子はイエスの遺体をヨセフの所有する墓まで運びます。距離は近いけれども、とてつもなく長く感じられる道のりです。彼ら/彼女らにとって唯一無比の師匠イエスが死んだのですから。そして埋葬するということは、ほとんど最後の別れを意味するのですから。わたしたちの習慣に照らせば、火葬する直前のあの道のりに似ています。

ユダヤ人の王として生まれたイエスは(マタ2章)、ユダヤ人の王として殺されました。生まれた時に果敢な冒険家である外国人から礼拝された神の子は、死刑囚として殺された時に少数の勇気ある弟子たちによって惜しまれながら埋葬されました。この弟子たちの振る舞いにわたしたちの模範があります。わたしたちも自分たちの習慣に従った葬儀を行っているからです。

「教会で行うキリスト教式葬儀は価値が高い」などと申し上げるつもりはありません。特にプロテスタントの教会は、葬儀を秘蹟(救いの条件となる儀式行為)と考えません。場所・司式者・方式を権威付ける理由は無いのです。

もう少し別の意味で、葬儀というものは重要な通過儀礼です。その人の人生に敬意を払うという意味で大切です。遺体がぞんざいに扱われ、打ち捨てられている状態は良くないのです。戦争や災害等で行方不明となることの悲惨を思います。また、名前を奪われた状態で「無縁仏となって野垂れ死ぬ」ことは良くないのです。死刑囚も含めすべての人は死んだ時に遺体を丁重に扱われ、それをもって生き抜いた人生全体が尊重されるべきです。六人の弟子たちが勇気をもってイエスを埋葬した出来事は、この大切な基本線を示しています。

教会が葬儀を頼まれる場合があります。そのような場合、特に困っている人からの頼みの場合、なるべく引き受けていくおおらかさが必要でしょう。イエスの葬儀が世界から締め出された人の葬儀であったからです。

また、わたしたちは生きていく上で組織の中で仕事をします。組織の中で浮いてしまったり叩かれたりする行為をしたくないものです。仕事の場合生活がかかっていますから深刻です。自分のできる範囲で勇気のある行動を取れば良いと、今日の聖句は進めています。ニコデモとヨセフのその後はわかりません。出来事に出くわしたその瞬間に、自分の良心に照らして精一杯誠実に生きるだけで十分です。とっさの良い判断は日頃の良心的生き方の賜物です。

さて話題を「キリストのよみ下り」に移します。十字架で殺されたキリストは、三日目によみがえらされるまでどこで何をしていたのでしょうか。ヨハネ福音書の著者にとってはあまり興味のない話題ですが、後の時代の教会にとっては重要な話題です。ペトロの手紙一3章18-22節を読みましょう(432頁)。

ここには、キリストが霊の体となって、ノアの箱舟に乗り込まなかったゆえに死んだ人々に宣教したということが書かれています。そして洪水はバプテスマの水のたとえとして考えられています。面白いことに、水そのものに人を救う呪術的な力があるのではなく、バプテスマは「神に正しい良心を願い求めること」と考えられています(21節)。

この聖句はキリスト教世界に生きていないわたしたちアジア・アフリカの人々にとって希望となるものです。ここにいるすべての人の親戚・縁者・知人にキリスト教に触れることなく死んだ人がいます。その人は宗教的な意味で救われているのでしょうか。その人たちに対しては失礼な問いだてですが、愛すればこそそのように問わざるを得ないのです。

「神に裁かれたゆえに殺された」と巷で噂される人もイエスと出会います。理由もなく苦しみ死んだ人もそうです。イエスの霊のからだは時空を超えます。大昔の人であれ・これから生まれる人であれ、天上の人・地上の人・地下の人ともキリストは会うことができ、福音を宣教することができます。救いについての一切は、キリストの自由な恵みに信頼すれば良いということです。

「愛する配偶者・親・子と別の天国に行くぐらいならキリスト者になりたくない」と言う非キリスト者もいます。「気にしないでください」と言いたいものです。逆に「あなたも地獄に行きたくなければバプテスマを受けて救われなさい」と言うキリスト者もいます。「それは失礼な言葉ですよ」と言いたいものです。バプテスマを受けて救われるわけではありません。イエス・キリストの恵みと宣教の業によって人は救われるのです。救われた人がバプテスマを受けて、良心的な生き方ができるように願い求め、永遠のいのちを生きることを追い求める、この順番を大切にしたいものです。

結局ここにおいても愛が基準です。愛を成し遂げたイエスが、死後も愛を行わないはずはないという希望がわたしたちにはあります。イエスを信じる者は、すべての人に愛を行うという期待が寄せられています。だからその愛は死者にまで及ぶと考えるべきなのです。愛の実践が教理に勝ります。教会が行う儀式はすべて愛を基調にし・愛を基準に行うべきです。